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雪ごいのトリプレット The Lovers  作者: 梅室しば
三章 裏庭に棲みついたもの
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チョウザメの式神

「利玖ちゃん」

 後ろ向きのわずかな牽引力を感じて、利玖は足を止めた。

 振り返ると、史岐がどこか申し訳なさそうに眉尻を下げて、上着の裾をつまんでいる。

「もうちょっとゆっくり行こうか」

 何度言われたかわからない、その言葉に、利玖は顔が熱くなるのを感じながら頷き、歩く速度を落とした。

 目の前を哨戒していた〈須臾〉は、人間達のやり取りなど意に介さぬ様子で、なめらかに体をくねらせて廊下の先へと泳いで行く。


──この子らには、先頭で見張りをさせるのがいいだろうね。


 別海の声が耳の奥によみがえった。

 式神である〈須臾〉は、普通の魚に比べて遥かに丈夫な体を持つ。さらに、いくつかの鳴き声を組み合わせて簡単な意思疎通が出来る知能も備えている。

 だが、体の造形は実在するチョウザメを忠実に再現しており、水底に沈んだ餌を食べる為に下向きについた口では、矢を咥えさせて直接つごもりさんの元へ向かわせるのは困難だった。

「待て」や「進め」、角をどちらに曲がるかなど、基本的な指示の出し方を別海から教えてもらって、利玖と史岐、柊牙は〈須臾〉を先頭に廊下を進んでいた。

 危険がないか調べてもらう為に先行してもらっているのだから、自分が追いかけてしまったら意味がないとわかっているのに、この不思議な魚にどうしようもなく興味を引かれて、気がついたら早足で〈須臾〉の跡を追っている。一人だけ集団から離れてしまって、それとなく注意されるのは、落ち着いて思い出してみればもう三回目だった。

「迷わず進んでくれて、賢い式神さんですね」黙っていると恥ずかしさばかりが募る気がして、利玖は小声で呟く。

「たまに後ろにも回って、変な奴がついて来ていないか確認してくれているみたいだよ」

「え、本当ですか?」

 訊き返してしまってから、利玖は赤くなった。

 覚えていないという事は、自分はその時も〈須臾〉にくっついて観察するのに夢中になって、周りの事などまるで見ていなかったのだろう。

 話すほどに自分の危なっかしさが露呈するように思えて、利玖はしばらく口を閉ざしてゆっくり歩いた。

 どの窓にもカーテンがかかっていたが、庭に積もった雪がリフレクタの役割を果たして、氷を割ったようにひややかな月光を室内に投げかけている。別海が作り出した水面もまた、本物さながらに光を反射していた。

〈須臾〉が水をかくたびに水面に波紋が生まれ、壁や、何かの台にぶつかると、入り乱れて向きを変え、足元に打ち寄せてくる。

 それをぼんやりと見下ろしていると、利玖は、銀河にたゆたう星々の波を眺めているような気持ちになった。

「式神をどうやって作り出すのか、わからないのですけれど……」利玖は、ぽつっと言った。「でも、無からエネルギィが生まれてくる訳ではないのでしょう? 二体も作って、それを別々に動かして、別海先生のお体は大丈夫なのでしょうか」

「僕もあまり詳しい訳じゃないけど……、そう、リスクは大きいと思うよ」

「リスク?」

 史岐は頷く。

「式神は一種の分身だから、精巧に作れば作るほど術者自身との結びつきが強くなる。そうなると、式神が負った損傷の何割かが術者に返って来る事もあるらしい」

 利玖はぎょっとして、前にいる〈須臾〉を指さした。

「じゃあ、あれは別海先生に斥候をさせているようなものじゃないですか?」

「違う違う」史岐は首を振って苦笑する。「なんか、利玖ちゃん、生返事だなと思ったけど、やっぱり話聞いてなかったんだね……」

「この水のある所では心配しなくて良いんだとよ」二歩ほど下がった所を、ポケットに手を入れてのんびりとついて来ている柊牙が答えた。「水に浸かっている間は、式神達は、鎧に守られているようなもんで、不意打ちを食らっても数回は持ちこたえられる。それでも劣勢が続いて、いよいよまずいと思った時には、水中に潜って姿を隠し、安全に使役主の所まで逃げられるルートが確保されているんだと」

 利玖が「へえ……」と目を丸くして感心していると、史岐が思案顔で顎をさすりながら足元に目を落とした。

「たぶん、式神以上に、この水の方にリソースを割いているんじゃないかな。柊牙が話した事をやろうとするだけでも、途方もない計算と技術が必要だよ。才能もいくらかは求められると思う。その上、一緒に行動する人間がどこまで進んで良いかわかるように、現実の水に似せて可視化までして……」

 その時、潜水艦がピンを打つような、ポーン……、という音が水を伝わって響いてきた。

〈須臾〉の鳴き声だ。──自分達に何か知らせようとしている。

 その事に気づいた三人は喋るのを止め、さっと目配せをし合うと、めいめいの記憶をたどって、〈須臾〉が何を伝えようとしているのか聞き取ろうとした。

 やがて、史岐が一番最初に口を開いた。

「つごもりさんに追いついた……」

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