初めての共同作業
「あっ、いたいた。今日も背中で語ってるねぇーっ」
璃宙が指さした先には、雨にも負けず、昨日と同じように、美術室のカーテンに包まれた莞日夏が座っていた。
「あれ、本当にあの子だったっけ?」
「そりゃそうでしょうよ。るりは人の顔を覚えるのが苦手なの?」
「だって、陰口みたいだけど、あんなに内気な子が、クラスのいかつい奴らに立ち向かっていったとは思えない」
「それなら尚更、仲良くなってあげたいな」
莞日夏も、外を眺め続けるのが楽しくないのか、それとも顔に雨が吹き付けてくるのが嫌だったのか、滑らかに振り返ってくれた。でも、雪環のハンカチは中々受け取ろうとしない。
しょうがない、なぜか震える手を抑えながら、小動物を撫でるように、私が莞日夏の小面を拭いてあげた。
「せっかく1人増えたし、何しようか」
「ランニング」
「雨降ってるから却下」
「降ってなくても却下するでしょ!?」
「せっかく美術室にいるんだから、絵でも描いてみる……とか」
「おぉー、そうしよう!二人一組で、判定は先生に出してもらう」
「いいけど、画題はどうするの、璃宙ちゃん」
「それはもう、歴史に残ってる名画っぽいのはどっちかで競おう!」
璃宙の視線の先では、素人目には判別できない、書きかけのゴッホのひまわりが乾かされていた。
「適当だね……」
「まあ、先生が絵の構図とか技巧に詳しいとは思えないし、 “ぽさ” で勝負するのがフェアなんじゃないかな」
「うんうん!」
そんなわけで、私は莞日夏と組み、なんか一つ絵を完成させることになった。 “ぽさ” を追求するために、二人は美術室にあった名画事典を片っ端から読み漁っているが、上辺だけ真似するさもしい方法で、莞日夏と勝利したくない。きちんと、テーマから下から絵具を積み上げていこう。
「なんかごめんね~。変なことに巻き込んじゃって」
「ん……絵を描くの?」
「うん。やりたくなかったら、号泣しながら、深夜の美術室で、下書きもせずに、一人寂しく筆を振るうから、無理に参加しなくてもいいよ」
「明日から、本気出す。任せて」
カーテン裏から出てきた莞日夏は、薄暗い美術室に咲く一輪の花、彼女の澄んだ瞳は完成形まで見据えていた。
「じゃー、一緒に頑張ろうー!。それで、何を題材にしたいとかある?」
「鳥、大空を羽ばたく、鳥」
「ほぉー。前途洋々な若人らしい題材だー。何の鳥?」
「ん……鳥?」
「鳩とかひよことかうぐいすとか鶴とか雁とか、色々あるじゃない?」
「……来て」
莞日夏は忽然と立ち上がり、美術室の外まで一直線で歩いて行った。心なしか、耳が赤くなっている気がしないでもないが、まあ人と話すのに緊張していたのだろう。早歩きで後ろから付いて行った。
しかし莞日夏も、雨の中を突っ走るほど無鉄砲な人間ではないようで、昇降口の屋根がある部分で立ち止まった。
「さすがに、雨の中は飛ばないんじゃない?」
「だといいね」
「いいのか……?」
「濡れても平気?」
「いや、傘取ってくるね……」
気を取り直して、ホワイトノイズに包まれながら、莞日夏の言う通りに道を曲がった。確かに、家の軒下に巣を構えてることはあるけど、莞日夏は決して上を向かない。日本に飛べない鳥なんて生息してるのだろうか。というか肌寒いよー、セーターぐらい着てくれば良かったぁーっ。
「ん」
「それは犬……、めっちゃ撫でるじゃん、好きなのね」
雨にも関わらず、犬小屋に入らない風来坊なパグを見つけた莞日夏は、傘から飛び出して、一生懸命頬ずりして仲良くなり、お腹まで見せてもらっていた。びしょ濡れになっているが、もう手遅れなので、止めないであげよう……。
しかし、私は莞日夏のことを何もわかっていなかった。このままだと私が凍え死ぬ。恐る恐る莞日夏の肩を叩き、そんな生ぬるい方法ではなく、もう腕を引っ張って回収した。鳥を見に行くという話をすると、莞日夏は目を丸くして頷き、目的地に向かって歩き始めた。
「ん」
「あれ?あれかぁ……」
莞日夏が足を止めて肩を揺さぶったかと思うと、目の前の電柱には、逃げた動物探しのポスターが貼ってあった。飛べる鳥だったか。
「オカメインコ?」
「ん、そう……なの?」
「そうじゃない?自信なくなってきた」
灰色の体に、黄色の頭、頬には橙色の斑点、立派なとさかがトレードマークな鳥と言ったら、やっぱりオカメインコである。間違っても交喙ではない……はず。
「見つかるといいね」
「そうだね。テーマ、これにする?」
「どうかな……」
「何でもいいと思う。テーマがあるだけマシ」
「本当っ?……頑張る」
「がんばろー。おー」
莞日夏は一瞬だけかわいげのある表情をこぼした。心を開いてくれたなら、靴がびしょびしょになったのも許そう。
「どうやって、描くの?」
「うーん、言われてみれば、油絵なんて描いたことないしなぁ」
それっぽさ、という観点からすれば、ぱっと名画が思い付かない水彩画は不利である。
「まあこの学校にも、一人ぐらいは天才画家いるでしょ」
「美術の先生は……?」
「確かに、私たちにはインターネットがあるじゃないかー」
この学校の美術の先生は、まるでヤクザの若頭みたいな容姿で、とてもじゃないが私のような不束者が、まして莞日夏のような繊細な少女が、声をかけるべきではない。
しかし被せるように自問自答したら、莞日夏は拗ねて、そっぽを向いてしまった。乙女心を解するのは難しい……。
それからしばらくは、放課後に美術室に集い、向こうの長机にガンを飛ばしたり、本やネットの情報に踊らされたりしながら、何とか形にしていった。
気が付いたら、なぜか実際にオカメインコをお借りできた。
「んん……?」
「鉛筆の先端から親指までで測るらしい」
「こう?」
「縦方向に動かしたらダメじゃない?」
このまま首をかしげ続けているのもかわいそうなので、私が莞日夏の手首を固定してあげた。頬を膨らませて、ちょっと不満気だが、あっちはさっさと色をぶちまけ始めたので、足並みを揃えたいのである。初心者なのに、黄金比とかにこだわっても仕方ないし。
「仕方なくない。んーと、もっと影を濃く……」
すっごい険相で叱られた。研ぎ澄まされた集中力で、私の助言も介入も寄せ付けない。私にはよくわからない、色の機微にこだわるあまり、表面が地形図のように盛り上がっていく。こうなったら、私は喜んで彼女のアシスタントを務めるしかない。
「うおぉーっ、プロじゃん、個展開きなよー」
美術室の蛍光灯が輝く頃、作業を終えて寄ってきた璃宙たちが、無我夢中の莞日夏の後ろで感嘆の声を上げている。
「ふふーん、才能が覚醒してしまった」
「時雨ちゃんは、受け売りの知識を披露して、莞日夏ちゃんに首をかしげられてただけでしょー」
「しっかり見てるのね、ゆきもるりに丸投げしてるの?」
「そんなわけないでしょ。喧嘩したから、二分割した」
乾燥中の二人の絵には、躍動感を狙って斜めに黒線が入っていた。しかも、はみ出されたらはみ出し返すという、壮絶な戦いの痕跡が見て取れる。相方に筆を奪われるのと、どっちが良かったのだろうか。そもそも絵とは元来、一人で描くものだったかもしれない。
「もう6時過ぎたし、帰ろー、お腹すいたー」
「帰れると思うかい」
「えぇー、あと何分ぐらいかかりそう?」
莞日夏の気分を損ねた時の恐ろしさは、すでに3人に共有されているので、璃宙は私に尋ねてきた。まあ、絵の具が乾燥するには時間がかかるし、無際限に作業できるわけでもないから、今日中には帰れるだろう。
「ちなみに、やけに写実的なのは、私の発案だからね。これを壁に掛けておけば、一瞬本物がいると勘違いしてくれるでしょう」
「そんなことをするために、莞日夏をこき使ってるんだ」
「違う違う、奪われたんだって!」
「ん、今日はここまで」
璃宙に訝しまれていると、ようやく莞日夏は筆を置いてくれた。まあ、そんなに満足気な顔をしてくれるなら、止められるわけがない。さて、見回りが来る前に、早く片付けて校舎を出なければ。
璃宙による咄嗟の思い付きで始まったけど、莞日夏の毎日も色付いてくれたんじゃないだろうか。彼女は何時も絵の様子を気に掛けて、筆を持っていない間はそわそわしている。裏返せば、他のことに身が入らなくなったということでもあるが、若い内はやりたい事に一生懸命になっておけばいい。
まあ私としては何より、喉を開いて、精一杯反発できるようになってくれて、心の底から良かったと感じている。莞日夏の本当の姿は、きっとそこにあるのだろう。