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思い立ったが淡雪  作者: Ehrenfest Chan
第10話:鏡花水月のイデア
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普通って何だろう

 新学期早々、颯理が大失敗して引き籠もってしまって、部活ができなくなった時雨は何してるのかと言うと、出不精のくせして、最果ての美術室に入り浸っていた。時雨の隣では、一輪のスノードロップのような少女が、険しい表情で使い古された筆を握っている。時雨はピンクのノートを片手に、何かを教えているようだった。


「嘉琳ちゃん?時雨っちに何か用?」


 教卓で退屈そうにしていた蒔希がやって来た。そう、特段呼ぶ用件がないから、遠巻きに眺めるぐらいにしていたのだった。


「あぁ、別にそういうわけじゃないんですが……」

「じゃあ入部希望?」

「時雨が入るなら、いいですよ」

「残念、と言いたいところだけど、今年はすでに10人ぐらい入って、それなりに活動してくれそうだから、どうでもいいわー」


「ところで、随分と古典的ですが、美術部ってそういう?」

「漫画とかデジタルの絵もやってるし、折り紙とかシャドーボックスとかをやってる人もいるね。昔の名残で、色々な属性を併せ持ってるの」


 それにしたって、時雨が油絵という風流でクラシカルな趣味を持っていたとは。未だに、こうやって私に見せつけるためなんじゃないかって疑念が拭い切れない。


「ねぇ嘉琳ちゃん、話は変わるんだけど、あの二人って知り合いなの?」

「それ、私も聞きたかったんですけど。新入生ですよね」

「だから、前々から関わりがあったと考えるのが妥当だけど、幼馴染の常葉も把握してなさそうでねー」

「まあ、友達の交友関係なんて、完全に把握してる方がおかしいです」


 そう言い返してみたものの、事実はそうであるものの、空転しているような、位相がずれて打ち消しあっているような、そういう違和感を見透かせなくもない。


 でも、時雨が距離感を見誤ることがあるとも思えないし。


「影だったら、どうする?」

「空気砲でも撃ってみたらいいんじゃない?」

「賢い、1000スタンフォードあげるっ」

「いらないですよ!はくさいでしか使えないじゃん」

「夢は、どんぐりより使えるようにすることかなぁ」


 結局、少女が誰だかはともかく、時雨との関係は分からず仕舞いだった。まあ時雨にとって、いい暇潰しになっているなら、それ以上何も言うまい。


 家に帰ろうと思って振り返ると、小川と心が通い合った。私を探していたのか、たった今到着した感じである。


「もしかして、そこに時雨がいるの?」

「そうだけど、何か頼みたいことでも?」

「いや、用があるのは嘉琳のほうなんだけど……。家まで付いてきてくれない?」


 これまた小川らしくなく、目を泳がせながら要請してきた。そんな、海外産の原料より安い陳情を、この私が承らないわけがないのに。


 で、小川に言われるがまま歩いたら、笹川家の立派な邸宅の前に立っていた。ところで、遠目から見ると、徳川家に誤認しなくもない。ではなく、単純に騙された。


 しかし小川は、それどころでないぐらい落ち込んでいた。部屋の前に置かれた空の食器を見て、小川は溜息をつき、そして細やかに呟いた。


「日頃の行いとか、ライブ終わってから掛けた言葉とか、私に非と隙がありまくるから……」

「颯理を励ましに来たんじゃないの?いつも通りでいなかったら、余計な憂いを作らせることになるよ」

「違う違う。だから、接し方がわからない」

「そういうのも全部、会ってみたら伝わるよ」


 後で突き刺さりそうな台詞と共に、私は颯理の部屋の扉をノックして、慎重に歩を進めた。カーテンを閉め切った明るい部屋の中には、ベッドで膝を抱えて寝っ転がる颯理がいた。


 颯理は母親じゃないことに気が付くと、首が折れそうな勢いで飛び起きて、ベッドの上に正座した。


「ななっ何……すいませんっ、ご迷惑をお掛けしましたっ!」

「まあまあ、1週間ぐらい引き籠もりたくなる気持ちもわかるよ」

「普通はそれでも、こんなに落ち込まないんです」


 きちんとご飯も食べているみたいだし、肌ツヤもいいし、自嘲的だけどこうして話もできるし、想像していたよりは状況も明るい。私は颯理の肝胆を紐解けるほど親密じゃないから、かなりほっとしていた。


「あっ、お菓子ぐらい持ってくれば良かったね……」

「先に行先を定義してくれれば、手土産買いに行こうって話になったのに」

「だって、一人で颯理のお見舞いにも行けないのかって、悟られたくなかったから」


 小川はこっちを見ながら、ずっとぼそぼそ喋っている。普段あんなに凛々しい小川が、こんなにみすぼらしくなってしまうと、最善を尽くしてきたつもりなのに、罪悪感を覚えてしまった。


 ライブで失敗して、落ち込んで、引き籠っているのは颯理なのに、まるで励ますかのように、小川の元へ膝を突いて前進して、彼女を抱きしめてあげていた。


「小川……、心配してくれてありがとう」

「ままっ待って颯理っ。それはダメだって!はなれっ……まだ早いよ、ねぇ颯理!?」

「何が?小川はさ、いつも私のことを一番に考えてくれるよね。それに甘えてばかりでごめん。でも大丈夫、明日は学校行くから」

「そうじゃ……なくてっ」

「少し、寂しかった。引き籠もるなんて、柄にないことするんじゃないね」


 小川の胸の高鳴りは颯理に届いているのだろうか。意図して無視しているにしても、感受性が足りないにしても、小川にとっては惨いことこの上ない。


 懸命な抵抗により、小川は何とか颯理を引き剥がせた。しかし、彼女は胸に手を当てて、今にも息を詰まらせそうに、この間の颯理みたいにぶっ倒れそうになっていたので、大慌てて背後から支えた。


「げっ元気そうで、安心したよ……」

「小川には……もちろん嘉琳さんにも、悪いことしたと思ってる。でも頭は冷やせました」

「颯理、私じゃ上手く助けられなくて、ごめんなさい……」

「小川の制止を振り切ってるのは私だから、小川は何も悪くないよ。責任は、全部私にあるから」


 しかし小川視点では、この問題に関して事実上の戦力外通告をされたようなものなわけで、遺恨が尾を引いてもおかしくないなーとは思いつつ、その小川は、ひとたび靴を貫通してひんやりし始めたら、その後は容赦なく水たまりに突っ込んでいきたくなるように、全部どうでもよくなっている。まあ、岡目八目である。


「それより明日、自転車の後ろに乗ってく?」

「えっ、そっそれは遠慮しとく!」


 颯理の家を出た後も、小川は余韻に絆されていた。颯理と違って、倒れたら即死しそうなので、家まできちんと送ってあげることにした。


「心臓が痛い……。持病が憎いよー」

「大丈夫……?」

「心臓病だと、ときめくことも許されないとは。はぁ」


 この体たらくを見るに、二人は単に仲良しな幼馴染というわけではなさそうだ。じゃあだから何なのかは、気になる人が本人に聞けばいいけど、重度の恋は強迫性障害と見分けがつかないという学説にも、頷けないことはない。そんなことを考えながら、小川の口に水をねじ込んだ。


 まあ、そういう事を頭で攪拌できる余裕が出てきたってことか。私もさっきまで、颯理のことで頭がいっぱいだったから。

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