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思い立ったが淡雪  作者: Ehrenfest Chan
第2話:木に竹を接ぐグルーオン
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ギロはこするもの

 相変わらず、朝の電車では嘉琳が目の前に立ってくる。おあつらえ向きに、いつも私の前だけぽっかり空いているのだ。そのせいでおちおち寝ていられない。ふぁぁ……、あくびが出た。


「何かー、コバルトヤドクガエルみたいな色してるな……」

「そんなに顔色悪いかー?確かに夜更かしして、すこぶる眠いけど」

「あれかな、全然日に当たってないとか。ゴールデンウィーク、どっか外出した?」

「遠足には行きましたっ」

「それは知ってるよ……。その後。私も忙しくて、遊びに誘えなかったからさー」


 別に外で遊んだり、立入禁止の藪に足を踏み入れたり、野良ヤモリを探したりすることに対して、苦手意識があるわけではなかったのだが、莞日夏が亡くなってしばらく、例の如く気分が塞ぎ込んでいて、趣味のFPSが全然できていなかったので、その反動が来ていた。


「そっれっでっ、今週の土日は暇?」

「それってどれくらいの用事まで許容されるの?」

「うーん?昼間空いてたらいいんじゃない?」

「レベル1、世界を救う。これは?」

「えっ、それは暇の周圏論の震央では……?」

「じゃあレベル2、おばあちゃんのお葬式」

「結構勾配大きめね……。それならいいよ……ってまだわからんやろがいっ。人の生死を弄ぶと、罰が当たりそうだから、なすりつけないでよ」

「まあたまには、キラキラJKっぽいこともしないとなぁ。どっか行きたい場所ある?」

「小樽……じゃなかった、私とじゃなくて颯理と遊んできてよ」


 その5年くらい前、グループのある女の子に地獄耳と評されて以降、それを勝手に誇りにしていた私が、これを聞き間違えるわけがない。私は嘉琳のブーツを踏みつけて、座席から立ち上がった。


「おー、ちょうど着いたー。降りよっかー」

「なんで颯理と?」


 とりあえず改札を出た。


「いやー、バンドメンバーのみんなが仲良くしてくれないと、こっちとしても合わせる顔がないんですよー」

「今も各々、自分の進行方向の先を見てるもんね」

「横見ながら歩いたら危ないからね……。でもなくて、まずは時雨と颯理が打ち解けてくれればなーって。というか、二人が反目するのが一番怖い」

「でも音楽っていうのは、その時の政府や社会、人間の根源的な悪に対する行き詰まりや憤りから生まれるものだし。逆にギッスギスのほうが、いいバンドになるかも!?」

「ベース触りだしてから、1日でよくそこまで、わかった気になれるな……」

「私、ベース完全に理解したっ」

「せめてあと3日は上り調子であれよ。そこからなら、そこはかとなくでいいから」


 身内には尖ったことを息もつかず、真っ当だと盲信している体で語るのが、一番笑いを取りやすい。それはさておき、私もただ苦い青汁のような青春よりは、ほろ苦いアフォガートのような青春がいいし、放課後の部活の時間、颯理と遊ぶ約束を結ぶために奔走することにした。


 そうしたかったのだが、颯理は先輩からギターの指導を賜っているので、気軽に話しかけられなさそうだし、私のお目付け役は、今日生徒会の仕事があって、私をわしゃわしゃできないらしいし、壁にもたれかかっているパイプ椅子を展開して座って、何もしてないけど疲れを癒すことにした。


「私は舞踏館単独ライブを成功させたい」

「んあっ!?喋るの!?」

「私のことを木仏だと思ってた?これからはバーミヤン大仏を目指すね」

「ここに収まりきらないんじゃないかしら」


 同じく、パイプ椅子に姿勢よく座って、未知の言語の本を読みこんでいる桜歌が、顔を上げて声を張り上げていた。阿漕な雷鳴が轟く軽音部唯一の静寂が、ついに動いた。


「えーっと、何を読んでるの?」

「 ”と” から濁点をとったせいで、とうてい音楽業界で成功を収めようとしているとは思えなくなっていることに、どうしてツッコミを入れないのか、先に説明をしてもらっていい?」

「一体いつから、私を便利なツッコミ役だと認識したのよ……」

「最近のAIのように、正しい順序で言葉を紡ぐよう育った人間は、ツッコミ役に回るしかない。そう簡単に運命は変わらないってこと」

「AIだってボケられると思うけど。常識が形成されないぐらい、進歩が著しいからねぇ」

「それは “ボケる” という行為に対して、正しいとされる出力をしているだけ。私はそれをボケと呼びたくない」

「そんなこと言ってると、時代の潮流に取り残されるよー?」

「それはそう。まあ、私が咄嗟に錬成した、微塵も思っていないことだから、勝手にJKぶってなさい」


 感情が希薄なこの声色の中に、かすかに暖色を感じた。


「それより、同類を見るような目はやめてもらえる?罵詈雑言のレパートリーはよりどりみどりだからね。Va a cagareとか」

「まあ……、でも私たち二人で結託しないと、練習を真面目にやってる笹川さんと信濃さんに、ホットサンドメーカーでプレスされるかもよ」

「そこまで残酷なのは、彼女たち自身が耐えられないと思う。せいぜいライブ中にしゃぶしゃぶ鍋を被るよう要求されるぐらいじゃない?」

「うーん、そんなことはどうでもいいんだよ!阿智原さんも、二人を見習って練習しなさーい」


 しゃぶしゃぶ鍋を被るのは、恐ろしいほど滑りそうなので、何としても回避しなければならない。


「歌うだけならカラオケでもできるから。それに、むやみやたらに喉を酷使するほうが、ボーカリストとして意識が低いと言えるよね」


 彼女もまた、自分が何も理解していないことを、相手が認識していること自体を武器にして、自慢げに自説を展開した。


「それに比べて、あなたは初心者なんだから、今から血みどろの努力をしないと。呑気に椅子に座ってる場合じゃないでしょ」

「だって、楽器ないんだよねー。貸し出してもらうの面倒だし、自分の買ったら頑張るっ」

「三日坊主になりそうな言い方……」


 話しながらも、桜歌は適宜ページをめくっている。話しながらでも、文章をきちんと目で追っているらしい。。


「はぁー……。でももし、今私が練習を始めてしまったら、阿智原さんはどうするの?そんな風にここで本を読んでたら、絶対白い目で見られるよ」

「あー、これは音楽理論の本だから。作曲のほうが興味あるから」


 私はその発言に誘導されて、本の表紙に目線を向けていた。桜歌の小さい手の隙間から、フランス語が垣間見える。


「レ・ミゼラブルって書いてありますけど……」

「意外……あなたにもそれなりの素養があるのね」


 きっと自分の知らない作品であろうという、先入観を捨ててみたのが功を奏した。それはさておき容赦なく、人をけなしてくる。この息を多く吐くような、驚嘆の演技が上手くて、しゃぶしゃぶの鍋が、桜歌の頭上に現れてほしいと願った。


 桜歌はその本を床に落として、ローファーで十分に踏みつけてから立ち上がった。私は首を縦に振ってしまった。


「やっぱりフランス語はダメか。一般人でも全然読めてしまう」

「えぇ……?たぶん、本文はかけらもわからないと思うよ?」

「ちょうど飽きたし、私はもう帰ろうかな。ギロも買わないといけないし」

「えぇ……、もうすでに肌身離さず持ち歩いてるんじゃなくて、新しく購入するのね。そこまでギロにこだわる理由がよくわからないけど……」

「深い意味はないよ。家に転がっていた遠い記憶があったから、面白おかしく茶化しただけ。探してなかったけど、あんなにこすった以上、ギロを持たずにステージに立てるわけないでしょ」


 桜歌は荷物を持って、スタジオを後にした。あまり下手なネタをこすると火傷するんだなぁ。気を付けよ……。とりあえず、踏まれてしわくちゃになった、レ・ミゼラブルは私が回収しておいた。ハードカバーなので、外見は傷ついてないし、自分の部屋の本棚にでも飾っておこう。

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