古びた鎖
ケーキがよく切れるぐらいの音で喜んだ。椅子をぐるぐる回した。暖房の温度を2℃上げた。脳が焼けているような気がした。
改めて、最後のドミノを置くぐらい息を荒くして、パソコンの画面を直視する。思わず指を絡めたくなる内巻きの癖毛に、幼い頃夢見た雪原のようなすべすべの額、丸くて大きい瞳が実る童顔を、寒いからか一生懸命働いたからか、ほのかに紅潮する頬が引き立てる。まるで私を待っているかのような切なく透き通る視線が、見事に私の心を射抜いた。
そしてそして、何と言っても、今の自分と同じ制服を莞日夏が纏っているという事実。特に語ることもない、ごくありふれた制服でも、莞日夏を通せば様々な意味を演出してくれる。高校生になっても、小さめの莞日夏ならスカートが膝下まであるだろうし、生真面目だからそう簡単に着崩そうとしない。
文化祭の時に感動したイラストの作者さんが、ネットで知っていた人と同一で、何とか手練手管で意気投合できたから、試しに頼んでみたら、こんなに精緻なイラストが返ってきた。絵の技術はさることながら、現実の美少女を、彼女が満足できるぐらい特徴を残しつつ、デフォルメしている点についても、瞠目するばかりである。
なんか、新しいタブーを生み出してしまった気がする。横目でちらっと見るぐらいにしておかないと、七色の感情が湧き出て、突拍子もない行動に出てしまう……。
「時雨ちゃーん、雪かき手伝って~」
「くぁwrfsptgdjhlぬえい;お」
昨日、雪が降りやがったおかげで、新年早々私が一番やりたくないことをやらされそうになっている。嫌だ、私は室外機の前以外、除雪してやらないっ。
しかしその決意も虚しく、スコップと手袋と耳当てを持って、母親がこっちに近付いてくる。正月なんだし、どこのお店も閉まっているだろうから、家に引き籠っていればいいものを……。かくなる上は、それらを受け取るふりしてのっそり近付き、頭を下げて母親の腕の下をくぐり、部屋から飛び出して、自宅から逃亡してやった。雪環の家で匿ってもらうか。
雪のピークは昨晩だったが、未だにパラパラと降っている。うわっ、足元気を付けないと、結構簡単に滑るな……。乙女らしく小走りするのはやめて、腰を据えて胸を張って雪環の家に向かった。
「私は時雨ちゃんが何を聞いてくるのか、もう予想できちゃうんだから。何年の付き合いだと思ってるの?」
「2年目ですね……」
「あれ、案外短い?」
「それで、私がどんな皮肉をゆきにぶつけると言うのさ」
「そりゃあ、太った?とか、無神経に聞いてくるかなーって」
「ミシュランの気色悪いキャラみたいになったら絶縁するけど、些末な数字の変化には興味ないんで」
「友達も面食いするの……」
「めんこいよ」
小顔に見えるらしいポーズを取って、雪環を見上げてみた。
しばらく兄が家にいるだろうし、ストレスでストゼロにセッターを装填していたら見捨てようと覚悟していたが、存外血色もよく?穏やかに過ごせていたので、安心してここに居座れる。
「時雨ちゃんは、今週何か予定ある?」
「無いよ、寒くて家から出たくないー。あっ、泊まってこうかな」
「えっ、あ、聞いたよ、スキー教室があるんだって?」
「誰からよ」
「嘉琳ちゃんからー」
「あんたたち、仲いいわねぇ」
「あ、これも聞いたよ。この間のライブで、意気揚々とMCを始めようとしたら、次の曲でかき消されたんだって?」
颯理が顔を上げたらゲームオーバーなので、言葉通り息もつかせぬ勢いで、矢継ぎ早に演奏させられた結果、ただ変な声を上げた人になってしまった。今考えると、間違った解決策な気がしてならない。颯理はこれで満足しているのかしら。
それ以上に意味がわからないのは、その動画を雪環が保持してることなんだけど。
「本当は、現地でデコトラみたいな団扇をかざしたかったけど、人混みは疲れるから……」
「そう切実に呟かれると背中を押したくなるけど、絶対やめてね!?」
雪環が慎ましくにこやかにできているのを見ると、どれほど私が役立っているのかはともかく、胸を撫で下ろさずにはいられない。私は心置きなく、天井のしわの数を数えた……かったのだが、雪環が珍しく声を張り上げたので、意識がそっちに吸い寄せられる。70代だったら脳卒中になる速さで首を起こした。
「とっところで時雨ちゃんっ、私、この先どうしたらいいんだろう」
「新年早々、重い話ね……」
「あの、実は高校の先生に勧められて、通信制の学校に通うことになりまして……」
「おー、いいじゃん、時間の無駄が少なくて」
「そうなんだけど、お兄ちゃんが普通の学校行ったほうがいいって……」
「お兄さんの言うことなんて、無視すればいいのよー。血液クレンジングと同列」
「でもでも、姿勢を正して考えてみると、やっぱり辞めないほうが良かったかなぁって。きちんと卒業できる気がしないよ……」
優柔不断さをアピールしたいのか、椅子をぶんぶん左右に振っているが、オランダ人船長ぐらい迷うなら、事前に相談してくれれば良かったのに。まあ、そろそろ何か行動を起こさないとって、自分で自分を急かしてしまったのだろう。
「置かれた場所で咲くのが楽だと思うよ」
「そう……かな。時雨ちゃんが言うと、もっともらしく思えるね」
「うーん、まあ、頑張って。勉強してて詰まったら、嘉琳に聞いて。それと、一人で外出する口実が欲しかったら、私を呼んでいいからね。干し芋と芋けんぴとスイートポテトと大学芋を買ってきてもらうから」
「ありがとう、ちょっと落ち着いた」
「そんなんで落ち着くなら、何を悩むことがあるのかねぇ」
雪環は大して面白くなくても、いつも俯瞰したようにくすくす笑ってくれる。だから、ぜひ頭を空っぽにして生きていてほしいと、自分本位ながらそう願ってしまっている部分もある。まあ、想いが強すぎると、この間の二の舞を踏みかねないので、私こそ適当に操り人形らしく口をパクパクさせて、首をこくこく動かしておいたほうがいい。
ベッドの横に寄りかかり、首を90°後ろに曲げ、口も半開きで、天井のしわで星座を作るなど、しばらく暇を味わっておいた。もちろん万人とは言わないが、人のにおいというか、洗剤の控えめな香りというのは和むものがある。
いつまでここに居ようか、今日はこのままでもいいかなぁって、どんどん堕落していると、来客に合わせて、雪環が慌ただしく部屋を出て行った。私も眩みながら追いかけた。
追いかけないほうが良かったかもしれない。階段の中頃で、玄関に立っている璃宙が目に入った。第一印象はn.p. 、第二印象はそんな薄着で寒くないの?半袖にクロックスって、ねぇ。
背中から時が進んでいき、声帯が思うように動かせないでいると、璃宙がこちらの存在に気が付いて、逡巡もなくただ睨み付けてきた。灯台の灯りを直視するような、目に優しくない眼光が、私の闘争本能とか諸々を呼び起こす。しかし、こんな記念すべき瞬間に、なんと怒鳴ればいいのかわからないので、心臓の激しい鼓動を鑑賞するように棒立ちしていた。
「あっ、ルーコス!元気にしてたー?」
「あぁ、毎日好物のゴボウあげたから、元気じゃなかったら困る」
「毎日?毎日はあげすぎだよー。おかげで、心なしか黒くなってる気がするー」
「変わんないだろ」
そう言えば、雪環は白兎を飼っていた。最近見なかったけど、勝手に死んだことにしていた。傷をえぐるわけにもいかないから、そのことを口にできなかったのである。
白兎をみんなで愛でた在りし日の記憶が蘇り、普通に声が出てきた。
「るりの元に行ってたの?」
「うん、寂しそうにしてたから。私の代わりに、ルーコスを撫でてねーって」
「なるほどー。でも、兎って繊細じゃないのかしら。住んでる場所が変わったら、人間だって頭を低れて故郷を思うでしょ」
調子に乗って長いセリフを詠唱すると、璃宙がルーコスから再度こっちに視線の先を変更した。過去を振り切った、威信と薄幸に満ちた璃宙の目。何も期待していなかったと言えば嘘になる。だからこの仕打ちには、少しばかり悲哀を覚えた。覚えちゃった……。
「まっまあ、ほらっ、ここは寒いし、部屋にどうぞ~」
「私は帰るね。誰かから、年賀状が届いてるかもしれないし」
今をときめく少女なので、日本の伝統を受け継いでいないのだが、人の嫌がることを進んでやりたくはないので、俯きながら颯爽と靴を履いて、ドアノブを押した。
「もう忘れたの?」
「思い出 “は” 色褪せていくけど、それが?」
「雪にでも埋もれてしまえばいいのに」
「不幸そうね、知らんけど」
すれ違い様にとんでもないことを囁かれたので、幼稚な私は反撃していた。いやいや、居心地の良い場所を知っているのに、わざわざ居心地の悪い場所に身を置く必要はない。改めて腕に力を込め、トラックに轢かれる直前みたいなテンションで、大きな音を立てて家を出た。ちょっかいをかけてくるぐらいなら、私にあらぬ嫌疑を掛けないことね。
と、璃宙との対立を露わにしてみたものの、雪環がどんな顔して、私たちの一連の態度を見ていたのかを顧みると、せめて表装だけでも取り繕うべきだった……それをしたら、璃宙の立場が危なかったか。古びた鎖はしぶといなぁ。