夢見る少女のロンドン会議
「いいの?打ち上げ行かなくて」
「いやぁ~、あれをご覧ください」
私は生徒会室から廊下に出て、窓の外を指さした。そう、妹が陣取っているのである。
「家に帰りたくなるまで、学校の敷地の外に足を踏み出すわけにはいかないのさー」
「仲睦まじいねぇ」
「嘉琳こそ、行かないの?」
「え?二回目はもういいよ」
「そうだねー。隣の席にぼろ負けしたし」
「まっ、時雨も暇だろうし、ここで下校時刻までのんびりしてようよ」
そう言って、嘉琳は勝手にコーヒーを淹れて、スナック菓子も棚から取り出した。これが宿望でいいのに。
「あーっ、どうして嘉琳には姉妹がいないのーっ」
「そう言われましても……。私は願ってないもので」
「こっちだって願った覚えはないよ!はぁ、いや実は昨日、あの後和解を試みたんだけど、『こんなのお姉たんじゃない』って、拒絶されてしまった」
名前を聞いても、気になる人を聞いても無視され、そのくせ着替えから何まで全部つきっきりで、よく私は壊れずにこの場にいるものだ。しかし、今さら自己肯定感を上げても仕方ない。すでに健全な精神を持っているほうだから。
「実は雪環さんの願望なんじゃない?」
「いや、不審者だと思われて、追い払われましたが。良かったー、制服姿の乙女で」
「そう言えばそうだったね……。でもあの仮説は間違ってると疑う気になれない。早まった一般化なんだろうけど」
「阿智原さんも、『私も願いを叶えたから、次はあなたが叶える番。私も精一杯頑張るから、こんなに良い台詞を言った私になんか奢りなさい?』とライブ前に言ってたんだよねぇ」
「そんな一言一句暗唱できるなんて、さては、教科書の端にあるコラムばっかり覚えてた小学生だな?」
「どう考えても自己紹介でしょ……。まあ、仮説が間違ってたら、夢から醒める希望が失われるし、合っててくれー」
「あっそうそう、私も天才だからさー、昨日寝る直前に、フェスの願いを思いついてしまったんだよね」
「本当?やっぱり、ナーランダ僧院に留学していただけあるね」
「なんか違う夢を見てない?これが同床異夢か」
それはさておき、嘉琳はこの生徒会室に陽菜を、ライオンの餌やり体験ができるという口実で呼び寄せた。わざわざ小川まで巻き込んで、飛ぶようにやって来た。
「ライオンなんていないって最初からわかってたけどね。でもいたら、いたら可愛がってあげたい。所詮ライオンもネコ科だし」
「ほら時雨、フェスは生徒会室に入ると、死後硬直するという性癖があったでしょ?それが治ってる」
願いの程度は人それぞれなのだなぁ。まあ同じ初詣であっても、漠然とお金のことを祈る人もいれば、人生の伴侶を神に委ねる人もいる。
「ほんとだぁーっ!そうじゃん、やったよ、小川!」
「そうか、良かったなぁ。あれだ、すっごくどうでもいいとは、ディリクレ関数のルベーグ積分ぐらい思ってないから安心したまえ」
「ふへぇ……?」
難しい言葉で陽菜をクラッシュさせる小川であった。
「ちょうど良かった。私も話したいことがあったんだ」
と、ここで小川が切り返す。
「この夢はきっと全員の願望を叶えて幕を閉じる。だけど、そんな理想郷を全員が易々手放すと思う?」
「鋭いねぇ。うーん、大源太山みたいだ」
「知り合い?」
陽菜が小川の顔を覗き込む。多分、山の名前だと思う。
「私も、コナンくんの扉が開いたら、敵に回るかもしれないしね」
「二人はどうなの?」
「私はどうでもいいよー。もう生徒会室に用はないし」
「うん。私も、夢は夢だと割り切るつもり……だけど」
何だか陽菜に比べて小川の歯切れが悪いので、後で闇堕ちしないか楽しみになった。だがもしそうなってしまうと、一番の強敵になりそうだなぁ。
「というわけで、妹とやることやっちゃってほしいんですが」
「やることって何。願ってないんだけど」
「何をするにしても、まずは和解しないとね……」
「和解?喧嘩してるの?」
「どうせしょうもない理由でしょ?意地張らないで謝っちゃえばいいのに」
陽菜のご意見は正しいし、私だってそうしたいのだが、あの妹は私が正しい行動をすればするほど怪しんで、距離を置こうとするのである。そう溜息混じりに説明していると、嘉琳がにやにやしながらこちらを見ている。
「つーまーりー、甘えればいいんだよ。思いっきり妹に甘えればいいの」
「それは難しいんじゃない?だって、いきなりこれが妹だって言われて、仮に血の繋がりを感じたとしても、私だったらすぐに仲良くなれないよ」
「小川女史よ、あんたの中には、現実の記憶とこの夢で生きてきた火焚小川の記憶が併存しているでしょ?要は時雨の中にも、妹を妹として受け入れる素地は整ってるってわけ」
嘉琳の言う通り、それがあったおかげで、赤の他人だという気はしなかったから、身支度を片っ端から手伝われても、それを暴力をもって辞めさせようとは、自然と頭に浮かばなかった。とは言え、現実の記憶が存在する以上、能動的に妹を妹たらしめたいとはならない。
「まっ要は、甘えるのが恥ずかしいから、自分でセーフティーをかけているだけ」
「恥を捨てろってことかぁ。まあまあ、これも夢だしー。うちらのためにも頑張ってよ、時雨さんっ」
「陽菜……、煽らないであげなって」
「え?煽ってるわけじゃないよ。そうだ、練習しておいたら?」
「まさか、練習しとく?」
陽菜は純然たる平常心なのだろうが、嘉琳は一体どういうつもりなのだろうか。眉をひそめてくれている小川に感謝しつつ、とりあえず見返してやりたいので、手を広げた嘉琳の胸に飛び込み、小学校の学芸会ぶりに、声に感情を詰め込んだ。演劇と違って、儚く消えそうで音量が小さいほど評価されるのが、楽で良い。
「ごめんね、嘉琳一人守れない弱い人間で……。でも、嘘ポリグラフはいつも助かってるんだよ」
「何言ってるかわかんないけど、できるじゃねーか、よっ」
嘉琳は冬場の羽毛布団のようにぬくいのだが、表面温度に反して態度が悪い。本人は手加減したつもりになっている腹パンを食らった。周囲の酸素を全て吸いながら、かすれ声も出して痛覚を遮断しようと躍起になった。
「あっあぁーっ、大丈夫?ごめん、ごめんって」
「大丈夫、私が背中さするよ」
「食らったのは背中じゃないんだが……?」
「その、磯貝にしかやったこと無いから、加減がわからなかった」
「時雨がやわなだけなのでは?」
「おい、小川だけはいつも私の味方だと陶酔してたのに」
「なんでよりにもよって私?君たちには理不尽な怒りをぶつけたばかりなのに」
「今は利害関係が一致してるので……」
「まっまあ、何はともあれ、もう私だと錯覚して抱きつけ。それしかない」
「最悪、危ないカラフルなお薬で幻覚を見たら?これは夢なんだしー」
「おい、そんな都合のいい幻覚なんて……見られてるのか、そっちは」
「夢というのは脳の作用だし、夢の中で乱用しても依存性がありそうだよね」
なんだ、小川には皆でバッドトリップした現実の記憶があるのか?まあ夢で懲役何年は嫌すぎるので、大人しく嘉琳に背中を押してもらった。
「じゃあほら、行っておいで。下で待ってるでしょ」
「任せとけ。最高にダメなお姉たんになってやるぜ!」
廊下の窓から校門を見下ろすと、絵の具の付いた筆を水バケツの中に入れた時のように、夕闇がじんわりと広がっていた。あれ、帰っちゃった?