うさぎ追いし放課後
私たちは2週間の苦難の末、厚狭先生の元にキャンバスを持っていくことができた。アポ無しで職員室に絵を持ち込まれた厚狭先生は、困惑した表情を隠さなかった。採点基準を伝えても、それは変わらなかった。
「閻魔様が情をいだいて、裁くのを渋ったら、地獄はたちまち労働力不足になります。さあ、白黒はっきり付けましょう」
「何を言ってるのか……」
「早く早くー。ねえねえ、こっちのほうが渾身の出来だと思いませんかー?」
「いやいや、モンドリアンチックなのは、奇を衒いすぎじゃない?」
「手を抜きすぎの間違いだよ」
「そんなことないよ!真面目に、モンドリアンさんの作品を、まじまじと鑑賞したもん!」
方向性の違いにより、上半分は璃宙の直線的なアート、下半分は雪環の小学生がよく描かされる選挙ポスターみたいな絵に分かれている。それに比べたら、名画らしさもクオリティーも、こっちが上回っているのだが、厚狭先生は潰れかかった椅子の上で腕を組みながら、周囲の様子をうかがっている。
埒が明かないので、莞日夏を政治利用することにした。莞日夏の後ろに立って、彼女の腕を操りながら、言わなさそうなことを言ってみた。
「私がー、めっちゃ頑張りましたぁー。褒めてくださーい、成績上げてくださぁーい。うわぁそうだったの?これはもうご褒美あげるしかなぁーいね」
「ん、頑張りました。この身を捧げました」
莞日夏はいつになく当人比強い口調で、はっきりと自己主張した。これには厚狭先生も譲歩せざるを得なかった。
「わかったわかった。お願いを一つだけ叶えてやる。俺の職権の範囲で」
「本題から逸れてるんですけどー」
「生徒の優劣を付けるなんて、成績で十分。これ以上やりたくないんだ」
璃宙は納得がいってないようだが、厚狭先生の綺麗事が炸裂したところで、私はむしろ何なら頼めるのか、真剣に思量していた。アイスはアイスでも、高級路線を走ってるものは奢ってもらえるだろうか。
一応、莞日夏にも何のアイスが好きか聞いておくか。そう思って、彼女の顔を覗き込むと、きちんと美しいお願いを叩き込まれた。
「私、屋上に行ってみたい」
「あっ待って、私がまるで煩悩にまみれた人みたぃ……」
「時雨ーっ、溶けるなぁーっ」
それでも、よく職員室のど真ん中で、他の教員に会話を聞かれてたのに、屋上に入れてくれたなぁとは思う。莞日夏はいつもより近くで雲を拝めて満足気である。
「見ろ!人がゴミのようだ!」
「明日は璃宙ちゃんがゴミになるんだけどね~」
「どう?」
「んー……、もっと、上を目指したい」
「おぉー、莞日夏はハングリー精神旺盛だね」
「時雨ちゃん、肩車でもしてあげたら?」
「おーいちょっと待て。こんなにかわいい子を殺す気かぁ!?」
「私、そんなに重くないよ?」
莞日夏はそう言って首をかしげたが、さすがに私は非力すぎる。身長は一番高いんだけどなぁ。
「しょーがないなぁ。ほら、私に任せな」
璃宙と合体した莞日夏は、笑顔を振りまきながら、思う存分広義の空を駆け回った。
「体力あるねぇ」
「サッカーやってるからね。微笑ましい」
「早く部活引退してくれないかな。こう、4人でわーっと遊んでたい」
「受験が待ってるよ」
「うーん、抑圧されないと、楽しくないよね……?」
はしゃぐ二人を眺めているのもいいが、雨足が近付いてきたので、今日は家に帰ることにした。
笑顔の人間にしか、次の幸せは転がり込んでこない。雲行きを気にしながら、どうせすぐ別れるのに、横並びで歩いていると、莞日夏が何かを指さした。
「ん、うさぎ!」
「本物?」
「サッカーやってる割に、動体視力悪くない?」
「自然に溶け込んで、わかんなかっただけだし」
そんな言い訳は通用しない。なぜなら、 “拾ってください” と書かれた、そこの段ボールから飛び出てきた元飼うさぎなので、野生のことを何も考えておらず、雪環よりも白かったからである。
それより莞日夏が必死に肩を叩いてきた。
「ん?」
「追いかけたいの?」
「うんっ」
「よし行ってこい!」
莞日夏があんまりにもうさぎのようだったので、思わず背中を押してしまったが、車が怖いので私も一緒に駆け出した。
「今、どっちに行った?」
「左」
「右じゃない?」
「えーっ、じゃあ私が右探す!」
交差点で璃宙と別れ、莞日夏の後ろを全力で追いかける。地面ばかり注意を払っているので、電柱とかポストとかにぶつからないか、心配で仕方がない。
「あとっ、もうちょっとなのにっ。うおーっ」
でもまあ、とても満たされているようだし、こっちも全力以上を発揮できた。
白兎なので、案外見失わないなーと油断していたら、低木交じりの茂みの中に逃げ込まれた。しかも人の家の敷地である。万事休すかと思ったら、家主が庭いじりしていたので、大声でお願いしたら許可を貰えた。
しかし茂みの前で、莞日夏が歩みを止めてしまった。彼女は顎と視線で何かを伝えようとしている。
「もしかして、踏み台になれと?」
「うん、いいアイデア」
「靴脱いでね」
自分の足は汚したくないらしい。頷いてくれなかった。
「この恩は、いつか返すーっ」
そう言いながら、莞日夏は私を反作用により蹴り飛ばし、垣根を越えていった。背骨が折れてないか、泥をはらうついでに何度も確認した。さて、莞日夏は無事にうさぎを捕まえられたかな?
「うわっ、こっちから出てきた。そろそろ観念しろー……」
「わー、捕まえたー」
璃宙の声を聞くに、うさぎは人の家を貫いて、反対側の小道に出たらしいが、なぜか莞日夏が虚偽の報告をしている。最初は、私のことを気遣ってくれてるのかとも思ったが、それは自意識過剰であった。
つまり、家の敷地から出るために、もう一度私を踏み台にして、垣根を越えようとしていやがる。門から出入りしなさいよ!
結局、最後は璃宙が本気を出し、ストレートをうさぎより速く走ることで、無事に保護できた。一応貢献したということで、私は莞日夏とハイタッチしておいた。
「はぁはぁはぁー……、みんな元気すぎるよー……」
「あっ、ゆき!ごめんごめん。つい熱くなっちゃった」
雪環が足を引きずりながら、息を切らしながら、ようやく追いついた。璃宙は白兎を莞日夏に託し、彼女を支えてあげた。
「うおー、もふもふ」
「うさぎ、好きなの?」
「うん!かわいい、かわいいー」
毛並みを整えられた形跡もあるし、抱いてみたら全く暴れない、人馴れした個体なのに、飼い主の身に一体何があったのだろうか。まあ、そこを深堀りしてもしょうがない。莞日夏が温かな陽だまりとなっていることが、現時点の私たちにとっての、最上の幸せなのだから。
「あっ、さすがに頬ずりするのは辞めておきなよ。何が付いてるか、分からないから」
「んーっ……」
目で威嚇するなら、うさぎじゃなくて私にしなさい。
「ゆきも触ってみたら?」
「えぇ、いいよ私は……」
「ゆきは動物に好かれない体質だからねー」
「んー、和解してみる?」
「……璃宙ちゃん、落としそうになったら、キャッチしてね」
「大役を任された……ってマジで触るの!?」
雪環は莞日夏の恍惚とした表情に乗せられ、うさぎが動揺するぐらい慎重に受け取った。なぜか赤ちゃんをあやすように、頑張って揺さぶっているが、それが功を奏したのか、抱えている指を舐め始めた。何も知らないが、きっと友好の証であろう。
「くすぐったい、どうしようー。見てないで助けてよー」
「珍しいなぁ、ゆきに懐くなんて」
「大事に、するんだよ」
莞日夏はそう言って、また強く頷いた。もちろん、慌てる雪環に対して、うさぎは目を瞑ってゆったりしている。
「えっ、大事にって、嘘でしょ!?」
「莞日夏公認なんだから仕方ない。大切にするんだよ」
「……よく見たら、かわいいかも……?」
雪環の決意が固まったところで、日も暮れてきたので、二人とは別れて、莞日夏と途中まで一緒に帰った。
「良かったの?」
「うん。私、うさぎの気持ちが読める、うさぎ年だから」
「そっかぁ……って違うよね!?」
「嘘じゃないよ。動物の中で、うさぎが一番好き。でもあの子が、向こうに行きたがってたから」
「莞日夏は優しいね。人……と人ならざるもののことまで勘案して立ち回って」
「そうかなぁ」
私が褒めると、いい照れ顔がこぼれ落ちた。うさぎを追いかけ回して、体だけじゃなくて心も温まった気がする。
一日悩み抜いた結果、やっぱり雪環が引き取ることになった。まあ、 “ルーコス” なんて名前までこしらえてたし、そんなの誰も抗えない。
「ルーコスー、会いに来たよー」
莞日夏がゴボウスティックをケージの隙間から差し出すと、ルーコスは口をもぐもぐさせながら、一定のスピードで吸い込んでいった。変わらず元気な様子を見て、莞日夏はまた満面の笑みを浮かべた。
「ところで、ルーコスってどういう意味なの?」
「ルースコスタってセーターの模様があるんだけど、それを略してルーコス」
「真っ白だけどね」
「いいじゃん、どうでも!」
璃宙の横槍に、雪環は珍しく大きな声で反論した。ルーコスも耳を張って驚いている。