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思い立ったが淡雪  作者: Ehrenfest Chan
第5話:文化祭事変
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リーマン面お化け屋敷

 世は文化祭の準備に追われているみたいだが、きっと隣の部屋でさえ、何か一つの大きな物を作り上げようと盛り上がっていることだろうが、ここ418ゼミ室はいつものように静寂一色であった。


 私に限って “燃え尽きる” という現象が降りかかるとは予想してなかったのだが、数学オリンピックも終わって、同志に祀り上げられたものだから、数学そのものと距離を取りたくなってしまった。まあ、人生は数学ではないし、この症状を利用してバケットリストを埋めよう。


 というわけで、休み明けにテストがあるらしいし、英単語でもぼちぼち覚えようと思って、単語帳を開いている。そうそう、私は英語が同年代にしては堪能なほうだと自負していたのだが、外国の人と話して身に染みた、全然日常会話ができない。数学の論文って、定型文の集まりだから、また別の能力が問われていたらしい。


「私が何か出題してあげようか?英単語」

「別に、自分でできるんで」

「本当?じゃあtermの意味は?」

「用語とか……項、かな。なんか色々意味あるから、他にもあったような……」

「条件っていうのもあるわね。じゃあconsiderationはどう?」

「considerで考えるっていう動詞だから、それの名詞形、まあ考慮とかそんな感じかな」

「約因ね。うーん、suitは?」

「適合する」

「訴訟だよ」

「わざとマイナーな意味拾ってない……?」

「契約書用語よ」


 この古典的な賢ぶり少女は、我らが数学部の部長だ。いやまあ、実際その頭脳は折り紙付きなんだけど……。向こうも暇に耐えかねたのだろう。わざわざ単語帳閉じてまで聞くことじゃなかったけど、ため息はつかないであげよう。


 お、来客だ。わざわざ夏休みに登校してくる数学部員なんているはずがないし、何者だろうか。自然と体が身構えていた。


「ようこそ、数学部に。あー、お茶でも出せたら良かったんだけど……」

「幽霊部員さん?」


 わざわざ数学部のアジトに足を踏み入れた酔狂な奴らは、嘉琳と時雨だった。私は三夜を共にした仲だが、部長が知っているはずなく……真っ先に部長が幽霊部員を疑うなんて、この部活、酷すぎませんかね。


「違うでしょ?」

「まあ、数学部は幽霊部員多そうだもんね」

「公称何人なんです?」

「15人、そのうち半分はここに来たことすらないと思うけど。あっいいよ、座りたければ座って」


 しかし二人は何しに来たんだ。そんなに暇じゃないだろうに。部長は投げやり気味に数式を書き殴った数学の課題をよそに、二人をじっと見つめている。


「そうだなぁ、紹介しよう。こちら、我らが数学部のブラーマグプタ、部長だ」

「そんな気しかしてなかった」

「だろうね」

「下手なこと言うと、ケツにM141突っ込むわよ。あっ、よろぴく~」


 部長は淡々と堂々と悠々と、引き笑いを誘った。でも彼女たちは訓練されてるからなぁ……。


「で、何しに来たの?二人は」

「ただ文化祭に浮かれる校内を散歩してただけだよー。ここクーラーの効きが良くて快適ーっ」


 時雨はそう言って足を軽く上げた。偏見だがどこでも寝られそう。


「そそっちこそ、そっちは何やってたんだ!」

「なんで喧嘩腰……?」

「まあちょうど良かったよ。数学部も文化祭で何か催しができればいいなーって思ってたんだけど、一般人が楽しめるものがわからなくて。一般人としての意見が聞きたい」

「小川は胎児の頃からママの腹の裏側に、コラッツ予想の証明書くぐらいイカれてるから、普通の感性がなってないのよ」

「何か生々しいからやめましょうよ、そういう冗談……」

「文化祭の出し物?そんなの無難に自分の論文紹介でもしたらいいんじゃない?」

「そう、それはね!私も最初に思い付いたよ!」


 私は会議室にありがちな長机を、スケボー選手真っ青なスタイリッシュさで飛び越え、嘉琳の手をしっかり握った。無論、固い握手が交わされるわけではない。腕相撲が始まる。腹から声を振り絞り、目力で場外乱闘をこなす。しかし5秒もしないうちに、私たちは力を引っ込めた。


「肘痛い」

「うん、半袖だから守られてないし」

「馬鹿なことはやめよう?」

「そうだね嘉琳、これからはお互い仲良くやろう」


 そしてもう一度固い握手を交わすと永劫回帰、すっかり肘が赤くなってしまった。


「腕相撲でいっか」

「いや、数学に絡めないと。数学好きの一匹狼が、籍すら置いてくれなくなるわ」

「一般受けもそれなりにしつつ、名前のない数学家に『うおー、この数学部、ちゃんと数学してるーっ』って唸らせるには、自分の拙稿を引っ張り出すしかないと、私も思うんだけどなぁ」


「何が問題なの?物理部見てきたけど、研究成果を発表しようとしてる人もいたよ?」

「物理はね、理論部分はわからなくても、実験結果とか結論は派手でわかりやすいじゃない。数学は延々理論部分の話をされるから。退屈で仕方ない。私も聞きたくない」

「さあ、どうなんでしょうね?常温常圧超伝導って言われても、普通はすごーいってならないでしょ」

「そもそも高校生程度の専門性でさえ、親御さん方は理解できないから。あの人たち、何ならできるの?」

「足し算?」

「足し算ができれば四則演算が実装できるわね」

「見くびったらダメだよ。繰り上がりが出てきた瞬間に、太鼓のバチを一心不乱に研ぎ始めるんじゃない」

「それだと加算器としても使い物にならないね……」


 私たちは半笑いで、多分とんでもないことを言っている。近衛兵に庶民がぼこぼこにされてる様子を、古の貴族がバルコニーから眺望してる時って、こんな感じだったのだろう。


「それは煽りにしても、実際xとか変数が出てくるだけで、アレルギー反応を起こす人が大半だからなぁ」

「じゃあ全部国民的人気キャラクターに置き換えよう」

「角立 琥珀にする?」


 時雨の表情が真っ黒に染まった。だからどうして、いちいち人を貶めようとするんだ……。しかし慣れっこみたいで、嘉琳は余裕で攻撃を流した。


「さて、小川女史にそんな絵心あるかな?」

「絵心?今はまだないけど……。大自然の中、鳥のさえずりをBGMに、イーゼルを展開して、目に飛び込んできた景色を、今まで体感してきた全てを絵の具にして、キャンバスに描き切るっていうの、やってみたいなぁ。文化祭とかどうでもいいから、一緒に行かない?」

「それはいいじゃない。当日は、私が虎視眈々とここに座ってるから」

「いや、これは冗談ですよ、部長。この学校で一番文化祭を心待ちにしてる自信あるんで」


 文化祭当事者なんて、人生で3回しか経験できない。まあ、大学の学園祭を加えたらもう少しモラトリアムを延長できるけど。それはそれで儚げがない。


「いやー、こんな何の専門性もない私たちと話してても、決まらないんじゃない……」

「その観点で評価するなら、時雨だけだけどね」

「うーん、プロゲーマーになるかー?」

「安心して小川。先代の部長から預かってるものがあるから。たとえブレジネフでも、勝手に瞠目してくれる代物が……」


 部長は私の肩に手を置きつつ、ノートパソコンを取り出した。画面上では、緑色の光が気持ち良くうごめいている。覗き込んだ全員がしばらく目を離せなくなっていた。


「お、ライフゲーム」

「確かに、見てるだけでも楽しめるし、でも説明できることは尽きないからいいね」

「そう、力作ならインターネットにいくらでも落ちてるから、用意するのも楽。まあこれは、先代が残した遺産だけど」

「じゃあこれにしましょうか」

「いいと思う、文化祭って感じがする」


 時雨からの賛同も得られた。


「ねぇ、これって私が発案したことにならんか?」

「嘉琳はその小さすぎる名誉を手に入れて何がしたいの?」

「ライフゲーム発明って物凄い名誉では?」

「いい、歴史の書き換えは、忙しい現代人が片手間でできるほど甘くないよ」

「そっか~」


 やっぱりこの人たちには油断も隙も無い。打ち出されていく宇宙船を見て、脳内でもSFロマンの塊みたいな領域が活性化して、それで嘉琳にとって一番印象的なSF作品が時間遡航系だった、みたいな?確かにライフゲームには、新しい宇宙が広がっている。


 そんな中、最初に飽きたのは部長だった。部長は、深く考えようという気にもならなかった、部屋の隅にある段ボール箱3箱を手繰り寄せた。


「そうそう、小川が欲しがってた本、全部買ったので。持ち帰ってね、邪魔だから」

「欲しがってた本?」


 そんなに熱烈に、あれが欲しい、これが欲しいと、部長の前で無様なことを申した記憶はないし、誕生日はとっくに過ぎてるし、よく思い返してみるとこの箱って何日も前から置いてあるような……。まあ百聞は一見に如かずなので、さっさと中身を確認した。


 驚いた、私が欲している本がたくさんだ。欲しいものリストと照らし合わせてみても、完璧に一致している。必死に検品する私を、部長は一糸も乱れず観察するので、手汗がじんわりと出てきた。


「代理よ、私のおじいさん、今年は腰を悪くしてたから」

「えーっと、お祭りの時の?」

「そう、あっ、ここの古本屋、私が贔屓にしてるの。ここで買ったから、そこまでかからなかったわ。10年分の部費を神隠しするぐらいで済んだ」

「何かよくわからないけど……、小川ってそういう人だったのね。いいことだよ、人間社会は欺瞞とごますりから構築されてるから」


 時雨はあらぬ誤解を既成事実にしたくてたまらないらしい。でもこんな軽佻浮薄な台詞が、ここまで刺さるとはね。ごまはすったほうがいい。


「そりゃあ、事情を知らない二人からすればそうかもしれないけど……」

「えぇ、そう誤解されてほしいから、来客がある時に渡そうと見計らってたんだけど、この部って私と小川しか来ないのよね。本当にありがとう、二人が来なかったら、二学期が始まっても、あそこにこれが置きっぱなしになるところだったから」


 部長もたいがいなことを考えて息をしている。頭脳明晰な人間は、バランスを取るためにどこか問題を抱えていないといけないっていうガイドラインが、神の間にはあるのか?でもそれだと、私が頭脳明晰ではなくなる気がするが、それは嫌だな。


「何より、小川女史もお祭り来てたんだね……」

「え、あーまあ。颯理と回ってたよ」

「よっよぉーかったね。いぃー思い出できたぁー?」

「どうした……?」


 嘉琳がおかしくなってしまった。


「私、小川たちと合流する前、嘉琳といたんだよねー」

「え?そうなの?」

「うん、変なお化け屋敷とか一緒に入った」

「え、あのひときわ目立つやつ?」

「多分そう、ババアが入口で呼び込み君みたいに同じことずっと言ってるやつ。あれマジヤバくなーい」

「あのリーマン面お化け屋敷ね~。私たちも入ったー。わかる、すっごいわかる」


 気が付いたら女子高生特有の振動数が漏れ出ていた。


「あっ、小川女史も幽閉されたの?」

「颯理とともにね。悪くなかったけど」

「温厚なのね、ゴリラみたいに。私はあのババアの地獄での居場所さえも奪いたくて、この拳がうずくのよねー」


 もしや “ゴリラ” と形容されて、理不尽にキレられた時の対策としても、拳の調子を確かめていらっしゃる……!?

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