落ちこぼれても二人
人間も熱しやすく冷めやすい。返されたテストを見て、私は背筋が凍った。斜め前の保月のテストを、何とか盗み見できないか、授業中ずっと凝視していた。
「今回の美術むずくなかったぁ?ブリューゲルと言えば農民の絵って言ってたじゃん」
「やっば、80点って……。もしかして天才!?」
「そりゃあ、だってらみーだもん。いやぁ、このクラスのトップは私だったんだけどなぁっ」
「褒めてくれてありがとう……」
保月の点数を見ても、何の慰めにもならなかった。彼女がいい成績を取ろうと取らなかろうと、私には何の関係もない。地球と一緒に回っているだけなのに、感情トルネードで平衡感覚すら失いそうになっていた。完璧に混ざった色とりどりの感情は、もはやひとつひとつを取り出せない。
保月は気が付くと全部を見ていた。そして何やら様子が不自然だったので、私は保月の肩を軽く叩いた。
「ほーずき、話」
「えっ、あーうん……」
「やっぱりあの二人、最近いつも一緒にいるよね~」
「いいじゃん、仲良しな分には困んないしっ。それより負けた責任、取ってよね!」
「いやいや、ランチパのほうが点数低いよね!」
「勝負に張り合いを付けたかったから、手を抜いただけだし!」
私は人気が無さそうなパソコン室の前で止まった。あまりに無音なので、この世界には私と保月しか居ないみたいだった。そのおかげで私は混沌から、大切なものを一つだけ引き揚げることができた。
保月はいつもより大きく見えた。反面、世界を見下すような無頓着さも滲み出ていた。まあでも、これは仕返しということで……。
「ごめんなさい!調子に乗りました。らみーが全然断らないから、勉強って嘘ついて、いっぱい遊んだから、それで……」
保月は純然たる謝罪で、この沈黙を壊した。私はあまりの潔さに、焦り以上の何かを感じていた。
「それはそうだけど、ただ私が怒られるだけだから、ほーずきが謝らなくていいんだよ。ねぇほーずき!」
「怒られるんじゃん、叱られるんじゃん。私は嫌だよ!らみーに傷付いてほしくない。怖い思いしてほしくない、しかも私のせいでなんて……」
「そんなことで傷付かないよ!」
「傷付くよ!そうじゃなかったら、そんなに必死に勉強しない。どこの家だって、成績が悪かったら怒られるけど、それでも勉強しないほうをみんな採るでしょ!」
正論で慮る保月なんて、もう止められるわけがなかった。涙が指の間から溢れ出て、目の前にはもう、求めていたものは立ち去っていた。これがフレゴリの錯覚でなければ、一体何であると言うの……?
空いた穴はドリルで埋まった。テストの結果を見た私の親は、当然のように激怒した。父親に至っては、仕事の休憩時間の度に電話を掛けてきて、テスト結果に対する私見をだらだらと高圧的に言い続けてくる。もちろん、帰ってきてからは直接。人格否定とかではなく、問題の解き方とか勉強の仕方とか、そういうのばかり指摘するので、私もこっちで一人反省会してしまい、宝物はカプチーノの中に沈んでいった。
「ねぇ、もう止めてあげて……」
「なんだ澪都。これは必要なことなんだ。次のテスト、それから入試で失敗しないように。正直、どこの都道府県の入試を受けることになるかわからない。何でも解けるようになっておかないと」
父親は持論で澪都を圧迫した。私を庇おうとした澪都は、目力に押されて部屋に戻ってしまった。職場でもこんな調子だから、病院と揉めて患者を危険な目に晒すんだ。悪いのは病院でもなく父親の腕前でもなく、全て自分の論理が正しいと思い込む父親の前頭葉だ。
私はそれを見て、どうしても耐えられなくなった。ある意味、息苦しさに慣れていたところに、この船はダメだと警鐘を鳴らしてくれたようだった。
「もういいよ!」
「何が?」
「いつまでもグチグチいやみったらしく責めてくるけど、それで結果が変わるの!?」
「同じ過ちを繰り返さないように……」
「わかったよ!次はちゃんと勉強する。それでいい!?」
「湊都は何もわかってない。医者の世界だって学歴格差はあるんだからな。あまり自分語りはしたくないが、私も物凄く苦労した」
「大学はともかく、医者になるつもりなんて、無いんだから……!」
父親は唖然としていた。私がそれを否定したのは、これが初めてのことだったからだろう。だが、いくつもの難手術を成功させてきた父親は、声を荒げることもなく、冷静に正論らしきものを振りかざした。
「医者というのは、第一に人命を救うという、これ以上になく尊ばれる仕事だ。それに当然、永遠に無くならない。給与も悪くない。こんなにバランスの良い職業が他にあるだろうか」
この人は一体どうやって、インフォームドコンセントを取っているのか。それとも、私は患者未満なのか……。私は情動的に家を飛び出していた。
靴を履く余裕は捻出できたが、防寒は手を付けていなかったので、12月の清純な空気が私の肺に、魚の小骨のように突き刺さる。星々は一切歓迎する様子もなく、ただ眩しいだけの住宅街に、自らの身をなげうっただけだった。
温室を飛び出して寒さにあてられた時には、衝動は終わっていた。仕方なく冷たい階段を下りて、その裏側で微かな夜風をしのごうとしてみた。
下を向いて真冬の切なさに打ちひしがれていると、背中にずっしりとした重みがかかって、大好きな温もりが上半身を覆った。
「ほーずき……?」
「心配だったから……。今日学校来なかったじゃん」
こんなに近くにいるのに、保月の顔が遠い。ミルキーウェイのような髪をなびかせ、月明かりの影にたゆたう保月は、あんなことが無ければ、女神様だと勘違いしていたことだろう。
「丸一日悩んだ。私なんかがお見舞いに来ていいのかって……。そしたら、こんな時間に……」
「仲直り……しよう」
「それはどういう……」
「するのっ!」
私は重たい毛皮を脱ぎ捨てて、思いっきり立ち上がった。立ち眩みとか、気にする必要なんてないから。
「もしかして、昨日のあれは……」
「聞くなっ」
「やっぱり、思ったこと、何にも隠そうとしないよね。そういうとこがね」
暖かさは足りないけど、保月の戯言も肋骨も恍惚もすごい感じる。いつまでもこうしていられる。幸せはこんな形だったんだ。
「手、赤くなってる。寒くない?」
「大丈夫、あったかいから」
「冷えるよ。わかんないけど、もう10分ぐらい経ったんじゃない」
保月はコートを拾って私に着せた。幸せな時間はあっという間だったが、すっかり涙が枯れていた。酷い顔は夜の暗さに紛れていることを祈るしかない。
「これからどうするの?」
「どうするって……」
「戻りたくなかったら、私の家においで。ちょっと歩くけど」
私はぼんやりと頷いた。家を飛び出て、二人だけで誰もいない夜道を歩くのは、背徳感に富んでいた。
「コート着てないけど寒くない?」
「むしろ、暑いぐらい……」
「私はいいよ、ほーずきのなんだし。あとほーずきの体どうなってんの、めっちゃ寒いよ」
「それよりらみー、手袋貸そうか?」
「いいよ、そこまでしなくて……。どうしてもって言うなら」
片方だけ貰って、もう片方は手を繋いで解決した……保月の熱を私が一方的に奪っているだけかもしれない。それなら……いいや、腕組んじゃえ。
「らみーっ。それは……」
「どうせ誰も見てないよ。それより、こうしていたほうがもっと暖かいから」
「もうっ。らみーは……こんなのさぁ……」
「こんなの?」
「どうしてっ、製鉄所まで迎えに来てくれるしさ、そんなに私を好いてくれるのっ」
保月はほおずきみたいに頬を紅くして、本当に暑そうにしていた。けれど、指を絡めるだけじゃなくて、境界が無くなってしまうぐらい、この手を強く握りしめたい。
「何でだろう。でも考えたって、答えが出ない気がする」
「ずるいよ。答えがある私が馬鹿みたいじゃん。私はらみーの素直なところ、すっごく魅力的だと思うよ……離して、離せっ」
「寒いよー。もうちょっとだけ」
自分がこんなに想われて、そして自分がこんなに想っている。こんな素敵なことはない。二人の世界は少しずつ拡がっていく。この手を離したら死ぬ世界も、魅力的かもしれない。
保月の家は、名家と自称していただけあって、豪勢な造りをしていた。平屋だけど、蔵があって縁側があって、部屋も沢山あって仏壇も大きくて、そしてNationalロゴの掃除機が置いてあって、大名屋敷のような威厳がある。それに、やっぱり兄弟一人ずつ部屋が用意されているのは、特筆せずにいられない。
「お風呂どうだった?」
「どうって……。思っていたより普通だった。もっと、檜風呂とかがあるのかと」
「そうじゃなくて、お湯加減を聞いてるんだが……。うちはご老体も多く入るもので」
「シャワーで済ませてるから。平気だったよ」
「そっか……。あっ、パジャマのサイズは大丈夫だった?えっと、浴衣もあります。あれなら、多少はサイズの融通が利くと思うんですが……」
保月はまだ舞い上がっていた。落ち着いた仲裁者として振る舞っていた学校での姿というか、出会った頃の保月とは全然違う。別人だから好きなのか、別人でなくても保月だから好きなのか、そんなことはどうでもいいんだけど。
「笑わないでよ。友達……というかなんかそういう類いの人を招くの、初めてだからさ……」
「笑わせてよー。私も、こんないい所に泊まるってなって、緊張してるんだから」
「あの、そう言えばらみー、前に2か月ぐらいで転校かもって言ってたけど、どうなの?」
「そんな気配はない……。2か月って最短記録だからー」
「そっか、良かったぁ。一緒に年でも越そうか」
「その前にクリスマスがあるけど」
「どーなるかな。最近、くっそノリの悪い奴って認識されてるから、誰からも何も誘われなければ……」
「そんなに?」
「今日だって、らみーが学校に来ないからさっ、透明なバリアを張って、一人で悶々としてた」
「そりゃあ、休みたくはなかったけど……。そこまで来ると、少し心配になる」
「約束しない?なんか、ずっと友達ーみたいな……?」
「歯切れ悪いなぁ。いいじゃん、恋人ということで」
私は恐々と小指を差し出した。保月はしばらくその指を眺めていた。蝶が止まるのでも待っているのだろうか。
「負けないもん」
「ほーずき、それはっ」
保月は私を布団の押し倒し、私の唇を奪った。その瞬間に、私の脳内ほとんど全てが保月に置き換わっていく。体重を乗せられ、小指も結ばれ、動けないどころか息が止まりそう。こんな死に方は悪くないけど、もっとこう、保月を確かめないと……。
でも初めてのキスは、不完全燃焼に終わってしまった。保月はすぐに顔を上げた。こんなのでは全然保月が足りない。もっと、という強欲はあっさり打ち砕かれることになる。
押し入れに保月の弟が隠れていたようで、どうやら私たちの世界に侵入者がいたらしい。そいつは茶化しながら、飛び跳ねて部屋を出て行った。
「別にこんなことするために、家に上げたわけじゃないからっ。勘違いしないでよ」
「わかってるよ。うん」
「初めてがこんなのなんて……。死にたい死にたい死にたいーっ、道連れになってくれるよねぇ?」
「冗談でもそういうことは、言わないでほしいかな……」
「もっと安全な場所、探しといて」
そう言い残して、保月は先に布団に入った。そんなに期待しているなんて、本当に一生かけても発散できないくらいかわいいなぁ……。たったあれだけでも、余韻がとめどなく押し寄せて、少なくとも保月が完全に寝付くまで、彼女を後ろから眺めていた。




