マカロンを食べる余裕もない
もし顔を埋めている時雨が、突如として顔を上げたら、果たして私は冷静を保っていられただろうか。変な高揚感を鎮めたくて、まずはソファーに勢いよく座り、こっそり深呼吸を挟んだ。
「ところで、嘉琳は何を願ってるの?」
「何を願ってる?恒久的な世界平和と持続可能な人類発展」
「ということは、この世界では戦争がないかもね!」
ネットで検索したら、全然現実と同じように、領土が世界1位と世界44位の国が戦っていた。人類から戦を除いたら何も残らないのかもしれない。
理性のない人類に辟易していると、珍しく桜歌から電話がかかってきた。彼女は息を荒げており、ただ事でないことだけはすぐにわかった。
「あのっ、颯理さんが……やられたっ、助けてっ」
「どうした阿智原さん、落ち着いて」
「おおお落ち着いてる、でも本当なの、颯理がボコボコにされた。私も殺されるかもしれないから……」
「小川!待って!」
そう叫びながら陽菜が小川を追いかけていった。颯理の危機とあらば、真っ先に駆け付けようとするのは夢の中でも変わるはずがない。私も早々に電話を切り上げて、二人の後を追うことにした。
「待て待て待てぇーっ、二人ともどこにいるか知ってるの?」
「そんなもん、匂いでわかるー!」
「強がりすぎてネタに振り切れてるよー!こっちこっち!」
小川は現場と真反対の方角に進もうとしていた。桜歌によると海岸近くの林の中が現場らしい。歩道は整備されているが、そこから少し外れれば完全におあつらえ向きな場所だ。夢が牙を剥き始めたのか、覚悟を決めないとな……。
森を目の前にして、私たちは立ち尽くした。というのも右と左、どっちに二人がいるのかわからないのである。そもそも、だいぶ暗くなってきた夕方に、更なる闇に足を踏み入れたくないというのも、二人には申し訳ないが、ちょっとだけある。
「迷ったら右が定番だけど」
「誰かが仕掛けた罠じゃないんだから。その理論は通用しないだろうよ」
「手分けしようよ。じゃ私左ー」
「確かに颯理も大切だけど、自分の命とか、二人の命ももちろん大切だから。颯理をボコボコにした相手が現場に残ってたら、私たちも危ないよ」
「矢が3本あったら立派だけど、もやしが3本集まったところで、一網打尽にされるだけなんじゃ……」
「そう言えば、この夢の中で死んだらどうなるんだろう?」
「今そんなことに脳のリソースを割く余裕はない。とにかく、行ってみるしかないよ」
小川からは死も恐れない覚悟だけが伝わってくる。人を掌中の珠のように、そこまで丹念に想えるのは、私が出会ってきた人の中で小川だけな気がする。私は胸倉を掴まれ、ぶん殴られたことを微塵も悪く思っていない。
その時、空からマカロンが降ってきた。軽自動車のタイヤぐらいのサイズで、キャラクター化されたウサギのマジパンやチョコレートの板がくっ付いていて、アラザンが星のように降りかかっている。この大きさでもピエがきちんと出ているので、多分美味しい。そんな、まるでおとぎの国からやってきたマカロンは、右側の森に転がっていった。縋れるものには縋らないと、夢の中では生きていけない。私たちは迷わずマカロンの後を追った。
マカロンをベツレヘムの星に見立てていると、脇道逸れて倒れている颯理と、明らかに犯人らしき少女がいた。暗くて顔をはっきり認識することができないが、恐らく真朱帆だろう。彼女は三節棍を握っている。これで颯理をここまで追い詰めたのか?夜が涼しくなってきたからか、鳥肌が立ってきた。
小川は真っ先に颯理のほうに寄り、彼女の体を揺さぶった。相手の武器が三節棍だからか、流血はしていないが、意識が混濁している。そんなことをしたら、小川がなりふり構うはずがない。ゆっくり立ち上がり、指をポキポキさせながら、暗闇を穿つ眼光で真朱帆を睨みつけた。
「あなたたちにも用は無いのですが」
「とぼけるなよ、お前を殺す、絶対殺す。夢の中だから殺してやる!」
小川はただ滔々と溢れる怒りに突き動かされ、慣れない暴力に身を投じた。止めようにも私にはどうにもならず、真朱帆の三節棍が振り上げられる。しかし、陽菜がいつの間にか持っていたバスケットボールを的確な位置に投げ、三節棍は軌道を変えられ、小川の突進を回避すべく真朱帆は体を躱した。しかし小川はこれでも懲りずに、大木に手を突いて反転した。
「小川!危ないよ!」
陽菜の静止ごときで止まるはずもなく、再びかち合う直前、今度は空からトライデントが二人の間を縫って、地面に突き刺さった。すかさず陽菜がそれを奪う。そして私はそんな様子を、指を咥えて観覧しているだけ。
「落ち着いて。私はあなたたちと争いたくはないの」
「お前がそう言おうと、私はお前を殺したい。逃げるなよ」
「一旦落ち着こう?それは向こうの言う通りだよ……」
「あの、あなたの望みはなんだ。喧嘩で絶対負けない、純粋なパゥワーでも欲してるの?」
「そう思う?本当は気付いているでしょうに。だけど邪魔させない」
小川が言っていたのはこういうことか。死人が復活するなんて禁忌には、途方もない狂気がへばりついてくる。場違いなことを言うならば、時雨にその役が回ってこなくて良かった。
「そうだね。だとしたら、どうして颯理をこんな風にした?」
「どこまでも追いかけてくるから。鬱陶しかったのよ」
「颯理が鬱陶しいだと?そんなに私に怨念があるなら、私自身を否定しろよ」
小川が勇ましいことを叫ぶと、陽菜が両手で握りしめているトライデントが、少し彼女のほうに寄っていく。小川はいつ無謀な突撃を敢行するか、わかったものじゃない。夢を忘れてしまうような時間が過ぎていく。
横の森から物音がした。全員の視線がそちらに向かう。どうやら桜歌は森や草の中で息を潜めていたらしい。
「そいつは車まで用意して、人を誘拐しようとした。だから無用な正義感で笹川さんが追いかけた。それで反撃されてあの始末」
桜歌は声が震えていた。勇気を振り絞って、状況を説明してくれたことに感謝しかない。
「催涙スプレーをかけて、それから首筋をぽんと叩いただけ。すぐに目を覚ましますよ」
真朱帆の高慢な態度に、小川は猟犬のような剣幕に豹変した。だがこのままだと颯理の二の舞になるだけだ。必死に釘を刺して、何とか対話による解決を試みないと。
「とりあえず、私たち高校生なんだから、対話で解決しましょうよ。そんな物騒なものを構えてないで」
「あなたたちがここで、全ての望みが叶った時、夢から醒めるという仮説を、どんな理論でねじ伏せようとも、わたくしは一縷の望みに縋り続けるわ。それなのに、どこに対話の余地があるのかしらね」
「あんたは恐らく、時雨の妹を誘拐しようとしたんだろうけど、彼女が時雨の願望なわけ無いでしょ」
「無関係な人を巻き込んではいけない道理はないので」
「夢の中には警察いないの?」
同級生だからと言って手加減せず、早々に警察を呼ぶべきだった。
「駅前の交番に、お巡りさん立ってたからそんなことないはず……」
「これが無敵の人ってやつか。もう何を言っても聞かないでしょ」
それは桜歌の言う通りだが、どう足掻いても武力で勝てるはずがない。夢なら精神を震撼させるような出来事に直面した瞬間、はっと目が覚めて、汗がだらだらであることを自覚するものじゃないのか。私は陽菜が握っているトライデントの先を見つめた。
「まあ、その天から送られてきたトライデントに、どんな力が宿っているかわからないから、あなたたちが攻撃してこない限り、こちらも手出ししないことにするわ」
そう言って、真朱帆は草木を掻き分けて、林の外に向かっていった。その先には、この学校の先生の誰かが乗り回している、ベンツSクラスが停めてあった。桜歌が言っていた車とはこれのことか。
しかし次の瞬間、何者かがこれに乗って、走り去ってしまった。ここからだと顔は判別できないが、どう考えても女性、ビキニ状のコスプレ衣装を着用している。明らかに持ち主ではないだろう。
「あの、クソサキュバスめ……!」
自動車を奪われた真朱帆は形相を変え、反転して私のほうにその三節棍を差し向けた。何とか初撃は体を反らすことで躱せたが、次はどうなることやら。
「嘉琳、逃げて!」
「あんたもあんたで下衆野郎ね」
小川の叫びに、桜歌がぼそっと呟く。この中で願いが叶っていないのは、私と時雨だけ。真朱帆は陽菜の願いにも気付いていないだろうから、次に狙われるのは当然私たちだ。仮に小川がそう指図しなくても、逃げるしかない。
「フェス、そのトライデント……」
「使えるわけないでしょ!はっ犯罪者になっちゃうよーっ」
暗闇の林の中、わずかな街灯りを頼りに走っていると、罠を踏んづけたようで、思いっきり前に転んだ。片足をトラバサミに捕食されたらしい。だが鋸歯の刺さった強烈な痛みはなく、ただ強く挟まれているだけだ。つまり真朱帆が仕掛けたのだろう。
振り返ると、好機なので当たり前のように三節棍を振り下ろす真朱帆がいた。これは夢なんだから、じきに醒める……。それだけを願って、私は両手で頭を覆った。