妹のたのみごと
椿姫は下を向きながら校長室を飛び出ていった。私は遠巻きに監視していただけなのだけど、彼女が味わっている苦痛の存在を認められる。とても気の毒なのと同時に、他人事でも無かった。
誰もがみな、他人から荒唐無稽に思われる宿痾を抱えている。それは馬鹿にしていいものではない。どれも、各々の心臓に根深く突き刺さっている。鼓動の度に、ずきずきと痛むのだ。
椿姫の妹さんは当然ながら、廊下のほうを向いて、その場に立ち尽くしていた。
「あっ、あんなのは、日常茶飯事ですよぉー」
「すいません、姉が取り乱してしまって。それは本当ですか?でしたらやっぱり……」
「あー違います違いますっ!間違えましたー!」
心ここにあらずな妹さんを励まそうとしたら、とんでもない過ちを犯してしまった。一人で舞い上がっていると、母親の若さを吸収する目線を感じたので、生徒会室に場所を変えて、妹さんのフォローを続けることにした。
「こちらの方は?」
「世界を陰から操る上位生命体の、バガヴァッド=ギーター五百旗頭よ」
「馬原澪都の間違いです。って、なんで居るんですか?」
「最近、部費でいい布団を買ったの。アイスランド産の溶岩が入ってるとか。そんなの寝ないと損じゃない」
あんなに太い尻尾を身に着けていたのに、もっと軽そうな布団一つ持ち運べないのか、とか思ってない。
「あの、姉は、学校ではどんな感じなんですか?」
「実はあんまり付き合いがないもので……。今回の件を調べてて、それで初めて接触したんです」
「そうなんですか……。えっ、ぼっち!?」
「そうよ」
「友達は何人かいるみたいですよ。クラスの人ともきちんと話せてました」
「そうなんですね……」
「信用していいですよ。私は1週間ぐらい物陰から監視してたので」
「監視ですか!?ありがとうございます!姉のために!」
ユーモアのつもりだったのに、スタンディングオベーションされた。何でもかんでも、大真面目にやってると捉えられるのも困りものだ。
「別に姉のこと、信じてないってわけじゃないんですけど、言葉の綾があるんじゃないかって、無用に勘繰ってたんです」
「お姉さんのこと、大切に想ってるんですね」
「まあ、なっ何よりも、大事な人ですよ……」
妹さんは目を伏せながら、それでも肝心なことは言い切った。姉妹はそれだけ強い紐帯で結ばれている。そんな感動的なセリフに一人っ子の私は、欲だらけの羨望の眼差しを送っていた。隣の偏屈者も持っているということが、尚更そう思わせる。
「恩着せがましいんですが、無理かもしれないんですが……でも、お願いを聞いてもらっていいですか」
「何でも協力しますよ。私も、お姉さんの悩み、少しは理解できるので」
「ありがとうございます!凄く親切な方ですね……。見習いたい」
「おー、交渉成立ね」
妹さんは立ち上がって、深くお辞儀した。しばし沈黙が流れる……。いや、お願いの内容は?
「それで、何をしたらいいんでしょうか……」
「あぁっ、すいませんっ、つい親切すぎて、肝心なことを伝え忘れてました……」
妹さんは背筋を伸ばして、肩身が狭そうに座りながら、ぺこぺこお辞儀している。かわいい、何だか人生で一番妹が欲しくなった。
「今度、スキー教室があるじゃないですか」
「そういうことなら、私に任せなさい。トボガンなら教えられるから」
「逆です。身内贔屓ですけど、姉は日本じゃ敵なしの、抜きん出たすきーやーなんです。なんですけど、あの腕のせいで、まともに滑れなくなってしまって……。何が言いたいかっていうと、えっとぉ……」
「お姉さんの腕を、鎮めてほしいってことですよね……」
「いえそのっ、そんなも無理ですっ。姉は10年以上この問題とドラゴンスクリューしてきてるんです。私はただ、姉の生きがいを取り戻したいだけで。だから、ゆっくりでいいから、もう一度滑ってみるよう説得してくれませんか」
「それだけで、本当にいいですか?」
私は一呼吸置いて、一回澪都の顔を見てから、妹さんに確認した。強引にongoingしなければ、望んだ未来はやってくるはずがない。澪都は、その点に関しては偉いと思う。
「無論、保証はできないんですけど、どこに僥倖が落ちてるかわからないものです」
「お医者さんにもぽかんとされて、途方に暮れるしかなくて……。無理だと思います」
妹さんは壮絶な過去を思い出して、涙がじんわりと溢れていた。
「敏腕医者夫妻の一粒種から言わせてもらうと、そいつはヤブ医者ね」
「それでも本人が、いや妹さんが、どうにかなってほしいって神様に祈りを捧げるぐらいなら、何か方法を探させます」
「そこまで言うなら……。べっ別に、治ろうと悪化しようと、また菓子折りたっぷりぶら下げて、ここに来ますから!」
妹さんは涙を溢さないよう、躍起になりながらそう宣言した。いつかは誰かが、地獄の底から掬い上げてくれると信じてないと、普通はやってられないのに、なんてたくましいのだろう。何だかとても既視感があって、つい私も必死になってしまった。二人の威光が、虚構でないことを証明してほしかったっていうのもあるけど。
「今日はお時間を頂戴しまして、誠にありがとうございました。それじゃあ、そろそろ私は姉を探しながら帰ります。やっぱり、私がいないとダメなんですよ」
「今日の損害も、母に揉み消してもらいますので、気負わないようお伝えください」
「この人、ただの狂人だから、明日には裁判所からのラブレターが届くよ」
「黙らないと、そろそろ小会議室出禁にしますよ?」