スイートスイッチング
時雨はこの即死トラップを体験したかったのではなく、私たちを呼びに来たらしい。そう言えば、長いこと軽音のほうに手も足も出してないけど、どうなっているのだろうか。
「颯理ぃ―っ、会いたかったよぉーっ」
「どうしたの……?小川」
スタジオに入るや否や、中から小川がα粒子のように飛び出してきて、颯理の手首を掴み、ぴたっと止まった。颯理は小川と見つめ合って、怪訝な表情で立ち尽くしている。
「何ですか?」
「いや、颯理が居ると仮定して遊びに来たはいいものの、絶妙な仲の友達しかいなくて心細かった」
「こっちも気まずいから、颯理を呼んだの」
「お手数かけましたね……、この愚息が」
「私、いつの間に、颯理の子供になってたの?」
「一度言ってみたかったんだよー」
なんか小川が喜色をほのめかしているのが気色悪いがそれはさておき、ちょうど思い出してしまったので聞いてみた。
「ところで颯理、数学の補習は?」
「補習?40点以下だったの?」
「ななななんですか、それ、あんなもの、サボるに決まってるじゃないですかかっかっかか」
「さーつーりー?これは、冬休み返上で頑張ってもらわないとなぁ?」
「なんで余計なこと言ったんですかーっ!」
「ぐっじょぶ、かりーん」
人の不幸に群がるハイエナが隣にいるのもさておき、部屋の隅から甘くてどろどろな横槍が飛んできた。
「いつになったら、れんしゅーするのやぁーっ」
「ん?何その語尾」
「そこまで恥も外聞もないなら、いっそのこと語尾を “にゃー” にしちゃった方が、練乳に酢酸鉛を溶かしたみたいで、より喉が渇くんじゃないかな」
「さいきんたるんでるんやないかぁー!」
「てやんでい、って雲に吸い込まれるように言ってみて」
「てやんでい、やぁーっ!」
「かわいそうに、出身自認は江戸っ子なのね。あー嘆かわしい嘆かわしい、東京一極集中が嘆かわしい」
声だけでは区別できなかったが、いつものパイプ椅子に座っているのは桜歌ではなく黎夢であり、なんかお互いのモノマネをしていた。声色は練習あるのみかもしれないが、発言の内容まで再現できるとは、これがAIに負けない人材かー。
「阿智原さんがそんな声を出せるとは。もっとかわいげのある曲をやってみてもいいかもね」
「何もわかってない……げほっげほっ」
飽きてきた鋭い眼光を差し向けてきたなーと思っていたら、桜歌は煙草に肺をやられた人のように、いつまでも咳込み始めた。
「そうだよ、ちばにゃんはいっぱいれんしゅーした……ごほっごほっ」
黎夢にとって、あの喋り方はネオテームを添加したものではなく、天然成分100%らしい。とりあえず、二人が落ち着くのを待ってあげた。
「こやつの口真似をするだけで、ザラメがざらざらしてるあんこが、喉を通過したみたいにひりひりするんだけど」
「れむだって、のどにコブラをかってるきぶんだよー」
「いや、蛇の毒は牙からなんだけど」
「なんか、最近仲良さそうにしてるのよねぇ。どうやら、歌の練習とか、一緒にやってるらしい」
「それは微笑ましい」
「まあ、自信がないままステージに上がるから緊張するのであって、自信を付けるには、否応なしに練習に励むしかないって気付いたから」
「そうじゃなくてー、ね、阿智原さんも、たまには心を開くんだなぁーって」
「ザイオンス効果じゃない?」
いい感じにまとめたら、当たり前のように颯理の横に居座っている小川から水を差された。全ての友情が、創造主が作った極めて簡単な原理によって説明されたら、世界の隠された真相より嫌になるのが、わからんのかね。
「よし、今日から練習頑張りましょー」
颯理は幼稚園の先生みたいに、手を叩いてそう呼びかけた。
「私のデスビートメルセデスに震え上がるが良い」
「うがて、しっくいの神戸ポートタワー!」
彼女は鉄塔の美女である。せめて白粉にしてあげてほしい。
「まっ、そういうわけだし、次の目標を決めたいね」
「それはもう、ムクティ一択ね」
「億り人」
「チャンネル登録者数100万人!」
「えっと、きちんとステージに立って、かっこいい演奏を皆さんに届けたいです」
横で初心者みたいな音を鳴らしている天稲まで自分の欲望に忠実だが、颯理だけはまだ正気を保っていてほっとした。まあ、その道のりは途方もなく険しいんだけど、一番健全ではある。
「冬休みに入る直前に、この学校でライブをやるらしいんだけど、出陣するしかないよねぇ?」
「はい!やります、やらすせって……ください!」
「勢い余って噛んでるじゃん……」
颯理の後ろで時雨と小川が、意味は違えど共に呆れた顔をしている。いや、小川に関しては、どちらかと言うと、胃腸の不調を自覚しだした時の表情?
「笹川さんにとって、雪辱を果たすこれ以上にない機会だからね。せいぜい浅薄な全能感に酔いしれてなさい」
「おい、颯理のどこが不満だって言うんだ。こんな……こんなギターが上手い高校生は他にいないよっ」
小川は一転して、背伸びした鬼の形相で、桜歌に向かって勇ましく吠え始めた。どうやら時雨と全く同じ気持ちをいだいていると、椅子に座っている黎夢が、職人が作る飴のように伸びをしながら諫めていた。
「ちばにゃんはー、せん細だからー、きょーかんしてあげるだけで、ふぁしりーすにかいじゅーされるのー」
「なるほど。阿智原さんって、詩的で牧歌的で皮相的で通俗的で天下り的で家庭的で経済的で一義的だよね」
「確かなことは知らないけど、あなたはメフィストに魂を売り渡して滅亡する気がする、というかしてくれない?」
「どうせ先も長くないしさー。居て欲しいんだけど、中々見つからないんだよねー」
「あの小川、ムキにならないで。っていうか、内部から崩壊させようとしないでっ」
颯理が小川を必死に揺さぶった。対岸から眺めている分には、とても愉快である。
「まーったく、子供っぽいなぁ……」
「ところで嘉琳、好きな食べ物は?」
「うーん……、白菜と豚肉のミルフィーユ鍋……?これからの時期、食べたくなるよー」
「ふっ、うん?子供だな!」
「そうでもないでしょ、年相応だよ!」
時雨の隙あらば人の弱みを見つけようとしてくる性分、何十年経ったら治るのだろうか。良かった、人並みに野菜が食べられて。