雨中の印象攻防戦
「おっ、白高の1年?とんでもなく上手かったよー!始めて1か月とはとても思えないっ」
「あっそれはどうもー。ベーシストって強くないと、呼吸すら許されなさそうなので、頑張りましたよ~」
「あはは、達観してんねぇーっ。うちのベーシストとどっこいどっこいかな?はっはっは」
こういうのを見ると、蒔希は意外と角が取れた先輩なのかもしれない。とりあえずサインを求められたので、署名をしておいた。
「ぜーったい、つえー人になるって。将来が楽しみだわーっ」
何度も背中を叩かれた。痛くはないが、遠慮を知ってほしい。
「えーっ、好きなバンドは?憧れは!?あーっ、うちらの聞いてた!?」
「あっ、そうですね……。阿漕なアコースティックギーターとかミュンヒハウゼン像を評すとか、長いバンド名のバンドの曲をよく聞きますね……」
「なっ何だって……?」
「はーい、そこまでー。うちの時雨ちゃんに、べたべた手垢付けないでー」
どうやら蒔希とは知り合いだったらしい。都合よく魔除けになってくれた。やっぱり私はどう紛いても、そちら側には行けないのか。相手の目を見るだけで疲れちゃう。
「ほーら、私を糧にした甲斐があったー。あーっ、かわいがりたいっ、こんな後輩、どうにかしてしまわずにいられないよーっ」
こっちもたいがいだった。普通の鼻息が頬をかすめ、私の魂だけは壁を貫通し、後退していく。そうだ、肉体がここで蒔希を食い止める、魂だけは振り切って成仏してくれ!
「ねぇ、私たちと同じ曲カバーするなんて、よっぽど私に心を奪われちゃってんだねぇーっ。いいよー、かわいいなぁ、そういうところもっと見せてねーっ」
「あの、だから部活に出ないんですよ。先輩が悪いんですからね」
「はーっ、その台詞、一番刺さるーっ」
「……手の施しようがない」
「それより一つお願いがあるんだけど、聞いてねっ」
「何ですか?」
「もーちょい身長低くならない?」
「出る杭は抜かりなく打つのね」
「そういうんじゃないよ?酷いこと言うね」
「時雨、中身すっからかんだから、簡単に持ち上げられますよ」
「本当!?わーっ、わーい」
嘉琳に悪知恵を吹き込まれた蒔希は、迷わず私を抱きかかえた。しかし私があまり抵抗しなかったので、少しがっかりしているように見えた。どこまで歪んでいるんだ。
「まー、私を超えたいなら、これからも泥臭い努力は続けることね。一応プロ並みの実力はあるけど、目標にするのはタダだから。待ってるよ」
「ヒョウモンダコみたいになってやりますよ」
「きれーいって触ったら、イチコロってことか。さっ、そっちで打ち上げにでも行っておいで」
ちょうど私と同じく、色んな人に絡まれていた颯理が戻ってきた。
「笹川さんも人気者だねぇ」
「いや、あれは昔からの知り合いです。家の都合で、こういう話したことがある、ぐらいの知り合いが山ほどいるんですよねー」
「時雨みたいにサインをせがまれたわけじゃないんか」
「えっ、そんなことがあったんですか!?」
「そんな羨ましがることかなぁ。あーいうのって、その場のノリでしょ」
「卑屈にならないでくださいっ。時雨さんが堂々として、引っ張ってくれたから、今日を乗り越えられたんです」
「窮屈だなぁ。ぱーっと飯食って、さーっとおうち帰ろう?」
「そうですね、小澤さんが車も出してくれてるみたいなんで」
「そう言えば、大丈夫?日本酒勧められない?」
「よくそんなこと覚えてますね……」
準備には途方もなく手間取ったのに、撤収となるとどこよりも早かった。我先に車に乗り込もうとすると、一人傘をさしている桜歌を見つけた。勝手に陶酔している私は、雨に濡れるのは妥協して、彼女を呼び止めた。
「ひょいひょい、たぶん阿智原さんの分も用意されちゃってるよ」
「そういうの、私には似合わないから、今日のところはお暇させてもらうわ」
「はぁー、私に気を遣って、和を壊さなくていいから」
「そんなつもりじゃない。単に興味が沸かないだけ」
「んあーっ、これは義務、命令、不文律。だから……」
「時雨さん、そんな無理して誘わなくても……。それより風邪引きますよ」
桜歌は桜歌で、自分の意志を曲げようとしない。私のシャツはどんどん重みを増していく。あーめんどくさい、似た者同士だから埒が明かない。だからこそ、ここで気を抜きたくもない。
そっと颯理が、後ろから傘を差してくれた。帰り際のほかのバンドの人に、奇異な目で見られる。ライブハウス前の薄暗い小路で、いったい何してるのか、ということを考えたら負けだ。私も桜歌も通行人も。
「わかった、全部奢って」
「んー……、ここで折れるのが、一番丸いのか……?」
「あー、そのことなら問題ありませんよ。今日はお祝いってことで、タダで手料理を振舞ってくれるんです」
「だそうですが?」
「じゃあ行かない」
「めんどくさいなぁ……」
「えっ、あー、わかった行くから。行けばいいんでしょ。そんなに面白い話も、一芸も持ってないけど」
桜歌は忽然と慌て始めて、私に水滴を撒き散らしながら、先に車に乗り込んでいった。二人でその様子を目で追いかける。颯理も私も首をかしげずにはいられなかった。




