溶け始めた約束
さて、過ぎてしまってからはあっという間という他なく、1学期が終わった。すっかり夏色になった空を見上げて、門出に似た気分になっていると、部活の予定表が送られてきた。無論、好きで活動してはいるのだが、この天地万物を微塵も気にしなくて良かった、あの頃の夏休みすら手の届かないものになっていると考えると、スイカに塩ぐらいかけたくなる。
今から早速、夏休みを満喫しようと、手を繋ぎそうな集団を横目に立ち止まって、2番目に好きな季節を噛みしめていると、後ろから例のあだ名が飛んできた。振り返ってしまうと、息を荒くした磯貝が、5 mぐらい離れたところにいた。大声で叫ばれてしまった以上、無視するわけにはいかない。
「な、何、映画はクライマックスだけじゃないんだから、地道に日常の演技も練習しておきなさいよ」
「そういうんじゃなくて、はぁ、鯖、鯖寿司を食べませんか。はぁ……」
「鯖寿司?いいけど、何でそこまで死にかけてるの?」
「君に鯖寿司を食べさせてあげたかったからさっ!うぉっげほっげほっ」
磯貝はゆっくり壁に移動して手をついた。私は気配りができるので、彼が落ち着くのを待ってあげてから、調理室に向かった。AEDがもっと気楽なものだったら、ちらつかせてやろうかとも思った。
「アニサキスとか、大丈夫なんでしょうね」
「日本海側のアニサキスは、わりかし平気、らしい」
「ぬーっ、いない、いないなっ」
「釣り部の調理担当は、一流料亭の大将の子みたいな精鋭ぞろいだから。そいつらが確認したんだし、疑うほうが失礼なぐらいだよ」
「権威主義に走ったらおしまいでしょ。安全がかかってるのに」
「その鯖、俺が釣ったんだけど……」
「わかった、別に食べるよ。お腹空いてるし」
何か昼食代が浮いた。しかも美味しい。一流料亭の技が光っている、気がする。光り物だけに。すっかり1本食い尽くしていた。まあ強いて言うなら醤油が欲しかった。あとガリも。
「それで、見返りを要求しているみたいで悪いとは思ってるんだけど、頼みたいことがあって……」
「やけにかしこまってどうした?」
おしぼりは出てくるんだ……。
「3Dプリンターでルアーを作ってみてくれないかな。モデルは用意できてるから」
「ん、おー!ありがとーっ!実は調整のために、テスト用のモデルは何度か印刷したんだけど、それ以来特に印刷したいものがなくて、ご無沙汰してたんだよー」
私がすらすら言ったことは事実なのだが、どうして磯貝は、私が3Dプリンターを持っていることを知っているのだろうか。高校の入学祝いで買ったし、再会してから磯貝と話した回数は数えるほどしかないから、会話の内容は大体覚えている。……もしやこれは罠!?
「どうして私の部屋に3Dプリンターがあることを知っている」
「あー!それはTwitterで見たからだよ。ただそれだけ、そんなに怖い顔しないで……。もちろん、忙しいなら大丈夫。ちょっとしたお遊びだからさ」
まずい、怯えさせてしまった。あまつさえ、気を遣わせてしまった。一方、口角に力を入れ、ほくそ笑んでいた自分は、未熟なままなのかもしれない。どうしても、冗談が通じないのか、と相手を責めたくなってしまうし。
「いやいやっ、喜んで印刷するよ!それより、連絡先教えて。これからもやり取りするかもしれないからさ」
「いいの?」
「あーいいよ。断る理由ないし」
春の旋風が私を包んでいたあの日、久しぶりの再会は長続きしないと直感も、世間一般のお約束も訴えていたのだが、ふたを開けてみれば、こうして度々顔を合わせてしまう仲になっていた。
……磯貝は気付いているのだろうか。いや、続きを読んでいるわけないか。部員と思しき同級生に肩を組まれ、強引に釣りへ連行されていったのを見るに、磯貝も成長しているのだから。これが男子の青春か。暑苦しくて、汗ばんで、それはそれで思い出に残って。この感情は、手に入らないからこその憧憬なのか、手に入らないからこその妬心なのか、手に入りそうという慢心なのか。一体どれだろうね?




