親友①
花しょうぶは満開のようだが、あいにくの曇天である。とは言っても、まだ梅雨は明けていないわけで、雨の気配がからっきし無い今日は、むしろ運がいいと言えよう。
嘉琳が最後まで行先を伏せたり、雪環まで動員した割には、と悪魔が囁いた。そう、悪魔が囁いた。私の本心ではない。むしろ、1輪をミクロな視点で見たら、こんなにも心が華やぐものもない。花びらの丸まり具合とか、筋の入り方とかを一通り見終えたら、おしべやめしべを探したくなる。
「やっぱりー、これを見ないと私の誕生日は締まらんのよ。今日は晴れたしねぇ、虹もかかっちゃって」
「嘉琳には何が見えてるんだ……」
「花しょうぶとか、そういう類いの花を英語でアイリスって言うけど、語源はギリシャ神話の虹の女神だから、実質虹が咲いてるのさ」
「いいよーそういう屁理屈、何年前から用意してたの?」
「一昨日からだよっ。そんな長年捏ねてないから」
一昨日から、決め台詞を考えていたというなら、もう足を向けて寝られない。嘉楓もこれ以上になく瞳を赤らめていた。
一方、もう雰囲気だけで十分みたいな嘉琳とは違って、雪環はもっと熱心に花を見ていた。平日で人もまばらだからか、彼女が発作を起こしそうな気配もなく、何とか肩の力を抜くことができそうだ。
「見て、ミツバチがいるー。近くで見るとかわいいね」
「何か、すごい楽しそうというか、活力が戻ってきたわね」
「家に籠ってた間、いろいろ考えてたんだけど、いや考えすぎだなーと反省したの。もうどうでもいいやって投げ出さないと、ずっと苦しいまま。時雨ちゃんだってそうでしょ」
「えっ、あぁ、まあそうっ……かもね」
なかったことにしようとしていた私の愚行に、意味を持たせようとしているのかと思って、否定しようとしたけれど、これが彼女の言う考えすぎなのかなぁ。でもあの表情が、改めてフラッシュバックすると、どうしても目を逸らしたくなってしまった。
雪環は何に対しても二つ返事を欠かさなかった。身も心も私に服従しているようで、これには脳の働いてはいけない場所が、目覚めたような気がした。
でも、これを折ったら最悪の結末を迎えるかもしれない。それを言い訳に、雪環を私の認識の中だけを生きる存在にしてしまおうと、やがて努力も苦悩も悪だと言い張って、彼女をステレオタイプな監獄に押し込んでいった。
当然、ここに来てプライドも何もないので、戒厳令を取り消そうとも考えたが、雪環の苦しそうにしている表情と、壊れた笑顔と、どちらを選ぶかと言われたら、後者のほうが僅差で上回った。
進めばどんどん瓦解していく。戻れば全てが元通りになるかもしれない。お互いが戻りたいと強く願うことこそが希望だった。けれど、これを無かったことにするのは、どうしても私だけの力ではできなかった。不完全な理性を持つ者の定めとも言うべきか……。
「時雨ちゃん!ハチ、ハチ!」
「んあっ!? 何だー、こいつしつこいっ……!」
ミツバチだし、まだ一度もハチに刺されたことないし、死ぬことはないだろうが、向こうが体の色で警戒させてくるのなら、それに乗っかってあげるのが、食物連鎖の頂点に立つ種族の礼儀というものだろう。払いのけようとした手を刺されても困るし、もう一目散に逃げた。
「はぁー、写真で見る分には気持ち悪くも何ともないけど、実物はやっぱり怖い……」
「まあでも、こっちに植えてある色違いも見たかったから、ちょうど良かったよー」
「何だか意外な一面を見た気がする。熱心に花を愛でるなんて……?」
「そうかな。特段、お花が好きってわけじゃないけど、いいなぁーとは思うよ」
「位置かな。ゆきっていつも、私たちの後ろにいるイメージがあるから」
「本当はこんな風に、博物館の展示とかお店でもいいけど、もう少しゆっくり見たいって思ってたんだけど……。邪魔したら悪いなと思って、あんまり近付かないようにしてたかも」
「あぁ……、わかるよ、わかるよその気持ち」
「璃宙ちゃんがちょっとね……」
「そう!るりが飽き性なんだよ!あいつ、全然じっとしてられないんだから」
親友のことを噂されると笑いたくなるやつが、雪環にも到来した。人生で最高の笑顔がこれだったら、もう “無かったこと” にしても人の道を踏み外したことにはならないだろう。
「何か、璃宙ちゃんの愚痴みたいなの、前々からいっぱい抱えてそうだね」
「どうでもいいことだけどねー。ゆきはどうなの?」
「私はそれをひっくるめて、璃宙ちゃんだと思ってるよー」
「逃げたなぁーっ」
「じゃあ代わりに、時雨ちゃんの直してほしいこと言ってあげようか?」
存外、策士な雪環に、また驚かされるばかりであった。もちろん、谷底からここまで引き揚げてくれた嘉琳と、雪環自身の努力も見過ごせないが、何より私はこの、雪環と繋がれた感触を墓場まで持っていきたい。花しょうぶは、単なる彩りにしか見えなくなっていた。




