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思い立ったが淡雪  作者: Ehrenfest Chan
第10話:鏡花水月のイデア
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デジャブのイデア

 私の知らない場所で、物事はめまぐるしく進められている。楽譜がライブ中に宙を舞って、顔を上げた颯理が成す術もなく倒れたり、古の炊飯器が解散していたり、新学期早々穏やかじゃない。嘉琳や天稲に任せっきり、好きな曲を好きなように演奏するだけなのも不健全だと思って、放課後、とりあえず蒔希と常葉の元に向かった。


 奇しくも二人は最近、美術室に入り浸っているらしい。いや、何に対して奇しくもなんだ?まあいいや、二人は画材や筆に囲まれた、ごく一部の人間にのみ極楽な環境で、何をするわけでもなくぼんやりとしていた。


「よぉーこそ、時雨さん。はい、コーヒーだよぉー」


 私は適当に椅子を持ってきて、教卓の反対側で跨った。それはそうと、常葉が机に置いたこのカップ、どう見ても筆洗だっただろ。こんなもの飲めるか、桜歌を見習え……そう言えばあの時、紅茶で満足してコーヒーに興味を示さなかったら、とても拗ねていたらしい。それをライブ前に、責めるように話してくれた黎夢だったが、彼女も手に取っていないのである。


「時雨っち、それは食品用の着色料よ。私たちが、後輩をいびるような事をするわけないじゃない」

「それでもばくばく口にしたくないんだけど」

「信じなさぁい、現代文明をぉー」


 仕方ないので、表面がざらざらしてるのも耐え忍んで、さっさと全部飲み干した。常葉がにやにやしているあたり、もう一つぐらい仕掛けがありそうだが、もう胃袋に入ってしまったので、追及する意味もない。


 私はすっかりいつもの速度感に引き戻され、むしろ落ち着き払えた。


「まー、聞きたいことなんて1個しかないんだけどー」

「私がなんで軽音を辞めたか?それは単純明快一目瞭然、うちのボーカルが、あなたたちに嫉妬したから。器の小さいひとでねー。これ以上野放しにすると、時雨っちやささっさんに迷惑がかかるから……もうかけちゃったけど」


 理由を他人に求めている割に、蒔希は笑顔でそう語った。


「でも、そこまできっぱりと、しっかりと辞めなくても……?」

「一つ、古の炊飯器の人気は、私一人のものじゃないの。それこそ、常葉の過激なパフォーマンスなんかがあってこそ。だからメンバー取っ替えますってやると、珍しく正鵠を射た噂が飛び交ってしまう。時雨っちも、向こうの肩を持つ人が出てきそうなことぐらい、肌で感じてるよね」


 そう言えば、執拗に視線を送ってくる先輩がいたなぁ。数々の人間関係のこじれを経験してきたからわかるが、あーきらかに嫉妬している目だった。


 それに気が付いているのなら、もう少し介入していれば……、颯理が今みたいに気を落とさなくて済んだかもしれない。最近の私は、キャラクター作りに奔走しすぎだったと、深く深く反省した。


 まあ蒔希と常葉に関してはつまるところ、高校生らしいしょうもない理由で、人知れず花道から逸れて、日陰者の楽園である美術部を乗っ取ったという話らしい。


「じゃあ音楽も辞めちゃうの?ちょっと寂しい」

「そう?ありがとうー」


 蒔希は突然教卓に身を乗り出した。恐らく抱きしめたくなっちゃったんだろうが、教卓がそれなりに幅を持ってるので届かなかった。命拾いしたぜ。


「二つ、プロ並みの腕前はあるんだけど、別に私は楽器で飯を食いたいとは思ってない」

「なんか安っぽい言い回し。さすがの私でも、恥ずかしくて音読できない」

「音楽がどうでもいいのは本当だよ?朝は鳥のさえずりで目覚め、庭の手入れに励むお手伝いさんに挨拶を済ませたら、うまいコーヒーで頭を冴え渡らせ……」

「冴え渡らせ?」

「地鳴りをBGMにして、徒然なるままにダイナミックに筆を運んで、油絵製作に一日中没頭したい。命を削るように、野生を切り取った絵を描きたい。これが将来というか、私が理想としてる生活なの」

「どっかで聞いたな、似たようなライフスタイル。みんな、牧歌的な楽園に憧れすぎじゃない?」


 仮に、絵を描くことに一生を捧げようと決意したとしても、私にはインターネットのない前時代的なアルカディアでの生活は無理だ。


「えっと、でもせめて、軽音に所属したままでいてくれない?絶対、後釜扱いされてる私たちが部長とかやらされるじゃん」

「それも社会勉強だと思って頑張って」

「“あれ” を取りまとめるの、false役不足なんだけど」

「ふふっ、いつも人の上に立てばいいってもんじゃないの。それは手段でしかない」


 何をほくそ笑むことがあるのか知らないが、一つわかったのは、かわいい後輩だからと言って甘やかしてはくれないらしい。


 初めから説得なんてできないことは見え切っていたが、それでも後輩として、一番弟子として何か引き出せないかと勝手に驕り高ぶっていた。けれど、当然の結果に終わって、私は少々面倒になってきた。


「安心してー。もし時雨っちが困っていそうなら、こっちから助け舟を出してあげるから」

「ふん、せいぜい美術部で余生を満喫しててください。手出しは無用ですぅー」

「へぇー、時間なら山ほどあるから、時雨っちの恋路を応援してあげたりしてもいいのになぁー」

「恋ぐらい、自分でできるんだけど?」


 蒔希はついに教卓を回り、のっしり体重をかけて、ほっぺたをくっ付けてきて、往生際の悪さを披露している。それを適当に払いのけるジェスチャーをしていると、常葉の目線の先が気になった。


 カーテンの向こうには、春風を無味乾燥に浴び続ける、一人の少女が座っていた。蒔希が体重をかけているので、すぐに動き出せなかったが、それはかつて見た光景そっくりだった。


 まあ、体重をかけられているおかげで、偶然の可能性も模索できた。確かにこの時期の風は本当に気持ちいい。それに、青と白のバランスが取れた空、どこまでも続く住宅街が、窓の外には広がっている。初めから好感度MAXの、最近ありがちな、希望に満ちた話が連綿と続く物語の始まりを示唆しているようだった。


 払いのけるジェスチャーを止めて、しばらく少女の様子をうかがっていると、蒔希が半笑いで口を開いた。


「知り合い……なわけないか」

「えーそうですとも、知り合いではないけど……」

「血の盟約でも結んでるのぉー?」

「そうですが。で、あの子は誰なの?」

「えぇー、島袋(しまぶくろ)鏡花(きょうか)だよぉー、十六島の島に、足袋の袋に、海鏡の鏡に、燕子花の花で島袋鏡花。あの、我が校初Jリーガーの妹さん。もしかしてぇ、お兄さんをご存知ない?」


 常葉は煽るように聞いてきた。しかし、そういうのにきっぱり興味がなくなってしまったので、というか知らなくても生きていけることに気付いちゃったので、全く悔しくない。


 それはさておき、そんな話を聞くと、別の既視感もある。優秀な兄弟を持つと、だいたい碌なことにならない。少女を形作っているのは、どちらかと言えばそういう背景のほうかもしれない。


「なぜだか、常葉の家と島袋家って付き合いがあるらしいよ。つまり常葉の幼馴染」

「なるほどー」


 蒔希は掴んだものを中々手放そうとしない。いつ出し抜こうか相槌を打ちながら考えていると、常葉も力強く何度も頷いた。その間にも鏡花はぬるい風に、顔をくすぐらせていた。


「でもぉ、私が法律の抜け穴を突いたりぃ、カグーの威嚇の真似を通行人に披露したりしてもぉ、あんなふぅーに、あんな感じなんだよぉ。今まで誰にも心を開いてないと思うぅー」

「それは絶句してるだけなんじゃない、ねぇ」


 蒔希の意見には強く同意せざるを得ない。


「あの。鏡花に、話しかけてみていいですか」

「おぁー、チャレンジャーだぁ」

「ん?いつになくやる気がたぎってるね」

「どぉーせ無理だと思うけど」


 私は常葉の戯言も意に介さず、鏡花の背中をまっすぐ見据えて、慎重に蒔希の腕をほどいた。蒔希は、いつになく本気で一途で凛々しくて毅然とした私に、恐れをなして一歩引き下がった。


 見て見ぬふりをするという、臆病極まりない、過去の自分を否定するような選択肢が浮かんでくるのすら嫌だ。何より、縁を簡単に諦められるわけない。私は、あの時からは考えられない浮ついた足取りで、二人が見守ってるかどうか振り返ることもせず、鏡花の肩を優しく叩いた。


「どうもー。初めまして」

「ん……」

「私、多々良時雨ーっ、気軽に下の名前で呼んでね……、よろしくねっ」

「んっ……」


 野生動物並みのスピードで振り返ってくれた鏡花に、ピッチを上げて普通に話しかけたら、とても微かな虚しい咳払いだけが返ってきた。


 まあそんなことはどうでも良くて、私は我を忘れて固まってしまった。椿姫とは違って、両腕両脚がうずいている。なんて冗談が面白くなくなるぐらい、使い古された表現を焼きなますなら、為す術もなく心を奪われた。


 この私が全部一緒だと評しているのだから、全部一緒なのだ。小動物のようにこまめに動く黒目、固く結ばれたヒビ一つない口唇、触りたくなる?いやなぞりたくなる外耳、莞日夏ポイントは枚挙に暇がない。


 それでも私には弁識がある。ここで泣いたり笑ったり再会を喜んでも、島袋鏡花は微かな一文字で、それらを一蹴するだろうことは想像に難くない。……いいんだ、2022年6月1日の、あのぎこちない空気をもう一度体験できるなんて、私は運がいい。


 いくら相手が鈍感そうでも、油断するわけにはいかない。感情オーバードーズで倒れたりしないよう、鏡花の顔を直視するのを辞め、サッシに両腕を置いて、花粉まみれの新鮮な空気を存分に吸った。


「戎橋なんかが見えたら、もっと見下ろし甲斐があるのにね」

「んっ……」

「今日はいつまで、ここでのんびりするつもり?」

「うん……」

「あーえっと、まあ悪くないねー。暇だったら、私もまたここに来ようかな」


 貴重な体験だと誤魔化したが、やっぱりレスポンスが足りない。あの頃の私は、一体どうやって莞日夏の心をこじ開けたのだろうか。開きっぱなしの瞳孔に乾燥した風が吹き付け、混乱が妙な高揚感に乗っかって、漠然と吐きそうになっていた。


 それでも、ゴムロープ上の蟻はいつか必ずゴールに辿り着けるらしいし、私も再びあの境地に辿り着いてみたい。少女の笑顔には、身を削るだけの値打ちがある。


 まあ、鏡花がもう少し社交的な性格だったなら、私の人生はめちゃくちゃ変わっていただろう。絶妙なバランスで、奇跡の巡り会わせを重ねて、世界は動いている。

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