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思い立ったが淡雪  作者: Ehrenfest Chan
第10話:鏡花水月のイデア
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戸惑いに邁進

 何の前触れもなく、時雨は私の唇と彼女のそれを擦り合わせる行為に及んだ。あまりの衝撃に目が覚めるどころか、胃の中のケーキを吐き戻すところだった。


 あまりに短くて、味もにおいも感触も温度も、時間も意義も文脈も覚えていない。ただ、そういうことをしたという事実だけが、私の中にある。でも、それを思い出すだけで、頭が回らなくなる、どこかに隠れたくなる。


 直接本人から手違いを説明してもらうのが手っ取り早い。そう思って、臆さず今日も美術室に足を運び、ぼーっとしていた。けれどいくら待っても、時雨は会いに来てくれない。時雨のせいで、空も味気なくなったというのに。時計の針の進む速さにイライラしつつ、頬杖を突きながら、刻一刻と追いかけて時間を潰した。


「きょうかぁー?暇なのぉー?」

「待ち人来ず……。おみくじ引かなかったのが悪かったか」

「じゃあ私がぁ、破滅しかないあみだくじを作ってあげるよぉ」


 常葉に憐れまれるのは、少々不服であった。でも元を辿れば、自力で友達を作れなかった私に話しかけてくれるのは、時雨か幼馴染の常葉しかいないのである。どうして今日に限って、時雨は来てくれないのだろうか。


 常葉は私の隣に座って、さしがねで紙に無数の縦線を引いている。これが後にあみだくじになるのだろうか……。


「時雨さんはねぇ、きっと部活なんじゃないかなぁ」


 時雨に学校を案内してもらった時のことを思い出した。スタジオに行けば、練習中の時雨に会えるかもしれない。私は弾むように立ち上がった。


「うーん、あの子たち、今は諸々あって、活動してないんじゃない?」

「そうなんだ……」

「でもぉー、この間、ギターのこと聞かれたよぉ?」

「なんであれ、時雨っちは家でしか自己練習しないから、もう帰ったんじゃない?」

「じゃあ、教えてください、家の……場所」


 私は結構、思い上がりの思い切りのいいことを、口走っていた。音速より速く取り消せるわけもなく、たまに変な帽子を被っている偉そうな先輩は、考え込んでしまった。


「私は知らないけど……。ささっさん、あるいは嘉琳ちゃんなら?勘だけど」

「んっ、嘘です、聞かなかったことにしてくださいっ」

「あぁ、そう……」


 理由もなく他人の家に上がるわけにはいかない。嘆くだけが一番楽で、快適なのだから、そこから動く必要もない。私は着実に完成していくあみだくじを横目に、座り心地の悪い美術室の椅子に逆戻りした。


 そう信じていたけど、段々嘆くだけでは慰めにならなくなってきた。退屈さとか寂しさとか、挙句の果てには憤りまで感じる。最初はそんな胸中を、必死に壊そうとしてみたけど、長過ぎる自省の末、違和感がなくなってきた。


 暇さえあればぼーっとして、時雨が頭をよぎってしまう。そして、後戻りできない深い思索の沼に、自分から踏み込んでいくように、時雨のことを想ってしまう。


 当たり前だった輝かしい日々が遠ざかって、五臓六腑に染みる時雨の声や笑顔だけが、何度も脳内で再生された。だけど本物が欲しい、そんなんじゃ満足できない。


 自分を責めても、時雨を責めても、彼女はここに帰ってきてくれない。感情が渋滞して、自認が余裕なぐらい熱っぽくなって、意識が朦朧としていく。でも、人間関係が希薄な私は、どうしたらいいか分からず、行動を起こせないまま、4連休に突入した。


 そう言えば、時雨とは連絡先を交換したんだった。対面するのは怖いけど、鏡写しの液晶の中の自分ならきっと、この纏まりのない想いを届けてくれるはず……。キーボードの上に親指を置いたまま、何時間か経過した。


「私服で学校に来るなんて、やけに反抗的だけど、どうしたの?」

「ん……ん?許されてるんじゃないの?そういう人を見かけたよ」

「……まあいいや、早いところ始めよう」


 だって時雨に選んでもらった服だよ?せっかく外出するなら着ないわけにはいかないじゃん。って、自分の思考に自分が追い付けない。


 何の理由もなく時雨に会いに行くなんてできない。だから、クッキーを手作りすることにした。正直、幼い頃から面識のある常葉に手伝ってほしかったけど、連絡先を知らなかったので、勇気と誠意を重ね掛けして、縁佳にお願いする羽目になった。……本当にこんな事で、仲直りできるのかなぁ。


 でももう、縁佳は目と鼻の先にいるし、材料も買い揃えちゃったし、踵を返せない。私はレシピを片手に、溶かしたバターを蜂の巣の前を通るように、慎重かつ大胆に混ぜた。


「ここに、砂糖20 gを、2回に分けて入れる……ほんとに20 g!?」

「だいたい20 g」

「だいたいじゃ困る。ちゃんと量って」


 私は縁佳からボウルを奪って、秤の上に載せた。ほら見たことか、0.5 gもオーバーしている。


「そんな細かいこと、気にしたってしょうがないでしょ。そもそも、この秤に誤差がないって言い切れないし」

「時雨はすごいから、0.5 gの差を見抜いちゃう。手を抜いたらダメ、しっかりやらなきゃ」

「このレシピを書いた人も、そこまで考えてないと思うけどなー」


 縁佳はやることなすこと全部めんどくさそうで、文句ばっかり言っている。私が睨み付けるとようやく、計量スプーンの柄のほうも使って、ぴったり20 gの砂糖を用意してくれた。料理は化学、厳密さが大切。


「はぁー、クッキー作るだけなのに、汗出てきたー」


 私がオーブンに生地を入れていると、縁佳は伸びをするぐらい、すっかり緊張が解けていた……元から不真面目だった。まだまだこれから、焼き上がるまで、いや時雨に美味しく食べてもらうまでが、お菓子作りなのに。


「島袋さんのほうからお願いしてくるとは。ちょっと意外だった」

「ん、意外?」

「いやいやー、むしろ、この間のお礼ができて助かったよ。つい、求めっぱなしになっちゃうから」

「うん、お礼?上手くいったら」


 縁佳は焼き上がりを呑気にわくわくしながら待っているが、私は気が気でない。やり直せるほどバターが余ってないのだ。開けたくなる気持ちを抑えながら、神への祈りをオーブンにぶつけて、焼き上がるのを待った。


 曖昧な時間設定に苛立っていると、縁佳が勝手にオーブンを開けてしまった。しかも、熱々の状態でつまみ食いまで……。冷ますって書いてあるのに。


「熱っ……。うん、中まで焼けてるよ。美味しいー」

「んん……」

「全部あげるわけじゃないでしょ?島袋さんみたく、そんなにいっぱい食べる人なの?」

「冷まして、バターを馴染ませろって書いてあるからっ」

「しょうがないなぁ」


 縁佳は半笑いで洗い物を始めた。確かに不本意なことをされたけど、そこまで強く言わなくても良かったかもしれない。もしかしたら、こういうふと出てきた、後先考えてない言葉に、時雨は嫌悪感を覚えたのかもしれない。自業自得だったのかなぁ……。


「これ、しっかり多々良さんに渡すんだよ。せっかく作ったんだし、何より食材がもったいない」


 私が負い目を感じていると、縁佳は時雨の分の袋を指さして、念を押した。


「んー……でも、渡せなかったら自分で食べるから……」

「バターとか砂糖とかたくさん入れたから、2人前食べると太るよ?」

「その分走る」

「その気力があるなら、本人に渡しなよ……」

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