優しさはすぐ横に
シザーケースを身に着け、濡れ衣を被せ、私は鏡越しに初めての常連さんの姿形を確認した。やっぱり手首が重くなってしまう。仕事はだいぶ慣れたはずなのに、保月の虚像を前にすると、普段感じない責任とか、プライドとかが沸き起こってくる。
「本日は、どうなさいます……?」
「どうするも何も、また私を実験台にするんでしょ。美容師の彼女は大変ねー」
「うん……」
「どした?どうしたのっ?」
保月は急に立ち上がって、片手で私の手首を鷲掴み、むやみやたらに顔を近付けた。
「誰かに、付けられてるような……。そんな視線を、帰ってくる時に感じて……」
「それ、わたしぃーっ」
保月は憎たらしい笑顔で嘘をついた。そう、憎たらしい、どこに持って行っても恥ずかしくないこの笑顔は、彼女が嘘をついた時しか現れない。淡々と嘘をつく我が愛しい妹とは、全く正反対なんだから。
「今さら探しに来てもらったところで、もう二十歳だしねぇ。生活も安定してるし……らみーのおかげだけど……」
「それは気にしないで。次はほーずきが夢を叶える番なんだから」
「と言いますけど、本当はさっさと金を稼いで来いってことだよね……」
「もー、ほーずきっ、今日は見よう見まねの挑戦するから。後悔しないでよ」
「はいはい、頑張って」
保月は二つ返事で椅子に深く座り、背筋を伸ばした。世界で一番かわいい彼女を、世界で一番かわいくできる仕事に、誇りを持たなきゃね……。
―――
「100点が3つも!?」
「やば、この転校生めっちゃ頭いいじゃん!」
正直、この間までいた学校より、はるかに問題の難易度が低かった。公立の中学校でも、先生によってこれだけ差が出るんだなぁ。それを言ったところで、余計にこの子たちの株が下がるだけなんだけど。
「うち、ほーずきに教わるのやめて、転校生ちゃんに教わろっかなぁっ」
「人から教わる云々より、まずはテスト前に勉強する習慣をつけろよー」
「えぇ~?悔しくないのぉ~?」
「悔し……いかな、うん」
「学校のテストなんて、あんまり受験に関係ないでしょ。本番寝込んだらおしまい」
神様になって信仰を集めた気分だった。私が正論を振りかざすと、群がってきた女子たちはお互いの顔を見合わせ始めた。少しかわいげが足りなかったかもしれない。しばらくすると時計の針が動き出した。正確には裏側の歯車が?
「いやいや、うちは推薦で滑り込めないかなぁーって」
「えーっ、推薦もらえる学校あるのー?」
「私は岩鶴 保月、御岩神社の岩に、鶴岡八幡宮の鶴に、千代保稲荷神社の保に、月山神社の月で岩鶴 保月。えっと、馬原 湊都さんだっけ。よろしくね」
「はい、よ、よろしくお願いします……」
保月は前に出てきて、姿勢を低くして、澄ました顔で握手を求めてきたので、とりあえず穏便に応じておいた。この人がこのクラスにおける台風の目なのだろうか。こういう人に毎度話しかけられるが、数日も経てば挨拶をするのもぎこちなくなる。まして特別な関係に至るはずがない。転校の通過儀礼として受け流していた。
空に雲を浮かべるような、パステルカラーの日々を何日か続けていると、保月は学校の須弥山だということが何となくわかってきた。娯楽の少ない私にとって、その学校の階層構造を紐解くのが、唯一の楽しみだ。どうせ半年もすれば、新しいステージに移動になる。
壁に寄りかかって、そろそろ体が振盪に適応してきた頃、ひょっと保月が横に並んで覗き込んできた。
「あらあら馬原さん、サボりですかぁ?」
「ちがっ、どのチームに加わればいいか、わからなかっただけ。転校しても成績の情報は引き継がれるから、できる限り頑張るつもりです。やらなくて済むなら、そっちのほうがいいですが……」
「ふーん、正直者だね。強すぎて、バランスブレーカーになってしまうとか、ほらを吹いても怒らないよ、私がそうだし」
「どこからそんな自信が……」
「バスケ部員のプライドをへし折るから、先生公認でサボってるの。あの人、バスケ部の顧問だし。あれ、さっきまでの活躍見てなかった?」
「反対のコート見てました。はっきり言って、そっちのコートはキツかったので……」
「キツかった?網膜が焦げそうになった?」
「女子が女子にきゃーきゃー言ってるの、見苦しくないです……か?」
不意に保月の顔色を探ってしまった。須弥山様は波風を見せたりしなかった。
「ダメだよ、私以外にそういうことこぼしたら。それに、そんなシニカルに生きてても楽しくないよ。もっと能天気に、せめて通俗的に生きないと」
「それがあなたのモットー?」
「あなたって……。ちょっと味気ないなぁ。ほーずきと気軽に呼んで?赤よりも紅いあのほおずき」
「ほーずき……」
「こっちはなんて呼ぼうかな。らみーとかどう?」
「あだ名で呼ばれたことないから、感想を求められても……」
「じゃあ戒名ということで。よろしくね、らみー?」
仏門に入ったことになった。まあ、こういう馴れ合いも悪くないけど、思惑とか終わりとか考えると、波風を起こしたくなってしまう。
「ほーずき、どうして私にかかずらうのっ?」
「暇だし。お喋りするの好きなんだよね。程度の差はあれ、大体誰でもそうでしょ」
「そうだけど……。どうせすぐ転校するよ。来年には」
「2か月かぁ。まあ期間なんて関係ないよ。よろしくぅー」
「何回よろしくするの?」
吹き出しそうになりながら、保月はジャージの上を重ね掛けしてくれた。こういう心遣いができると、転校先でも上手くやっていけるのかもしれない。
「そっちは寒くないの?」
「あれを見てみ。私は暑くて脱ぎ捨てられたやつを拾い集めるからー」
遠い優しさしか触れてこなかった私には、近い優しさにひとたび包み込まれると、恍惚みたいな霞の中に迷う……わけない。