笹川 颯理の憂鬱
蛍光灯が眩しくて気が付かなかったが、仕事がひと段落して、窓の外を気に留めると、すっかり黄昏時になっていた。最近はいつもこうだ。疲労が着実に溜まっていることは知覚できるので、きっと働き詰めだったのだろうが、緊張の糸が弾ける頃には、あっという間のできごとに感じる。この哀愁は、明日、明後日で文化祭が終わってしまうからなのかなぁ。
「生徒会3人で回すのは結構きついわね。人員増やそうかな。働き方改革~」
「今年の実行委員はぁ、みんなやる気がみなぎってるもんねぇ。あっこれはエナドリ」
「常葉、これ以上ささっちゃんをこき使う気?」
「これ、ヤバいですよね。受験の時に飲みましたけど、心臓がバックバクするんですよ」
「じゃあやめときな。だいたい、今日の業務はもう終わりだし」
蒔希は机の上のエナドリを取り上げて、当然と言わんばかりの表情で、一気に飲み干した。
「味変わった?」
「さあぁー、たまにリニューアルしてるんじゃなぁーい?」
「そう言えば、それ常葉先輩がここに置いた時点で開いてましたよね。なんか毒でも盛られたんじゃないですか?」
「何入れたの、常葉」
「スピルリナー」
常葉は満面の笑みでスピルリナの在庫を自慢した。どれだけ毒々しい色になっていたのか、先輩の口の中を覗くのは申し訳ないので、気になるけどここはぐっと抑えた。
「さっ、早く帰って早く寝なよ、ささっちゃん」
「お疲れさまでした……先輩方は帰らないんですか?」
「一回合わせて練習しようから、帰ろっかなーって」
「忙しくて、全然ベース触れてないからなぁ。時雨っちに笑われないだろうか」
「そんなことないですよ。和南城先輩のベースが、少なくともこの学校では一番です」
「ささっちゃん……」
特に蒔希がまごついてる姿を見て、時雨の存在を思い出して、とっさに口を覆った。でも先輩たちにそれだけ愛されて、しかも今ごろ家でゴロゴロしているであろう彼女に、ジト目でもしたくなった。
明日も早くから仕事があるので、名残惜しいけれど、荷物を持って、非常口の電灯だけが不気味に光る廊下に出た。
「よっ、おぉつかれさまー。残業ないだけ、優良な職場だね」
ギターを背負った嘉琳が、偶然たまたま奇跡的に通りがかった。中々様になっている。多分、私よりもずっと。
「今終わったところですか?」
「いや、物理部に行ってた。ちょっと顔出すだけのつもりが、準備が終わってなくて、私も駆り出されたんだ……」
「すいません、リハーサル代わりにやってもらって」
「そっちこそ、遅くまで準備大変だったでしょ。なーんか、文化祭ごときにそれだけ熱心に取り組めるの、尊敬するわー」
私はしばらく何も言い返さないでおいた。嘉琳の言い分もわからなくはないが、頑張れば楽しむことだってできるのだから。
「って、体制派の颯理に言うのは良くないよね」
「そうですよ。人によって態度変えてください」
「颯理ってどこ中?」
「話続かなくなったからって、今さらその話振らないでください」
「じゃあ好きなアネクドートでも披露するー?」
「あの、私もリハーサルしたい。やっぱり不安だから」
学校の外に出る一歩直前でようやく立ち止まれた。癒えないトラウマさえも、準備に忙殺されていたら、意識から抜け落ちていた。でも一息ついて、ギターを背負った嘉琳が隣にいると、いつもの自分に戻ってしまった。リハーサルと本番は全然違う。どうせやっても無意味。けれどやれることは何でもやらないと。
「えらく小心翼々としてらっしゃるわね。体育館開いてるかな。もう鍵閉まってたり」
「あっその……やっぱ無しで!」
「やっぱ無しはないでしょ。だいたい、時雨がオリ曲になんか修正出してたし、一回やってみたら?」
嘉琳が体育館のほうへ踵を返したので、付いていかざるを得なくなる。ライブのことを考えると、急に気が動転して、何かをしようとしては強引に棄却しようとしてしまう。溜息が私の情けない部分まで吐き出してくれたらいいのに。
弱気で周囲の表情をうかがっている、いつも通りのふるまいをしていたら、体育館に戻ってきていた。何やら話し声と、今流行りの曲が聞こえてくる。
「おあー?なんか和南城先輩たちが練習してる。ちょっとここで待つかー。今のうちに呼吸を整えて、らるげっちょしなよ」
「別に、リハーサルごときで何大げさなこと言ってるんですか」
「そう、リハーサルごときとか、こんなの無意味って自己暗示すれば、なんか、いい感じになるでしょ、知らんけど」
「おぉーこまりですかぁー、なのー!」
「うわっ、えっと、宇野木 黎夢だっけ。阿智原さんに死ぬほどヘイト買われてる」
「知り合いですか……?」
「いや、討たねばならぬ敵。なにせうちの阿智原さんに、触れるどころか、抱きついたんだからな!くそっ、私が完璧な結界を張ったのに、あっけなく突破しおってっ!」
こういう地団駄の踏み方をしている時は、相手にしなくていいのはわかっているのだけど、何か元になった逸話があるわけで、そこには興味がある。とっても失礼だけど、この学校で最も触れがたいのは桜歌だと思う。言葉のナイフで武装して、透明で刺さるまで存在を認識できない氷のとげで、彼女の肉体は保護されている。そっそれなのに、ほっ抱擁なんて!
「なんか、おんねんがあるみたいだから、なんかあげるのー。ほしいもの、持ってる範囲であげるね」
「えっ、特には……」
「人を人だと認識しない、強い覚悟が欲しいですっ!」
「そもそも、ここで何してるの?」
「あの人たちが練習終えるのを待ってる」
「そっかぁー。それなら……」
ジョークはジョークとして笑えないといけないことを学んだ。失敗から学ぶことはとても重要なことである。それはそうと、黎夢は忘れてしまった友達にハンカチを貸すように、拡声器をブレザーの裏から取り出した。
「はい、正義の象徴、拡声器。これで己の正義を叫ぼー!」
「おっ、さんきゅーっ。これがあれば戦える」
嘉琳は、少しばかり欲のある人がスーパーで試食を受け取る感じで、メガホンを首から下げ、そして体育館の中に入っていった。
「あーっ、あーっ、この体育館に爆弾を百万個仕掛けたー。死にたくない奴は今すぐ出てけー」
やはりここらでは有名なので、ステージに上がった古の炊飯器のメンバーだけでなく、観覧してそうな生徒がちらほらいて、三分咲きぐらいの盛り上がりを見せている。どう転んでも先輩が多いが、嘉琳はとどまる所を知らない。今度は声涙ともに下りだした。
「うぅ……、俺はな、何十年も魂のビートを世界に届けてきた。だが誰もわかっちゃくれねぇ。わからなくてもいい、感じてくれさえすれば。でもみんな、俺をこどおじ、こどおじって罵る。俺は、俺はこのせ゛か゛い゛か゛き゛ら゛い゛た゛ぁぁぁぁ。お前らと一緒に、死んでやるぅっ!」
「すごい、迫力が違うのー」
黎夢は鷹揚自若としているが、私は段々嘉琳に呑まれてきた。例えば、将来就職もできず、お嫁さんになることもできず、周りが幸せな生活で落ち着いていく中、暗い部屋で孤独死といかに良い隣人関係を築けるかに注力するだけの人生しか無くなるのを、私が明後日のステージに対して感じているのより、ずっと強く怖がっているのかもしれない。次の瞬間には嘉琳の横にいた。
「大丈夫です、きっと、絶対嘉琳さんにもいい相手が見つかりますっ。世界には40億人も男性がいるんですよ」
「でも女性も40億いるし……じゃなーい。ほら、お前ら死にたいのかー。はい、出てった出てった」
「もう、生意気な後輩ねぇ。ここは明け渡すから、百万個の爆弾は片付けなさいよ。一個でも爆発したら、あなたの人生はこどおじ確定よ」
なぜか蒔希が協力してくれたので、群衆は一斉に退散していった。がらんどうとなった体育館、ステージをみて足がすくむ。しかし、嘉琳はぴょいとステージに上がり、機材の調節を始めた。いや、今はまだ、観客が嘉琳と黎夢ぐらいしかいない……なんか小川がいるけど。
「友人の晴れ舞台、見たくないわけないじゃん」
「今日じゃないよ。明後日が本番」
「そうだけど、うん、そのくらいがちょうどいいね。力みすぎないで」
小川は何か含みを持たせながらも、笑顔で私の肩を押した。
「おーい時雨、今からReリハーサルするから、学校戻ってきて」
「はぁ?いくら積んでくれるの」
「金で動くのかよ」
「結局世の中金ってわけよ」
「やっぱりこいつダメだぁ」
「というか、何始めようとしてるの、事情を説明して」
「颯理を入れて、リハーサルしようかなーって。私が演奏するわけじゃないでしょ」
「それなら、今時誰でも無料でオンラインセッションできるんだし、それで良くない?」
「なるほどー、でも回線大丈夫?そっちは」
「馬鹿にしてんのか、FPSゲーマーやぞ」
「じゃあ問題なさそうね……」
時雨が嫌々な演技をしつつも、オンラインで参戦してくれた。ついでにボーカルは黎夢が、ドラムは適当に嘉琳に叩いてもらうとして、もはやこれはしゃもじ連合なのかどうかわからないが、全てを小川一人に捧げた。どんな表情で、姿勢で、心境で見上げていたのか、垣間見る余力すらなかった。
……拍手しながら小川がステージに、静寂を潜り抜けて近付いてくる。ついに彼女の喉につっかえていたものが取れたかのように、ごく自然な表情で。
「ぬわーっ、アイドルはお触り禁止なのー!」
「お前に用はな……なんだ?今の?」
「どうしたの?」
「あー、何でもない。えっと、良かったよ。音楽に疎いから薄っぺらいことしか言えないけど、ソロパートかっこよかった」
「あーっ、それ私が作ったんですぅー。なんてったって、しゃもじ連合で一番目立たんといかんのは颯理ですからー」
「作曲も丸投げしちゃってすいませんね……」
「いいよいいよ。私にも一つできることが増えて万々歳だし。颯理は打ち上げどこでやるかだけ考えといてくれれば」
「そこは大丈夫です。抜かりありません」
したり顔でそう言ってみたはいいが、時雨からこっちの表情は見えないんだった。
「それって私も行っていいの?」
「いいなぁ、私も行きたい。颯理が酔い潰れてる姿、一度はお目にかかりたいかも」
小川が何を言っているのか、理解に苦しむが、まあこの二人ならば、日頃お世話になっているし、打ち上げに参加するのも妥当だろう。横を見ると一人、うずうずして、片足を軸に回りだした人がいた。
「れむも行こうかなぁ」
「それはダメだよ。あんた誰やねん」
「メンバーの友達ぐらいはおっけーじゃないの!?れむはちばにゃんの友達だから」
「阿智原さんは来ないから、参加資格ないわね」
「そんなぁっ!?説得してよ!」
黎夢は私にそう迫った。
「それはあんたの役目だろうに。阿智原さんを呼べたら……うそうそ、何でもない」
「わかったのー!絶対連れてくるのーっ!」
黎夢は私を軽く跳ね飛ばして、次は嘉琳に迫った。あー、非合法的な手段に訴える可能性があるってことか……。嘉琳は頭が切れるなぁ、もう手遅れだけど。




