薄明逃避行
引っ越しを控えているので、自分の荷物をまとめるのに違和感を持たれることもない。そもそも、持って行って役に立つ物も、財産も特にない。明らかに浮かれているように見えそうだが、子供の感情に向き合ったことのない私の親は、無事に折れてくれたと勘違いしていることだろう。
引っ越し前夜、家族全員が寝静まった後、私は自分の荷物を詰めたスーツケースを浮かせながら、静かに家を出た。もちろん、この家自体にも思い入れは少ない。誰かを起こさないことだけを警戒していた。
旅行に行くわくわく感、そんな気分さえ混じっていた。その先に待っている生活が、今よりどれだけ粗悪なものでも、保月がいれば打ち消される。ここまで来れば、走っても問題なかろう。夜の住宅街に、今度はキャリーバッグを曳く音が響いた。
待ち合わせ場所にはきちんと保月が待っていた。どこの店もシャッターが下ろされ、他に誰もいない。すでに二人だけの世界に入り込んでしまったようだった。
「良かった……。いなかったら、どうしようって不安だったから」
「当たり前でしょ。家族の目を欺くのは得意なんだから」
「でも、私との禁断の愛は欺けなかったじゃん」
「しょうがないでしょ!らみーが押し倒してきたんだから」
「はぁっ!?捏造やめてよ!」
闇の中でも、保月はやたら楽しそうにしていた。まあ、こんな所で思い出に耽っていてもしょうがない。魔法が解けてしまう前に、早くこの街を後にしよう。
「待って、こんな早くに新幹線は動いてないよ。先に寄りたい場所があるんだけど……」
「ここまで来て、そんな風に曖昧にしないでよ」
「曖昧って、だって全部言っちゃったらサプライズっぽくならないじゃん。少しは私のことも信じてっ」
「ごめん……」
保月の取り計らいを壊しかけ、呟くように、多少はふてくされたように謝罪を口にした。そもそも、この作戦を最初に提案したのは保月だし、私が保月に出会ってめちゃくちゃになったように、保月も私のせいで変わってくれたんだった。一緒だから、お互い傲慢に振る舞える。
だけど、変わってしまうと名残惜しい部分もある。
「髪、切ったんだ。結構ばっさり」
「邪魔だからね。後は決意。私は絶対、らみーとの自立した生活を築いてみせる。安心して」
「決意は嬉しいけど、前のほうが良かった……かな」
「そっか、私たち、恋をしているんだもんね。自由な未来を勝ち取るというのは、二の次か」
そう、私たちは恋をしている。だから、保月にはもっと美しくなってほしい。私が手助けできたらいいのかなぁ。
「でも今日のほーずき、頼もしいよ。いや、いつもかな」
「恋してるって言ったけどっ、そういうのは無しで……。恥ずかしいから」
始発列車で隣の隣駅まで移動して、そこから徒歩で真っ暗な山道を登る。運動にも冒険にも無縁な私には苦行そのものだったが、それに見合う景色がそこにはあった。
東の果てに色が戻り始めた今なお、鋼鉄の心臓は夜の間の太陽として、煌々と街と空と瀬戸内海を照らしていた。始まりの地があまりに美しいので、私はまたその景色を宝石に変えてしまいそうになった。
「あのー、らみーさん、プレゼントがあるって言ったら、喜びますかねぇー?」
「もちろん、何でも嬉しいよ」
保月は陰がかかっていてもわかるぐらい、何だかもじもじしている。私が首を傾げてせかすと、後ろに隠していた指輪の箱を開けて見せた。それはもう、途方もなく大粒のダイヤモンドがあしらわれていて、とても安物には思えず、簡単に手に取れなかった。
「まっ、ちょっと待って、こんな高そうなの、どうやって手に入れたの!?」
「簡単だよー。私の口座に入ってる有り金全部つぎ込んだ」
保月は容赦なく指輪を私の指に通した。質感とか重さとか、とにかく指輪に振り回され、自分の指じゃないみたいだった。
「本当はクリスマスに、こんな感じの場所で渡したかったんだけど、叶わなかったからさ……。見て、私も同じのを着けてる。どう?」
「どうって、こんな、私たちみたいな人が着けるもんじゃないよ。お金を自力で稼いで、お洒落も身に着けた人が……そんな悲しい顔しないでよー!」
「そんなこと言っていいの?私がこの逃避行の是非を握ってるんだぞー。この紋所が目に入らぬかー」
保月は扇をばさっと開いた。それには岩鶴家の家紋が金色に輝いていた。
「これは……?」
「これは岩鶴家の人間であることを保証する物。私はらみーと一緒にいるためなら、何でも使うよ」
「そっか。私のこと、そんなに好きでいてくれてありがとう。指輪は大切にする。だから一旦、今は箱に仕舞っておくね」
保月はそれを聞いて、口を手で押さえながらも、大声で笑いやがった。
「私たち、なんでこんな真面目に話してるんだろうね。これから家出するのに」
「確かに。どうせこの先嫌になるほどしなきゃいけなくなるのにね」
夜明けと共に、私たちは宝石たちに別れを告げた。こんなにも後押しされたら、絶対に戻ってこられない気がする。まあでも、とにかく私も保月も、逃避行の成功を確信していた。
「寒いなぁ……」
「カイロ持ってきたよ」
「そんなに荷物持ってるだけあるね……」
保月から貰った物でも、保月の温もりを感じてしまうらしい。必死に揉んで、頬に擦り付けるようにして暖を取った。どうやら私は重症みたいだ。
ここで通過列車のアナウンスが流れる。どうやら早く着きすぎてしまったらしい。
「ところでらみー、リベンジしたい」
「リベンジ?」
「こっち側のホームには全然人が全然いなくて、向こう側にはちらほら人がいる。ということはさ、ねっ?」
通過列車の到来と同時に、保月はまた強引に私の唇を奪った。まあ、嫌じゃないけど、今でもない……。5秒間のエクスタシーは濃密であるから故に物足りない。浮かれていると、線路に引き込まれそうになった。
「あっ、良かった~、ばれてない」
「え?」
夢から冷めて周りを見渡すと、こっちのホームにも人がいた。
「大丈夫、私が邪魔で向こうから見えてないよ」
「んー、ばかっ。どうして危ない橋渡ろうとするのっ」
私が甘えるだけでは物足りなくなってしまったのかなぁ。色んな表情を、できるようになって見せたい気持ちと、面映ゆさが重なり合って、血迷って手を繋いでいた。指と指の隙間から、保月が溢れてくる。何となく、薄明にそれを報告していた。
―――
「そう言えば、らみーに妹さんいたよね」
「あぁ、澪都のこと?」
「そうなんだ、どっちもらみーじゃん」
「そうだね……。で、澪都がどうかした?」
「どうしたも何も、やっぱり姉妹なんだから、心配にならない?」
凄く痛い所を突かれた。それだけは考えないよう、必死に保月のことだけを見ていたというのに、その保月から掘り返されてしまったら、正解を是が非でも掘り当てないといけなくなる。言葉に詰まって、私は保月から目線を逸らした。
「なんか……悪いことしちゃったのかな」
「そういうわけじゃ……」
「じゃあ心配じゃないの?」
「その質問、意地悪い……」
保月は振り返って、ソファに座っている私の指の間に、温い指をとりあえず通した。
「あの子、何を考えてるかわかんなくて……。実は露ほども覚えてないかもしれないから」
「だから心配なんだ」
「そっちこそどうなの。いっぱい兄弟いるじゃん」
「えー、クソガキか私を蹴落としたくて仕方ない上の子か、その二択。真意を探るまでもない」
まあ、こうなった遠因を作ったのも弟だったっけ。苦労も多かったけど、自分の手で幸せを掴みにいける道に気付かせてくれたという点では、感謝するべきなのかもしれない。
「大切にしたほうがいいよ」
「どうやって?」
「ん、もしかして、私が悪いって言いたいの?」
「そんなこと言ってないじゃん!」
私はその手に力を籠めた。
「ちょっとからかいたくなっただけだよ~。さっ、お風呂入ろー」
「一緒に入るの?」
「もちろん。美容師さんに流してもらいたいー」
「まったく、任せておきなさい」
幸せは想像してもしきれない。甘え甘えられ、それを延々と続けられるこの生活が何よりも大切で、執着してしまう。澪都のことだって、最近は想える余裕が出てきたけど、それでもこの生活から目覚めようとは思えない。
そんな風に、もう何度目かわからないぐらい日常を噛み締めていると、インターフォンが押された。こんな時間に来客とは。追跡されていた気配を思い出し、保月の手を握って固まっていた。




