鳥かごを飛び出した小鳥
「これでー……よしっ」
「おー、時雨と同じだー。ありがとー!」
私が莞日夏の髪を結うと、たちまち彼女の顔は明るくなった。首を左右に振って、鏡に映った自分と私に釘付けだった。
「さっ、忘れ物はない?」
「参考書って持って行ったほうがいいかな」
「どうだろう。そんなに時間なさそうだけど」
「一応持ってくねー」
受験前日、莞日夏は私の家に泊まって、最後までみっちり勉強した。まあ、更なる点数アップを狙うというよりは、莞日夏の精神的な負担を減らしたかったのである。今もせわしなくしているが、睡眠は十分に取れたようだ。
「そう言えば、受験終わったらやりたいことってある?」
「んー……」
莞日夏は電車の中でも、単語帳を開いている。しかし今日は、一日中神経を尖らせないといけないのに、今から消耗するのは好ましくない。
「莞日夏ー?昨日まであんなに頑張ったんだから、もう大丈夫だよ。それより楽しいことを考えよう?」
「んっ」
私が手を掛けて肩を密着させると、少し躊躇いながらも莞日夏は単語帳を閉じた。
「あ、春休みに、るりと一緒にディズニーランドに行く約束をしてるの」
「へー、意外ねぇ」
「るりとももっと仲良くなりたい!」
まあ私が言うのも傲慢だが、こっちは既にくたくたである。本当に、二人分の人生を同時に進めているようで、いくら私でも骨が折れた。
でも、ここで1年を犠牲にすれば、次の3年一緒にいられる。まあ、犠牲にしたと言っても、勉強する時はいつも一緒だったし、この1年は莞日夏との時間のほうが長いぐらいだ。あの時、その時、一歩踏み出せた自分と、それを受け入れてくれた莞日夏に感謝しかない。
こうして、私たちは二人揃って白高を受験した。
しかし私だけが受かった。私の中には確かに、二人揃って合格してついでに同じクラスになっていい感じの部活に入って……みたいな、楽観的な予定は存在したが、莞日夏の成績は決して鷹揚に構えていられるようなものではなかった。
なので私は、運が悪かったなぁとだけ思っていた。それに莞日夏も、そこまで深刻に傷付いている様には見えなかった。だがその見立ては初めて外れて、数日後に莞日夏は自殺を選んだ。
特段意識したわけでもなく、合格発表後も莞日夏とは普通に付き合っていた。それが間違いだった、寝食まで共にすれば良かった、まだ潰せる苦手があった……、無数の後知恵により、もれなく自分の合格や身の回りのことは、全部どうでもよくなった。自分の部屋に籠るようになり、最低限の食事も喉を通らない。息を吸うのも苦しく、太陽も月も私を監視する敵に思えてくる。
でも、莞日夏が自ら命を絶ったという事実について、私は疑わなかった。彼女なら、粛々と自分の身を投げ出しかねない。だからお葬式にも行かない。二度と動かない莞日夏の肉体と対面する必要なんてない。
……何も言わないで全てを無に帰してしまう。それが、私の愛した莞日夏なのだから、否定したく……ない。
何日かして、私の家に璃宙が一人でやってきた。自分の部屋から出るのはいつぶりだろうか。玄関に入ってくる光でさえ、眩しく感じた。それに、たった数日引きこもっていただけなのに、壁に手を這わせないとまともに歩けない。
そう言えば今日は、中学校の卒業式があるはず……、意外とそういう事は把握してるんだな私。一人でにやにやしてしまった。
母親も璃宙も、私が部屋からのこのこ出てきたことに対して、間抜けな面で驚いていた。
「弔いなら、本人にしてくれば」
「そうだな……心中お察しします……。でも今日はそのためじゃなくて……」
「私と話したって、慰めにならないよ」
「莞日夏のことは、その……どうしてあんな事になっちゃったんだろうね」
「私のせいじゃないからね。あれだけは、莞日夏個人の選択」
「それは……そうだけど……」
「糾弾しに来たの?」
「そうじゃない!だけど莞日夏のこと、そんな悪く言わなくてもいいだろ!」
「そう思わなきゃ、私だってやってられないの……」
どうして分かってくれないんだろう。何度繰り返したって、同じところに帰結してしまう。
やっぱり皆、感情的になって話にならない。ただ憎悪を増幅させるだけだ。文面では機微が失われて、むしろ好都合だった。こうやって実際に相まみえると、顔をしかめて、不幸そうにしているのが、全てバレてしまう。
「もういい、失望した。ゆきの事で話があったけど、自分で何とかするから」
そう吐き捨てながら、璃宙は帰っていった。頭に血が昇った私は、璃宙にブロックされても気に留めなかった。
そうか、それより、雪環もだいぶ陰鬱として、少なくとも家から出られていないだろう。互いに一歩も引かず、喧嘩に興じている人より、一人で抱え込んでいる人のほうが危ない。
それから私は、太陽の光ぐらいは浴びるようにした、着替えぐらいはするようにした、三食ぐらいは食べるようにした。それで何とか体力を戻し、雪環の家に赴いた。
雪環はさっきまでの私と同じく、ベッドで小さく丸まっている。そして、まるで怪物に食われる寸前のような叫び声を絞り出しながら、近付いてくる私にひどく怯えている。
「来ないで!璃宙ちゃんは?助けて……。嫌だ嫌だ、璃宙ちゃんッ!璃宙ちゃんはどこなの、どうしていなくなったの!?うわああああ……」
「あっあの……、ゆき?」
「璃宙ちゃんは?ねえ璃宙ちゃんはどこ!?」
私が兄でも璃宙でもないことに気が付くと、飛び起きて縋るように璃宙の居場所を聞いてきた。あまりの気迫に、璃宙の居場所を忘れるところだった。それにしても、璃宙は雪環に、新幹線で2駅分行った所の学校に通うって、話してないのか……。
「どうして嘘ついたの……。ねえ璃宙ちゃんっ!?酷いよ、なんで……」
雪環は壁に向かって、いつまでもすすり泣いていた。しばらくの間は傍で図々しく、いつものようにベッドに寄りかかっていたが、莞日夏もこうやって、一人で寂しく泣いていたのかなとか、色々考えてしまって、加えて私はあまりにも無力なのでこれ以降、しばらく雪環の家を訪れることはなかった。
……独りは寂しい。一面の雪原に拓かれた道を歩くぐらいなら、生きる意味なんてない。四季折々の景色を楽しめない人生など価値がない。でも莞日夏のように、死を選ぶのもめんどくさい……。