馬鹿と煙は高い所が好き
空気が澄んで美味しい。実際は、標高1830 mだから薄味なんだろうけど。
「やまとってるのー?」
「うん、将来、天然水を販売することになった時のために、パノラマ写真を撮っておかないと」
川を挟んだ向こうには、アルプス山脈を彷彿とさせる、雪化粧をした高貴な峰々がそびえている。正直スキーとか、体のあらゆる場所を疼痛に至らしめる魔のスポーツだが、こういう景色とか、日常から解脱された感じとかは、希少なものなので存分に楽しむことにしよう。
「ネットでフリー素材探せばいいでしょ」
「そういうのって、だいたい商用利用不可だからさ。約款読むの面倒だし」
「なんと、れむはラベルをはがした、てんねんおしょうちょうてんねんすいを持っているのだー!」
今日は帽子の中から出てきた。何となく、あまり口にしたくない。
「インスタントなカメラじゃないから、その場で現像できないんだけど」
「スマホに撮った写真を映して置いてみたら、イメージは掴めるかも」
「うーん、なんか味気ない……。日本の山は大陸に勝てないのかなぁ」
「ロゴマークを入れたら、もっと賑やかになるよ。なんて商品名にする?」
「いろはにほへとがいいのー」
「そういう意味じゃないけど、色が匂う天然水は嫌だな……」
「あの、なんでスキー場に来て、天然水で盛り上がってるんですか?誰も滑れないんじゃないでしょうね……」
そう、颯理のビッグブラザーより正しい一言により、自分が煙であることを自覚する。漫然と高みを目指したが、軟弱な2枚の板と2本の杖は、私の動きに付いてこれまい。
と、浮かれて軽率な行動をとったことを、十二分に反省したところで、視界の端で颯理が杖を漕ぎながら前進し始めた。
「我慢できないので、それじゃあ一本滑ってきますー」
「待ってさぁーつりぃー、追いついてやるぅー」
「えっ、嘉琳!?嘘だよね、置いてかないでーっ!」
「フハハ、悔しいなら……安全第一で降りてきな!」
予防線を張りやがって……。しかし私は身の程をわきまえている初心者、あれに付いていこうとしたら、確実に鼻の骨を折る。ここは必死に、自分が二人に勝っている部分を列挙するんだ。身長とか、食べた馬肉の枚数とか、流した涙の量とか、目の合ったハシビロコウの数とか、きっと負けない!
とは言え、誰もが自己肯定が得意というわけでもないので、たまらず身の丈に合わない勢いで滑ろうとする人もいる。澪都と黎夢が仲良く転がっていった。
「我が亡き後に雪崩よ来たれ……」
「すいへーリーベれむの船、なまえあるシップスクラークか……」
雪よりも冷や冷やしていると、粉雪も私の髪も舞い上げて、トールハンマーだかジョワユーズだかカーテナだかが、ソニックブームを撒き散らしながら滑り降りていく。そして、淡雪のように甘くて浅はかなお間抜け二人を回収していった。その様はまるで白馬のようだった、ことにしたら巧みだねぇ。
ふと周りを確認すると、知り合いが誰もいなくなっていた。もしかしてこの長い斜面を、独力で滑りきらないといけない?だって、ゴールが視力検査の気球ぐらい遠いよ?勢いに身を任せて、私も転がっておけば良かった!
だいぶ迷った挙句、やらかしたら疾風迅雷のトールハンマーが助けてくれるだろうという結論に達した。だから安心して、でも調子に乗らず少しずつ、石橋ぶっ壊して渡るぐらいのつもりで……。周りに煽られているという被害妄想を忍ばせながらも、足がすくんでいるおかげで、板が綺麗な八の字で固定されて、歩くより遅い速度しか出ない!
そんなこんなで、何とか下界まで辿り着いた。人は下を見て安心する生き物だ。
「うおー、私は生きて帰ってきた……ちょちょちょっぐおわっ」
雪まみれになっている馬鹿2人とか、嘉琳とかが、私の凱旋を心待ちにしていたので、思わずストックを振ったら、まだ傾斜が残っていて、予想しない加速度にあおられ、山小屋の横に建築された、立派なかまくらに激突した。
「大丈夫?」
「どーなってんの、このかまくら。堅牢すぎるでしょ!」
「そこかよ。私は時雨の心配をしてあげたというのに」
嘉琳の手を掴んで立ち上がると、かまくらの中から真朱帆と桜歌が登場した。
「サージョンスペシャルで体を温めよーう」
真朱帆はいつものように、高級かもしれない茶葉の抽出物を注いだ、ブランド紛いかもしれないティーカップを、ここに居る一行に配った。たなびく湯気に乗って紅茶の芳醇な香りが、詰まりかけている鼻腔を刺激する。
「待ちなさーい。それを飲むと……」
「統一意志決定機関に自分の脳がリンクされる」
「そう、なんか大変なことになる……!」
澪都のアシストを貰いつつ、桜歌は手を広げて前に突き出した。創作物の中でしか見たことがないポーズだ。まあ、そんなわけないので、美味しく紅茶をすすった。冷や汗で凍えそうだった体に染み渡る。
「紅茶なんて飲むから舌が増えるのよ。時代はジョー、エチオピア仕込みのコーヒーセレモニーを堪能していきなさい」
「せんせー、ふえた舌はどうすればいいんですか!」
「本当に増えてるか、見せて」
黎夢は大きく口を開けて、舌を伸ばした。
「まるでカーリーね。ほら、踏み台になったら?」
「なぜ私を見ながら言った」
「もし異形の怪物に襲われたら、私のことは置いて逃げろって言いそうだから」
「弱そうなのに、残ってどうするんですか?」
「うーん、阿智原さん一回殴っていい?」
「なんで私!?いてっ」
嘉琳は、ぽかっという擬音が似合いそうな強さで、桜歌の頭をチョップした。
「それじゃあ、美味しい紅茶も頂いたことだし、もっと下まで滑ってくるー」
「あぁーっ!また私を置いていく気ー!?」
しかし椿姫には及ばないにしても、嘉琳も手慣れた手さばきを見せびらかし、初心者たちの視線を釘付けにしている。どんどん遠ざかっていく……。
「仮にカリーングラードが留まってくれたとして、何をするつもりなの?」
澪都に純粋な瞳で問い掛けられた。別に深い意味はなくて、なんか一緒に滑る余裕が私にあったら、ただ最高だろうなぁと妄想してみただけである。
「あっそうだ、水上さーん、教えてよ、なんか一子相伝の技でもあるんでしょ?無くても作って!」
「えぇ……それは……」
「自信がないなら、私が教えてあげるよ、門外不出のトボガンを」
「いや澪都、蚕にでもなりたいのかってぐらい、見事に転がってたじゃない」
さっきの、まるでてんぷら粉の中を転がされるような有様を、トボガンだと言い張るつもりか?
「いやー、ぜひ綿津見様に、スキーの手ほどきをご教授願いたいんだけどぉー?」
「いいんじゃないですか。せっかく慕われているんですから」
口裏を合わせているのか、颯理に宥められて、椿姫はぎこちなく頷いた。もしかして本心では嫌なのかな……。距離感を掴みかねているだけだと信じたい。