02.
突如現れた絶世の美男が放った一言で会場内の空気が変わっていくのを、エリーゼは肌で感じていた。水面に一滴のしずくが落とされ波紋が広がるように、今まで自由に騒いでいた生徒たちに静かな動揺が広がってゆく。
分かりやすく視線を向けてくる生徒はもちろん、気がついていないふりをしている生徒もこちらに注意を払っているのが気配で分かった。
先ほどまでエリーゼとエドマンドが言い争っていた時には見向きもしなかったくせに。今は誰もが、突如始まった面白そうなイベントを見逃すまいと野次馬と化している。
やはり世間は美形の一挙一動に注目してしまうものらしい。今、会場内で最も注目を集めているのは、間違いなく目の前の美男と、ついでにエリーゼであった。
渦中にいるエリーゼはというと、降って湧いた美しい男からの求婚に浮かれた。ということは全くなく、面識のない美形に突然求婚されるという、訳の分からない状況に混乱していた。
それと同時に、言い合いに夢中だった時には頭から抜けていた周囲の人々の存在を思い出し、今更ながらに公衆の面前で盛大に醜い争いを繰り広げていたことが恥ずかしくなってきていた。
人目を憚らず馬鹿騒ぎをしていた自分を、どうか見ないで貰えないだろうか。エリーゼは心の中で願った。
もちろん観衆の目的はエリーゼの目の前で微笑んでいる美青年だろう。自分にはさしたる興味がないのは分かっている。それにしたって、醜い争いをしていた直後に人目を集めるのは決まりが悪い。
「ああ、申し遅れました。私はアルバート・ウィンダレイクいいます。この学園の卒業生で、現在は第一騎士団に所属しております。」
エリーゼが遅れてやってきた羞恥心に小さくなっている間に、目の前の男はそう名乗った。
名乗る前にプロポーズだなんて、いくらなんでも発言の順序がおかしくないだろうかという思いが一瞬頭をよぎる。しかし、威風堂々とした美形特有の圧と、名前を聞いた生徒たちのどよめきに、その思考はかき消された。
ウィンダレイク、その名前には聞き覚えがあった。
確かエリーゼ達の入学と入れ違いに卒業した学年の生徒の中に、同じ名前の人物がいたはずだ。
エリーゼがなぜそんな事を知っているかというと、ただ単に彼が大変な有名人であったからである。
伝え聞いたところでは、その生徒は名門も名門の公爵家の嫡男で、眉目秀麗頭脳明晰、おまけに性格もよく剣の腕も一流で、老若男女生徒教師問わず、学園中の人間が彼にメロメロだったらしい。
何でも彼が歩いた後の道は光り輝き、彼が笑うと季節外れの花が咲き、彼が憂いをのぞかせようものなら、彼を励まそうと夜であっても太陽が顔を覗かせたという_____。
それが、アルバート・ウィンダレイクという男である。
その伝説的人物がなぜ自分に。エリーゼはもはや怖かった。自分と彼とは、顔を合わせたこともなかったはずだ。
しばらく戦慄していたエリーゼだが、周りが異様に静かなことに気がついた。さりげなく周囲を伺うと、皆息を潜めてこちらを凝視している。どうやらエリーゼの返答を待ち構えているらしい。
野次馬達がどんな返事を期待しているかは知らないが、エリーゼはこの求婚を断るつもりだった。
自分の性格にミーハーなところがあるのは否定できないが、さすがに初対面のプロポーズを二つ返事で受けるほど無鉄砲では無い、とエリーゼは自負している。
とにかく断らなければ。なんと断れば良いのだろうか。口実に使えた筈の婚約者はつい先程「元」婚約者になってしまった。やはりここは無難に、お互いのことを知らなすぎるからとでも言うべきだろうか。
混乱でまともに働かない頭で、断りの口上をぐるぐる考える。
すると突然、隣から囁き声が聞こえた。
「おいバカ、なに黙ってるんだよ、さっさと断れよ」
思わず横を向くと、何故だかエドマンドが怒ったような顔でこちらを睨んでいた。あんなに言い争っていた先程よりもあからさまに不機嫌そうな顔をしている。
その顔を見ていると、静まりかけていた怒りが再びフツフツと湧いていくのを感じた。
今困っているのはエリーゼの方なのに、どうしてエドマンドが怒ってるのか。そしてなぜ偉そうに指図されなければならないのか。馬鹿とはなんだ。そもそもエドマンドが婚約破棄なんて言い出さなければこんな事にはならなかったかも知れないのに!
己も同罪であることは棚に上げ、エリーゼは激怒した。必ず、この傍若無人の幼馴染みに一泡吹かせねばならぬと決意した。そうしてエリーゼは理性も常識も放り出し、走り出してしまったのである。
深くは考えずにまず行動するのが彼女の美徳であり、致命的な短所でもあった。この時のエリーゼにとってはエドマンドの意表を突くことが第一であり、その結果どうなるかなど考えていなかったのである。
そして勢いに任せて口を開いた。
「お気持ち、大変嬉しいですわ。とは言えここですぐにお答えするのは憚られますし、もう少しお互いを知ってからお返事をさせて頂けますか?」
そう言って彼女は美しい求婚者に微笑みかけた。
周囲からは歓声とも嘆きともわからぬ絶叫が響き、その声でエリーゼはハッと我に帰った。
またやってしまった。常日頃からお前はもっと後先を考えろと言われているのに。
隣の男がどんな顔をしているのか、怖くて見ることが出来ない。
エリーゼの脳裏にはすでに非常に大きな「後悔」の二文字が浮かんでいたが、もう後には引けなかった。
アルバートはその返事に、その考えももっともだと頷き、前向きな返答を貰えて大変嬉しい旨を告げ、それではまた後ほどと爽やかに言い残して、学園長に挨拶すべくその場から去っていった。どうやら彼は、この学園の卒業生として学園長に招待されていたらしい。
さすが太陽までをも虜にする男、確かに歩いた後が僅かに発光している気がしなくもない。エリーゼは遠のく意識との中でそんな事を思った。
そのまま気絶してしまえば楽だっただろうが、生憎エリーゼはそこまで繊細な心と身体を有していなかった。とは言えあんな騒ぎがあった場所にそのまま居座れるほど図太いわけでもない。観衆もこちらに注目したままだ。
結局、隣の婚約者だった男の方を見る勇気がないまま、彼女は逃げるようにその場を後にした。