天才ドラマーの粒々辛苦
未だに喉奥から、丸呑みしたみぞれ玉が詰まっている感覚が無くならない。黎夢の声は、私にはあまりにも甘すぎた。
颯理たちが何の曲を演奏するか決めている間、私は黎夢から椅子を奪って、アルメニア語の本でも読もうとしたが、これでは集中できるわけがない。……とでも言うと思ったか、私は惰性で本を読める特殊能力者。それでもこの、ドラムの激しい嗚咽は、晴読雨読の不動大図書館を怒らせるのに十分だった。
「あの、えっと、せめて、曲を弾いてくださ……」
「うるさい、ドラムがひめいをあげてるのーっ!」
黎夢もそうやって怒りを露わにすることがあるのか。いつも、わたあめのようにふわふわと……ペドロヒメネスのワインで酔い潰れて、正しい感情を発現させられなくなっているのだと思っていた。
私はひっそり一人でこれだけ驚いてはいるが、客観的に見たら、普段の黎夢とさして変わらない。天稲は私たちのほうに視線を向けつつ、セミコロンを浮かべながら、一心不乱に一つの太鼓をぶっ叩き続けた。
「練習してるんですよ!私は人より上達するのが遅いので!」
「練習……、それが?」
「フロアタムをいじめるのが、ていちゃんのいうせいぎなのーっ!?」
「ていちゃんって競艇のマスコットのことですか!」
「救いようのないհիմարだった……」
頭を抱えていると、視界の端にカメラがあることに気が付いた。どうやら、この体たらくまでも撮影しているらしい。はっちゃけたい気持ちは無かったことにして、2、3歩後ろに下がっておいた。
「言い忘れてましたけど、 “システマティックシスマ” 叩けるまで毎日配信してるので、そこに立ってると映りますよ!」
「やったー、れむだよぉーっ。ん、まって、そんなだらしないはいしん、れむは許さないのー!」
黎夢はカメラの前で影絵劇みたいに手首を動かしたかと思うと、急に振り返って、面倒なスイッチが入ってしまった。
「いっぱくいっしょうせつに、バーとカーをこめるのー!」
「私はいたって真面目です!守株待兎です!」
「他人からの印象が全て。他人がちょけてると判断したら、何を言い繕っても無駄なのよ」
「そこまではいってないよ。せかいはやさしさであふれてたほうが、すごしやすいと思うのー。ね?ちばにゃん」
「二人とも、私の神髄を知らないからそんなこと言えるんです!」
珍しく天稲の瞳に闘魂が映った。いやまあ、天稲の瞳とか興味ないので、日頃から闘魂多めなのかもしれないが、とにかく彼女はちゃんとドラムスティックを空中で回転させてから、時雨の黒歴史である大正モダンエクスプレスを演奏し始めた。まるで火中からノーツを拾い上げるように正確にリズムを刻み、お役所仕事のように合間でドラムスティックを回している。ここに至るまでの、壮絶な苦労が目に染みる。
演奏し終わった天稲は、絶対の自信からか、露ほども達成感を露わにしない。もはや演奏していなかったかのようである。これならば、背中を預けても問題なさそうだ。
「こうじょうのロボットみたいで、アイドルとして、見過ごせないのー!」
「毎度毎度、アイドルであることを誇示してくるけど、もし本物のカリスマと事を構えることになったら、生きて帰れるの?」
「めぼしいぎょーせきをあげてないけんきゅうしゃを、片っぱしからきりすてたら、うまくいくというものでもないでしょ?」
とにかく、天稲に物申したいらしい。私としては完璧な演奏をしてくれるのだから、事を構えたくないのだが……。たまには社会貢献しよう、天稲の肩を持ってあげよう。
「歌はともかく、ドラムは叩かないよね、アイドルって」
「そうですよ!門外漢は黙っててください!」
「むぅー、じゃあつぎのライブで、ドラマーとしてステージに立ってやるもん!かつもくせよ!」
そう言えば、本人はアイドルであることを自認しているが、私は疎らな観客の前で歌って踊っているタマシギのような姿を見たことがない。
「わかりました!天才ドラマーであるわたくし天稲ちゃんが、けちょんけちょんに貶しに行きます!なんてユニットですか!」
「おあー、ちばにゃんにも言ってなかったねー」
天然ならば、何を聞いても許されると思うな。私は顔をゆがめつつ、天稲を細目で威嚇した。でも誰もが、自分に銃口が向けられているかもしれないと、警戒できるわけではない。天稲は、周りから己がどう認知されているのか、全く気に留めずに生きられる、孤高の天才なのだろう。4年後ぐらいには、化けの皮が剥がれていそうだけど。
「興味ない。肌に合わない音楽って、正味苦痛なだけなのよね」
「だよねー。楽しんでくれないお客さんは、必要ないのー」
「私たち、分かり合えますね!文化祭の時、首を傾げて引き気味だったオタクくんに、バリカン投げて、真ん中だけ綺麗に剃ってやろうかと思いました!」
「うおー、つぎのライブでやろうかな!」
天稲は立ち上がって、黎夢と固い握手を交わした。まあ、黎夢のアイドルとしての矜持に救われたかもしれない。しかし、黎夢は次のライブをどうしてしまう気なんだろうか。見に行く気はないけど、なんか不安になった。
で、結局うるさい練習を再開しやがったので、大人しく籠を背負ってスタジオを後にした。