世界は汚らわしくできている
ここでベッドから起き上がらなければ、嘉琳に嘘をついたことにもなる。翌日、最悪の目覚めの中、しばし葛藤しながらも、私は昨日みたいに高校に行くことを決めた。そうだ、どうせ家の中も、安息の地とは言い難いのだし、いつもいつも街中で、私の敵がのさばっているはずがない。
最悪、このカーディガンを嘉琳に返せたら、それだけでも及第点としよう。重い腰を上げて、家の外に出た。
しかし外に出るとすぐに、またあの感覚が襲ってきた。どう気を逸らそうと、全てに嫌われ、睨まれ、憎まれていると、そう信じてしまう。道路に倒れて、無抵抗に雨に打たれるのが、お似合いだと言わんばかりに。
細目にして、誰とも目を合わせないよう気を付けていたのに、この雨の中でも欠かさず犬の散歩をしている、近所のおじさんに遭遇してしまった。逃げればいいのに、話しかけられてもほっとけばいいのに、私は傘の柄をしっかり握りしめるばかりで、しばらくすくんで動き出せなかった。
怯えている様子に反応して、その犬は昂然と吠え散らかし、その犬歯を剥き出しにしている。さすがに命の危険を感じた私は、迷わず駅のほうまで走り去ることができた。振り返ると、犬に引きずり回されて、赤いものが垣間見えているおじさんが倒れていた。
浅くて速い、経験したことがない呼吸が続いている。何か考えたらダメだ……そうだ、この際どんなに穢らわしいことでもいい。昨日、兄に頭を拭かれたこと、それだけじゃない、そもそも目が合ったこと、怒りで視界を覆い隠せれば……。
「ゆきー、遅刻するよ」
骨に響くぐらい、強く肩を叩かれた。少しだけ世界が明るくなった。
「何ボケっと突っ立ってるの?はーい、急ぐ急ぐー。わ、ざ、わ、ざ、駅のあの窓からゆきの姿を見て、下りてきたんだからね?これで遅刻とかしたら、世界の名立たる絶叫マシンに乗ってもらうよ」
時雨は片手で、私の背中を駅の方角へ押した。あのおじさんが気になる。おじさんの周りには、出勤途中のサラリーマンなどが集まって、応急措置をしている。このまま遠ざかっていいのだろうか。そうこうしているうちにも、駅舎がどんどん近付いてくる。
「それにしても飼い犬に手を噛まれる……引きずり回されるなんてねぇ。同種族の人でさえよくわからないのに、犬の気持ちなんてわかりっこないよ。」
「ちょっと時雨ちゃんっ、そんなこと言ったら悪いよ……」
「犬ぞりなんてものが活躍してるってことは、それだけパワーがあるってことなんだから。生半可な態度で接したら、まああーいう風になるよね」
「やっぱり謝ってくるっ」
「えっ、何で!? 遅刻、遅刻しちゃうよーっ」
肩透かしを食らった時雨がよろめいて転びそうになっているが、それよりも優先してしまった。正確に間違った行動だけをしている気がする。じゃあなおさら、あのおじさんに謝らないと。
通勤通学途中の老若男女に持ち上げられて、おじさんは道の端に移動していた。自己満足のために、勇気を出して謝罪を口にしようとした時、例の犬が全てをすり抜けて、けたたましい咆哮をかき鳴らしながら私に向かってきた。
一粒の小石が、音を立てながら、アスファルトの上を転がっていく。犬は目の前で方向を直角に変えて、小石に興味を持っていかれた。一方、私は後ろから抱きかかえられて、時雨の胸に寄りかかっていた。って、何か倒れて……また制服を派手に濡らしてしまった。
「ちょっ、どいてどいてっ、私まで巻き添え食らいたくないーっ」
「ごっごめん、そんなつもりじゃっ……」
「いいから、とんずらするよー!」
何だかよくわからないまま、時雨に連れられて駅まで逃亡してきた。
「はぁー、怪我はない?」
「ごめん、上に乗っちゃって……」
「かっこよく支えてやろうと思ったら、勢い余ってバランス崩しちゃったわー。それにしてもあんなに牙を剥き出しにしてくるなんて、ほんと、いったい何をしでかしたのさ」
牙を剥き出しにして、迷いなく獲物を狩ろうとする野生の本性、時雨の宥めるような声でも、あれが思い起こされる。そしてあれを甘んじて受け入れれば、あのおじさんは酷い目に遭わなくて済んだんだと思うと、私がここに存在していい気がしない。汚い監獄で夜を過ごし、一切れのパンで丸一日働かされ、人間としての尊厳をへし折られる。それくらいがちょうどいいんだって、また自己嫌悪の肥溜めに首を突っ込んでいた。
「一回帰ろうかー。電車は行っちゃったし、びしょ濡れで気分悪いし。って、おーい、おーーーーいっ」
こんな風に叫ばれながら、時雨に揺さぶられていたんだと思う。いつの間にか放心していたらしく、気が付いたら着替えてベッドの上だった。そう言えば、嘉琳にカーディガンを返すのが及第点だった。だったんだけど……。




