昔日の苦難
威勢の良く堕落しようと思って、心の準備もできたのに、肝心の妹がいない。「お姉たん一人で電車乗れない、うわーん」と、電話越しに咽び泣きながら助けを呼ぼうとしたのに、電話に出てくれない。
夢の記憶を洗いざらい探してみても、この妹は夢の中で脚色された私のために、いかなる友達からの遊びを断り、用事を作ろうとしない。何が楽しくて生きてるのか、理解に苦しむのは置いておくとして、どうして肝心な今この時は、自分の手がお姉たんに届かない場所にいるのだろうか。
何となく先に帰ったのだろうと決めつけて、ホームで電車を待っていた。しかし事件に巻き込まれたとか、自殺を図ったとか、一つ一つの確率は低くとも、この世には様々なイレギュラーがある。……私は、ちょうど半年前のあの日を思い出して、その時と同じような感覚に襲われた。視野が絞られていって、平衡感覚を失って、とめどない涙の処理に困る。
「お姉たん、しっかりして……!」
目を開くと、私を白くふわふわした羽が覆い、上には妹の顔があった。倒れそうになっているところを、妹に寄りかかって抱擁してもらう、情けないお姉たんになっていた。って、なんだこの翼は!お風呂で洗わないといけない場所が増えるじゃないか。
この妹は私を抱えて、そのままたくましく空を羽ばたき、家までひとっとびで帰宅した。そしてまるで未知のウイルスにでもかかったのかというぐらい、丁重に看病された。だがずっとベッドの横にいてくれるから、これなら話を進めやすい。
「あの、妹……?」
「どうした、お姉たん。寒くない?」
「むしろ蹴飛ばしたいぐらい。それよりさ、その翼、もふもふさせて?」
「えっ、いいよ。好きなだけ触りな?」
私は布団から手を伸ばし、遠慮なく指紋を擦り付けた。この翼の件を話題にするべきか、その間に検討を重ねていると、向こうから切り出してきた。
「お姉たん……あのね、さっきとても怖い目に遭ったの……」
「怖い目?」
「お姉たんを白高で待ってたら、いきなり同じくらいの歳の人に、すごい力で引っ張られて、車で森の中に連れ込まれて、それで……」
「大丈夫?怪我してない!?」
私は上体を起こして、妹に迫ってしまった。姉妹なら至極正しい反応のはずだが、妹はやはりこれを煙たがった。ダメな妹という手懐け甲斐のあるものじゃなくて、人間としての善意を全て捨て去らないといけないらしい。じゃあもう、自分の目下の悩みを、話をぶった切ってでも宣言してやるか。
「それより妹!お姉たんずっと悩んでることあるんだけど!」
「なっ何……!教えて教えて」
妹の目の色がトナカイのように変わった。なんといびつな関係、いくら何でも、この私でさえ罪悪感を覚えるぞ。しかしそれが世界の望むところならば、臨むところだ。
「お姉たん、昨日から醒めない夢に困ってて、それで倒れたんだけど。どうにかならない?」
「あっ、気付いたんだね、やっと」
人が二人分変わったかのように、核心を完全に理解した姿に化けて、大事な話をする前触れを巻き起こした。私も甘えん坊一辺倒を止めたほうがいいのか、迷ってしまう。
「えっ、もしかして、あれは全部演技だったの……?」
「違うよっ。何でかわかんないんだけど、お姉たんが変になったら、言わないといけないことが頭の中にあって……」
「言わないといけないこと?」
「私はすでに死んでるの」
「死んでるってことは、生きていたという裏返しでもあるけど」
「多分……お姉たんの世界では」
なるほど、私にも双子の妹がいたのか。だがそんな記憶は、現実のほうにはどこにもない。記憶に残っていないということは、相当早くに亡くなったのだろう。
「私たちの出産、すっごく大変だったみたい。お姉たんも生まれてから、1年以上入院しっぱなしだったんだって」
「それで、現実の妹は助からなかったと」
「そういうことだね……。多分、碌に顔を見合わせてもないんじゃないかな」
アルバムにあったあの写真は、この妹の生きた証だったのではと、ここまで出来すぎた話が続いているのなら、そういう風に解釈させてほしい。まあ、どうして母親は取り上げたのか、という疑問は残るんだけど。
「ところでなんだけど、お姉たんが消えてしまう前に、私も一つ質問したい。この “時雨” って誰のこと?」
妹はリュックの中を漁ってノートを手に取った。不真面目だったのか、妹の高校では不要だったのか、数学のノートがなかったので、白高生としての矜持を保つためにも、新しいのを作ったのである。言われてみると、他のノートには “蒼羽” とか書いてあった気がする。
「それは私の名前だけど……、もしかしてこの世界だと名前も違うの?」
「お姉たんは蒼頡の蒼に羽田孜の羽で “蒼羽” 、どうせ忘れてるだろうけど、私は竜髭菜の菜に羽魚の羽で “菜羽” 、双子だから、同じ漢字が入ってるんだよ」
この世界の私、妹の名前も覚えてないのかよ。もうスラングに頼りでもしないと、この人間を正当に言い表せない。こうならないよう、現世ではもっと気を引き締めて生きようと、そう誓わせるのがお前の狙いか、神よ。
「まあまあ、そんなに泣かないで」
「だって……これでお姉たんとお別れだと思うと……」
妹は涙をこらえようと、目を強く瞑った。それでも涙が何粒も零れていく。
「そうなの?」
「そうだって……」
「別れ際なのに人が変わったままでごめんね」
これは私が悪いらしい。しかし誠意が届いたのか、妹は顔を上げた。
「お姉たん、現実にはたくさん友達いるみたいだし、実はあんまり心配してないよ。私の分まで楽しんでね」
「うん、できるだけ長生きできるよう、健康には気を遣うよ」
私は確かに妹の菜羽に手を握られた。莞日夏を彷彿とさせる、温かくて、二人の神経が通ったような感覚に見送られるように、私は目覚めた。