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思い立ったが淡雪  作者: Ehrenfest Chan
第10話:鏡花水月のイデア
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レトロスペクティブ莞日夏

「あ゙ぁー疲れた、頭が割れそうぅー……」

「体育の後の国語は、さすがに堪えるよねー」

「寝ればいいのに。ふぁーあ」


 机を使って背筋を伸ばしていると、雪環とあくびにかまける璃宙が近付いてきた。二人に差し向けられる視線は、未だに不倶戴天の敵を見るようで、誰もが口角をピリつかせているが、まあ歯牙にもかけず、部活が無い日はからかいにやって来る。


「そうしたいのは山々なんだけど、テストでまずまずな点を取らないと、受験で困るかなーって」

「えー、受験の話するのやめてよー」

「でもいつかは、考えないといけなくなるんだよ」

「ゆきもなー」

「わっ私はっ、身の丈に合った所しか受験しないし」


「実際、るりは大丈夫なの?」

「うーん、スポーツ推薦とかあるし、何とかなるっしょ!」


 璃宙は強く拳を握って、自信たっぷりにそう言った。そういう冗談に、人生を巻き込まないであげてほしい。


「心配だー」

「だよだよー」

「そんなこと言われても、何ができるって言うんだよ」

「テストでいい点を取れば……」

「そうだボランティアだよ、人助けをしよう!」


 璃宙は私の発言をかき消してまで、気の進まないことを提案してきた。私は少し変なことを考えすぎる性格なもので、そういうことに現を抜かすのは気が引ける。


 しかし璃宙が、半ば強引に雪環の手を引っ張っていくので、後ろから付いていかざるを得ない。もちろん、表立ってはしゃいだりしないけど、空気の色を読んでは息を詰まらせる哀れな子羊たちを、余裕と父兄感をもって見下してはいる。


 璃宙の嗅覚のままに校内を歩き回っていると、担任の厚狭先生を発見した。まあ、こんなに恰幅のいい中年男性の図体なんて、廊下の端からでも視認できる。


「せんせー、何か困ったことはありませんかー?」

「そういう感じで行くのね」

「そりゃあ、厚狭先生なら、裏社会との繋がりもあるだろうし、さいっこうの仕事を持ってきてくれるでしょ」

「俺を何だと思ってるんだ、隠」

「あまぁーい話、ありませんか?絶対第一志望に受かる、秘密の仕事」

「そんなものはない。しっかり勉強しろ」


 厚狭先生は璃宙の頭を、体罰にならない範囲でチョップした。


「何でもいいんです、暇が潰せれば。一応、先生には色々お世話になったんで、もし数合わせでボランティアに出てほしいとかあったら、3人で参加しますよ」

「お世話に、ねぇ。俺は何もしてないんだけど。まあいいや、そういうことなら、一つ頼んでみたいことがある」


 厚狭先生は私たちを、辺境にある物悲しい美術室に案内した。肉体労働だったら全部璃宙に丸投げしようと決意を固めているが、本人はやる気に溢れている。これがフェアトレードか。


 薄暗く薄汚れた美術室では、カーテンという薄衣の向こうに、誰かが背もたれのない例の椅子に座っていた。その時、まあまあムカつく強さの風が色んな物を巻き上げて、少女の姿勢ぐらいは露わになった。でも彼女は、ペトリコールの混ざった梅雨の息吹も気に留めず、青々とした田んぼをただ厭世的に眺めている。


 どうしたらいいのか分からないので、その少女を見習って、こっちもじっと棒立ちしていたが、風が止むと厚狭先生が話し始めた。


「あの子はいつもあーなんだ。前の担任にも、保護者にも聞いたけど、何も語らないし、誰にも心を開かない」

「いじめられたことがある、とかですか……?」


 雪環はぼそぼそ呟くように尋ねた。


「何も言葉にしてくれないから、それも分からない。ただ簡単なすれ違いで、人と話すのがトラウマになってるだけかもしれないし」

「わっ私たちが、あの子の心を開けばいいんですよね!?」

「まあ……それをあいつが望んでるかは知らないけど、仲良くできるなら、それに越したことはない……」

「でも、二人組を作る時に困ってたからちょうどいいです!頑張って仲良くしてみますっ」

「別に、るりがゆきを渡してくれたら、その問題は解決するのよ」

「やだやだ、せっかく今年はまた同じクラスになれたのにーっ」

「三人組を作らないといけない時はどうするの?璃宙ちゃん」

「その時は、時雨を除け者にする」

「私は悲しいよ。友達だと思ってたのに」

「いやいやっ、これは高度な計算の結果なんだって!時雨のほうが、初対面の人と話すの上手でしょっ」


 璃宙の計算結果はある意味正しいが、一つパラメーターを代入し忘れている。


 とにかく、厚狭先生も歯切れは微妙に悪かったが、要はあの少女をはみ出し者の輪に入れてあげてほしいということらしい。当然にように、さっきまで主導権を握っていた璃宙は、いつになっても一歩も踏み出そうとしないどころか、息を呑んで私を見守っている。結局煮え湯を飲まされるのは私なのかぁ。少しどきどきしながら、ゆっくり少女に忍び寄った。


 カーテンを思いっきりめくると、さすがに少女も後ろを振り返った。思わず指を絡めたくなる内巻きの癖毛に隠れた、幼い頃夢見た雪原のようなすべすべの額、そして何より丸くて大きい瞳、私を待っていたかのようで、勝手に私を射抜いてくる。特段、幼いあざとい子供が好きということはないんだけど、これにはじわじわと心を煮立たせられた。


 もう一度まばたきしてズームを戻すと、少女が命の恩人であることに気が付いた。あの時は逃げられてしまったけど、今なら……何ができる?


 何もできないまま、冷えた風にあぶられ、少女と目を合わせ続けた。月並みな言葉で終わらせていいのか。そう、仲良くならないといけないし、誰かがやらないといけないし、私は一方的に抱きしめていた。


 言葉なんて、軋轢を生むだけの余計な発明だ。こうやって優しく身を委ねれば、一つの陽の玉に取り込まれた気分になって、心も体も通じ合える。私はこの行動に妥当性を与えるために、改めて感謝の言葉を耳元で囁いた。


「この前は、ありがとう……。きちんと感謝したかったの。えっと……」

「ん、誰?」

「私は多々良時雨。気軽の下の名前で呼んでね」

「ん……」


 とても微かな咳払いだけが返ってきた。やはり、親しくもないのに、そういう空気でもないのに、肌と肌を触れ合わせるのは、悪手だったかもしれない。しかし少女から離れると、急速に体が冷えていく。あったかかったなぁ。


「何か、面白い物でも見えるの?それとも、風が心地良い?」

「……つまんない」

「つまんないかー。渋谷のスクランブル交差点なんかが見えたら、毎日でも飽きないのにね」


 少女は窓のサッシに両腕を置いて、再び外の景色をつまらなそうに浴び始めた。お望みとあらば、一緒に遠くを見て視力を鍛えていると、黒板近くで他人事のように突っ立っていた二人も、さすがに寄ってきた。


「名前はなんて言うの?」

「さあ」

「それって、結構大事なことじゃん。聞いといてよー」

「そう、名前って大事だよ。名は体を表す、その人のアイデンティティと言っても過言じゃない。簡単に聞けないね」

「木滑……莞日夏……そんな感じ」


 莞日夏の綺麗な瞳と目が合った。あんまり表情が柔らかくなってないことを確認した上で、私は遠くの山に視線を戻し、何となく彼女と緩く肩を組んだ。


「莞日夏ね、よろしく」

「えっあっ隠璃宙っ、体を動かすのが好きで……ででででも体を動かさないのも好きですっ」


 莞日夏は騒ぎ立てる璃宙に顔を向けて、そっと頷いた。これだけたくさん頷いてくれるのなら、いつかきっと心を開いてくれる……はず。そういう淡い期待も、僭越ながらいだいていた。

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