傾向と対策
さてスタジオに恐る恐る入ると、ミミズがのたくった様な文字を、規則正しく眼球を動かして、滞ることなく読み続ける桜歌がいた。誰も話しかけてはならぬって感じの雰囲気だが、目の敵を油で煮たりしないので、きっと根はいいのだろう。
「あのー、聞きたいことがあるんだけど、今、大丈夫ですかい?」
「ん?あなたは運がいいね。すっかり牙を折られてるから、怖がることもないよ」
「おー、じゃあ、一思いに行かせてもらうね。正直、緊張ってしますか」
「する、それはもう、アフリカ大地溝帯よりも深く」
眼球の動きはそのままに、とても神秘的な真実を、いとも簡単に公開してくれた。しかし直後、口角をかすかに上げて、私をほくそ笑みだした。
「はい、これで私の秘密を知ったから。いつでも嫌がらせする口実ができた。人は弱みを握る時、また弱みを握られるのよ」
「別に私の弱みは握ってないでしょ……。えっと、どうやって緊張を抑えてるの?」
「抑えようとしたことはない。もう、後戻りできなくなってしまったって、あの時を後悔するだけ」
確かに、緊張して本来のパフォーマンスを発揮できなくても、Completenessがrequiredでないならば、緊張を消し去る必要はない。だけど、颯理の場合は倒れてしまうので、そう甘えていられないのである。せっかく答えていただいたのに、あまり参考にならなかった。
「そうそう、奥の部屋であなたの腹心が、何か話し込んでたけど」
「腹心?」
顔を上げると、スタジオ奥の高価な機材が並んでる部屋に、時雨と嘉琳、ギターの先輩が居るのが見えた。
「あ、小川女史じゃーん。丁度いいところに」
「私って、そんなに待ち遠しい存在だった?嘉琳。数学のことなら、数学の先生に聞いたほうがいいよ」
「そんなわけないじゃーん、颯理のことだよ」
「このまま舞台に上げたら、文化祭の二の舞になるでしょ」
「あぁ、3人も考えてくれてたんだ」
「まっ、プロデューサーですから、らしいことをしないとねぇ」
「そうなの?」
「そうらしい」
私は時雨に確認を取った。
「あんなに相談に乗ってあげてるのに、何だその物言いはっ」
「もう成長軌道に乗ったから、今さら支援とか無用ですぅーっだ」
「それで、何かいい案は思い付いた?私とインターネットの知見は、もう試したことあるから……」
「私はぁ、ピアノ線でぇ……」
時雨と嘉琳は大慌てで常葉の口を塞いだ。自分がそんな美しいまでに、部下から距離を置かれている上司みたいに扱われる日が来るとは、想像していなかった。
「はぁはぁ。そんなぁ、先輩に対して、不敬だぞぉーっ」
「颯理より怖いんだから、余計な事言わないでください」
「それを本人の前で言うのはどうなの?時雨さんよー」
「まあとにかく、今のは聞かなかったことにして」
「えぇ?ピアノ線とだけ伝えられて、気にならないとでも?」
「うーん、ピアノ線で何となく察せるんじゃない?」
「ピアノ線って言うぐらいだから……。キーボードを追加する」
「電気の力で音を鳴らしてるんですよ?」
「まあ、しょうがないからネタバレすると、ピアノ線で吊り下ろせばいいって、この人は主張したの!」
「そんなの、察せるわけないでしょ、嘉琳」
「えー。よく絞首刑に使われてるじゃーん」
「半分冗談だからぁー、真に受けないでよぉー」
私も似たようなことを考えたことが、全く無いわけでもない。もちろん、そんな方策を採りたくないが、でも人前に立つことに慣れるためには、人前に立たなければならない。すぐに倒れて、そのまま手厚く保護されているようでは、進めないのかもしれない。
「小川女史?」
「いや……、先輩の提案も、ごもっともかなぁって」
「えっ、正気か?まっ、かく言う私も、貧血になった時、自分の意志に反して吊り上げられたら、どれくらいで気絶するか気になったことあるけど」
「うわっ、嘉琳の近くで気失わないようにしよ」
「安心しなさぁい。こうっ、ツボを押すと、独裁者を前にした民衆のようにぃ、ぱたんっとぉ、倒れちゃうの!」
常葉は拳と拳をぶつけ合うジェスチャーをしながらそう言った。一体、どこのツボを刺激しようとしているのだろうか……。よくわからないままにしていると、嘉琳が手を叩いた。蚊はもう飛んでないだろうに。飛蚊症かな。
「ピアノで思いつきました」
「ラーメン屋と解きます。その心は?」
「なぞかけを知らない?どちらも “はっけん” を押すでしょう」
「すごぉーい」
「気の抜けた歓声をありがとうございます。というか、時雨は笑ってくれ」
「いやだって、答え知ってるし」
「だとしても、もうちょっと褒めてくれても……」
「人にクイズを出す時って、相手が苦悩している姿が面白いのであって、一瞬で当てられたら、むしろ出題者が恥をかくのでは」
「私に配慮が足りなかったとでも?」
「うん」
「って、それはどうでもいいんだよ!ピアノって、実際読んでるかはともかくとしても、楽譜と向き合って、一人で弾くのと大差ない……素人目にはね?つまり颯理には本番中、ずっと楽譜をガン見していただけばいいのだ。クラウゼヴィッツの戦争論にも書いてある」
「なるほど。でも、颯理が楽譜を睥睨する蓋然性は?」
「それについては、本番直前になって時雨が『曲書けたから、違う曲にしようよ』ってごねれば問題ない」
うん、颯理なら唐突なアドリブでも、見苦しくないぐらいに着地させられる。私が目指していた解は、不本意ながらこういう物だったのかもしれない。終わってもないのに、偉業を成し遂げられた恍惚に浸れた。
「わかったよ」
「えっ、どうしたの?大人の塩対応はいいけど、子供っぽくゴネてね」
「確かに、颯理は小さい子が好きだからね」
「は?というかちょっと待て。つまり私は颯理に極秘で曲を早急に書き上げ、そしてもちろん弾けるようにしておく必要があると。バイトもあるし、期末もあるし、恋だってあるのに?」
「そうだね。頑張れー」
「このプロデューサー、仕事しないほうがいいタイプの上司じゃん……」
「えーっ、なんか爪痕残したかっただけなのにー。わかったわかった、手伝ってあげるから、ね?」
「うん、当てつけにギターパートめっちゃ難しくしよう?」
「秘密を知ってしまったぁ……。プレッシャーがぁ……。岩魚っ、言わないよっ!?」
「その反応をされると、めちゃめちゃ不安になるから勘弁してほしい」
「蒔希なら、蒔希だけならぁっ」
「和南城先輩になら、いいですよ……」
「おーい、小川女史ー」
「あっ、どうもありがとう。その、私じゃそんな気の利いたアイデア、思い付かなかったから。なんてお礼すれば……本人でもないのに変か」
「買い被りすぎだよ。結局、根本的な解決になってないんだから」
嘉琳の正論で、私は自分の立場をはっきりと理解した。私が求めているのは根本的な解決ではなく、颯理が傷付かないこと。人前に立てないことが、颯理の価値を下げたりしない。痛んでまで、力を追いかけないで欲しい。抜本的な部分が何も変わってなくても、颯理が達成感を得て、勘違いしてくれればそれでいい。幸せとは、何かよくわからないホルモンが分泌されること、人類に本質的な事柄は必要とされていないのだから。
「でもこのままだと、時雨とか阿智原さんがかわいそうでしょ。力を蓄えすぎて、いつか暴走しちゃうかも」
「そうそう、最近、左手がうずくのよね。急に意識がなくなって、目を覚ますと辺り一面血塗れ。おかげで服とか体とか洗うの大変なんだよ~」
時雨は右手を揺さぶらせた。
「颯理も漸進できるよう、こちらも手を打ちますので、あと頭は打たないように天稲ちゃんには強く申し付けておきますので……。まあこれからも、私たちを信用して、協力してくれると嬉しいな」
よくもまあ、そんなすぐにジョークが湧いて出てくるなぁ……。それでいて、私よりも有能で寛容なのだから、人類みな平等というのも、為政者の嘘に過ぎないように思えた。颯理にだって、優秀な選球眼があるし……。私は静かに頷いた。




