中華そばの名店
夢とは言ってもただまっすぐ生きていく上では、何もかも現実と勝手が同じだ。夢であると告げてくれるこの感覚も、長時間浸っていると慣れてきてどうでもよくなる。私にとっては、同じように夢を見ている人がいるだけで十分だった。
さて、軽音の練習はきちんと終わり、スタジオを一番乗りで出ると、黎夢が面白いポーズもせずに、ただ待ち構えていた。私の切実なお願いは、黎夢が鬱陶しくなくなること、ただそれだけだと言うのに。
「ぽよぽよ~、ずっとまってたのー。まちがえた、いまきたところなのー」
「何の用。一緒に帰りたいなら、家が同じ方向になるよう、流れ星に1億回お願いしておくんだったね」
「むー、れむ、そんなに話すそくど速くないから、ながれぼしにまけちゃうよ~」
「そんな風にしか喋れなかったら、誤魔化しがきかないじゃない。 “てめえ屠るぞ” ってうっかり口走ったらどうするの?」
「あいきょうでなんとかするのー!」
こうして夢の中でも平常運転な黎夢なのであった。決して愛嬌があって羨ましいとか、妬ましいとか思っていない。今天啓があって初めて概念を知った。そういう感情はへその緒と一緒に切り捨ててきたのだ。
「おーかちゃん、らぁめんたべよう、たべよう?」
「いや、わからない、そんなにラーメンを食べるのに、愛犬が具合悪くなった時みたいな顔をする理由がわからない」
「それはこっちのせりふだよ。うばわないでほしいのー。あっ、いまからたべにいくのは、ラーメンじゃなくてらぁめんだからね」
「何の違いがあるの?」
「文字におこすといちもくりょうぜん!」
これにより黎夢が話している言語が、なんと文字を持っていることが判明した。多くの言語が文字を持たず、そのために記録できず消滅していってしまう現代において、なんと恵まれたことか。今度、正書法をお伺いしたい。
黎夢に引かれると、ラーメン屋というよりは中華料理屋っぽい外装の飲食店に参拝していた。店名は “黄龍楼” というらしい。欄間看板に、目立ちたがりなドラゴンの木彫りと共にそう書かれている。だが、開店初日と言われてもおかしくないぐらい、店の前やファサードがやけに小綺麗だった。
「てんちょー!いつもの、きょうは2つなのー!」
「あいよ。お、お友達連れてきてくれたのか。いいねぇ、なんかサービスするか。あ、好きな席に座ってくんさい」
厨房では年齢の割には元気なおじいさんが、果敢に中華鍋を振っている。足腰が弱いのか、色々なところを伝うように、店内を移動していた。だが上半身は、私をナウマンゾウサイズにしたやつよりも元気だった。よく喋るし、よく鍋を振っている。私はこういう人間というかお店が苦手だ。温かいものはやがて冷めてしまう。程よく常温ぐらい殺伐としているべきなのだ。
気が付くとテーブルの上には、山盛りご飯の上に、大ぶりの具材で作った八宝菜が載ったどんぶりが、2杯置いてあった。
「ラーメンはどうしたの?」
私の疑問が素朴すぎたので、黎夢はぼーっとして何も答えてくれない。
「これが噂の中華料理屋症候群か……」
そんなことを呟いていると、今度はどこからともなく出てきたおばあさんが、餃子の千重咲きをテーブルの上に置いた。するとなぜか黎夢がガッツポーズをした。そんなに餃子が美味しいのだろうか。早速一個いただいた。
「うわー、なんておいしそうなぎょうざー、なのー」
「どうして棒読み……」
「おーかちゃん、きづいてないよね、きづかないよ!うん」
黎夢はそう言って大きく頷いてから、私をじっと見つめた。まるで冷める前に食えと、足腰の悪い店主の代わりに伝えるように。何なら、黎夢の分の八宝菜も、こちら側に押し付けられていた。
「アイドルはね~、らぁめん一杯がげんかいなのー!」
「本当に、この後ラーメン出てくるの?」
「だかららぁめんだって!」
「中華そば」
「中華そば、いますぐたべたい?」
「不動読書大王にとっては、今テーブルにある分だけで1か月食いつなげるから……」
黎夢が身を乗り出して、私の顔の前で手を叩いた。剣道をやっていないので、瞬目反射で世界から一瞬だけ断絶される。驚かし終わったので、みるみる後ろに下がっていく黎夢、テーブルの上にはWikipediaに貼れそうな、プレーンな中華そばが2杯置いてあった。鼈甲色のスープに細いストレート麺で、メンマとナルトとネギとチャーシューがトッピングされている。
私が器を自分の元に寄せているわずかな時間に、黎夢には差を付けられてしまった。彼女は滝の逆再生のように麺を啜っている。アイドルとしての矜持は一体どこへ行ってしまったのだろうか。
黎夢は自分が食べ終わると、勝手に思い出話を始めやがった。
「この味はねぇー、おかあさんとのおもいでの味なのー。ちいさいころに、おかあさんとふたりで遠出して、その道中でたべたんだけど、わすれられないぐらいおいしくて……あれ?毎週末たべてたじきもあったな……。どういうこと?」
私はお淑やかに麺を啜った。
「まあいっかー。おもいではおもいでだし。よくわかんなくなっちゃったけど、またこようね。よーし、お会計はいくらかな?」
「まだ食べてるんだけど」
「れむはたべおわったのー」
「じゃああの餃子とかも食べておいて」
「餃子?八宝菜?なんのこと?」
黎夢は首を傾げた。首の骨を折られたいのだろうか。それはさておき、餃子も八宝菜もきれいさっぱりなくなっていた。あれは夢だったのか……?これも夢だが……。中華そばを食べた後に、締めとして餃子を一個だけ口にする予定だったので、何だか名残惜しい。
「ところでなんだけど……」
「このタイミング……、私は絶対お金貸さないからね」
「ちがうよ!あの、やっぱりちばにゃんって呼んでもよろしいかなのー……」
「私の機嫌がいいときだけにしておけば、一生口内炎が治らないぐらいで済むかもよ」
「それはがんかもしれないやつ!」