コルチゾール少女の辛苦
こういう状況には何度も逢っているのか、私と天稲が目の前に立っていても、全く動じることなくパンを口に運び、また参考書のページをめくった。上から目線では相手を圧迫してしまうので、腰を下ろして、目線を合わせてあげた。
「あっ、わたくし警視庁捜査1/√2+i/√2課の者です」
「何点だった、この間の模試」
「模試……。まあまあだった以上のことは……」
「まさか、自己採点してないの?」
その検眼枠越しに、澄んだ瞳が厄を呼び寄せている。不思議なことに怖くも恐ろしくもない。そして私は気付いてしまった、伊達検眼枠だということに。しかし、検眼枠は重量もあるし、長時間の着用を想定しているはずないが、ずっと身に着けていれば順応できる時が来るのだろうか。そこが問題である。よく見たら落ちてこないように、検眼枠と耳がゴムで何十にも巻かれていた。
「まだ1年生だし、そこまで意識高くなくて……」
「それでは意識をさらなる次元に超越させるために、ここは私に採点させてください!」
天稲が胸に手を当てて、一生で限りある自信を惜しみなく使用した。
「お願いだからおとなしくしておいてください……」
「おとなしくお引き取りください。ぼんじりみさきと話している暇は無いので」
「私はぼんじりみさきかもしれないけど、こちらの天稲ちゃんはすごい優秀なので、ね?少しご同行してもらっていいですか?」
「前回の期末試験の数学、34点でした!」
天稲は珍しく何でも許したくなってしまう程の満面の笑みを見せた。いやなんで誇らしげにしていられるんだい?目黒五郎助の視線はずっと参考書から離れない。これは出直したほうがいいと判断して立ち上がろうとすると、天稲に止められた。
「辛抱強さこそ、人の本質なれ。熱き川も、爆ぜる乱世も、降り注ぐかわずも、いつか止むことを知る。私のオリジナル格言です!」
「えー、でも煙たがられるの、なかなか心にダメージが入るし、颯理がうずうずしてるから……」
結局業を煮やして、颯理が強引に目黒五郎助の腕を引っ張った。教室中の注目を集めることになるが、直後それがさらに深く突き刺さる。
「やめろ……っ、前回の期末の数学何点だったんだ……!」
「30点ですぅーっ!文系で悪かったですねっ!」
颯理は耳を赤くして、もうなりふり構わず、一方の手で黒板の粉受を掴み、ますます強く腕を引っ張った。ここまで付いて回ってきたら、次のテストでは死に物狂いで勉強することだろう。まあ今、颯理を助けられるのは私しかいないので、何とかしてせしめよう。
「あっ、私は満点でしたよ」
「本当?なら少なくとも、罰ゲームとかではないのね」
おいおい、態度変わりすぎだろぉーって、誰もが心の中に宿す主人公が言っている。しかも見方によっては罰ゲームである。
「はい、もう駆け引きなしです。ずばり、私の自転車のサドル、ブロッコリーにしましたね!?」
「なんで颯理まで被害被ってるの?」
「それは……すっかり事件のこと忘れて、小川に言われるままに、一緒にバスで帰りました」
「残念ながら、統計的に正しくない日本語しか理解できないので。30点は私の前で口を開かないでもらえませんか?」
「統計的に正しくない日本語ってなんだよ……」
「私は上位2.5%なので、上位2.5%の特殊で精緻な日本語を使用するけど、少数派ではあるから統計的に正しい日本語とは呼べない。まあ、猿には猿の、人には人の日本語があるって言うものね」
なるほど、56億7000万年後の選民思想を先取りしているのか。だがこっちに視線が向いたが、一体なんと返してほしいんだ……?
「えっと、ブロッコリーは丸々料理に使わず、細かくちぎってからつかおぉーって話?」
「違いますよっ!自転車のサドルをブロッコリーにするみたいな、しょうもないいたずらを、入念な準備を施してまでやらないでください!」
「証拠はあるの?」
リスの大きな大きな尻尾、戦隊モノのベルト、頬にはリコリス菓子、そして伊達検眼枠の少女はそれでいて颯理を見下したような態度を取り続けた。よくそんなに毅然としていられるな、三人称になった途端、吹き出しそうなんだが。
「その、2日に一回しか事件が起きてないですけど、あなたも2日に一回しか学校に来てないですよね」
「犯人は上質なブロッコリーを手に入れるために、丸一日費やしてるんじゃない?」
「だとしても、弁明になってないですよ。むしろ自白に近いです」
「そうなの……?」
だから私に助けを求めるな。まっ、大口叩く人ほど、臆病な人間なのは世の理だ。そんな奇抜な格好も、こけおどしでないわけがない。だからってこんな人の肩を持ちたくねぇー。
「さあ、返してもらいますよ、私のサドル」
「ブロッコリーの間違いではありませんか!」
「世界一役に立たないサジェストかな?」
「決定的な証拠を見せてくれないと、出せるもんも出せなくなるけど」
「あるぞ、決定的証拠」
ここでミス研の二人の応援がやってきた。松下が突き付けた写真には、駐輪場周辺の地面にブルーライトを当てた様子が写っていた。そして小さい透明の袋に入った、獣の毛も突き出した。
「これが証拠なんですか?」
「その尻尾で擦った跡があるだろ。それと現場に、尻尾と同じと思われる毛が落ちてた」
「なんで着けたまま犯行に及んだの?」
「待って、あなたたち、数学何点だった」
「60点だけど、それが?」
「じゃあ信用ならない。でっち上げよ」
これって、私は何を言っても信じてもらえるのでは?という邪な考えがよぎった。でも私は自転車通学じゃないので、正直他人のサドルがブロッコリーになろうと、バグパイプになろうと知ったことではない。むしろそうなったほうが面白い。
「待て待て、僕は90点だ。そう、全部僕が調べた。まっちゃんが手柄を横取りしたんだっ」
「いかにも、60点がしそうな手口ね。今日も道端で別の60点がそんなことしてた。浅はかなのよ」
「うわぁ……。もしかして、3人も同様に貶された?」
「そうですよ!数学は苦手なのに……」
「別に気にしてません!あなたが落ちぶれる時が楽しみだ!」
「あっ、満点です」
欲を抑えられなかった。次も満点を目指そうと、自分に呪いを掛けずにいられない。




