二階から無鉄砲
いつもより半音の半音高い目覚ましで起床する。いや、私は目が醒めたどころか、夢に潜り込んでしまっていた。二段ベッドの下から這いでて、手を握って開いてを繰り返したり、頬をつねってみたりしたが、現実と遜色なく動き回れるし、現実と同じように痛覚がある。でも、今立っているこの場所は間違いなく夢だと刷り込まれている。
人間とは不思議なもので、現実を夢だと認識してしまう病気なんてものもあるらしい。昨日寝る前まで、私は夢というものに夢を見過ぎだと、ごく稀な症例に熱を込める創作家をせせら笑っていたが、その認識は改めなければならないみたいだ。
窓の外でも見てみると、電線に止まっていた鳩が飛び立ち、軽自動車が狭い道をそれなりの速度で駆け抜けていった。私以外も、夢だと認識しながら、夢に囚われているのだろうか。
夢の中とは言え、朝らしい感覚もしっかりある。顔を洗いたい、小腹がすいた、口の中が気持ち悪い、これらを手早く解決して、普段なら朝の数学時間に充てている時間になったが、どうしよう。一向に目が醒めない。むしろ、さっきより世界が鮮やかに見える。止まない雨はないが、醒めない夢はあるというのか。私はもう一度窓の前に立った。
三半規管に衝撃を与えると、夢から脱出できるという話を思い出した。まずは窓に頭をぶつけてみる。目をつぶって頭を前に倒すと、最初のまずまずな衝撃からかすかに残響が後を引く。何度か試してみたが、自傷行為とは程遠い威力しか出せず、世界に勇気が足りないと蔑まれている。
やはり、強引に行くしかないのか。ここはアパートの2階、ここがどんなに現実に近くても、頭から行かなければ死ぬことはない。しかし、普段から生をありがたがっている身分なので、自ら命を絶つというのは、アイデンティティーを揺るがしかねないことでもある。それに翼も飛膜もない人間にとっては、このくらいの高さでも怖いっ。
「また朝から電話かけてきて……。どうしたの?」
「さぁつりぃ~、2階から飛び降りるなんて無理だよぉ……。だって自分の身長より高いんだよ?うぅ……、高所恐怖症の人ってこんな気持ちなのかなぁ」
「ごめん……何の話か、ぼんやりとも見えてこないんだけど……?」
「え?2階から飛び降りようかなーって」
「どうしてっ、なんか悩みあるの?あるなら言ってよ。いつでも相談に乗るよ!?」
たった2階から飛び降りようとするだけの臆病者に、颯理は声を荒げていた。うーん、まあ私が朝っぱらから飛び降りようとしていたら、颯理はこれくらい心配してくれるか。
「うん、大したことじゃあ、無いんだけど……」
「どんな些細なことでも、私に相談していいんだよ。私が小川のこと、一番よくわかってるから」
私の頬を一筋の涙が伝う。そして、甘い誘惑に乗せられて、私は秘めたる何かを話してしまおうとしていたことに、私が気付いた。何者かに操られて……違う、私の中には別の世界を生きた自分の記憶があるんだ。現実の記憶と夢の記憶は、競り合い寄り合い殴り合いを水面下で繰り広げている。
「どうしたの?私に話しにくいこと?例えば、私に治してほしいところかな?いつもみたいに、遠慮しなくていいんだ……、やっぱり遠慮して!」
混乱して錯綜して倒錯して目が回ってしまう寸前まで来たところで、颯理の声で現実の自分に引き戻せた。
夢の記憶を読んでみると、人気のない夜の公園で他愛のない雑談をしていたら、相思相愛であることをお互い認識し、それから颯理とはそういう関係になった、と著述されている。そして歯止めが利かなくなった私は、毎晩のように電話をかけて、颯理に迷惑をかけていると。時にこうして、くだらないことで涙を流す私を、赤子をあやすように慰めさせていた。とっさに颯理に電話をかけようと動いたのは、この記憶が染み付いていたからというわけか。
「小川……小川なんだよね。黙らないでよ」
「ごめんごめん、よくわからなくなっちゃって」
「もしかして……小川も?」
「私は夢を見ている……夢に沈んでいるみたいなんだよね……。憐れまないでよっ?こっちはおおおおーいに真面目なんだから」
「あぁ、これは紛れもなく夢だよね。良かったぁ、小川とこの不気味な感覚を共有できて」
やはりこれは夢らしい。颯理に共感してもらえると、妙な説得力と安心感がある。夢の中の颯理に対して感じたわけではないので、これに甘んじていいと信じよう。
いつかはこの感覚に順応するのかもしれないが、私たちが生きているのは現実だ。現実に帰らなければならない、と強く揺り動かされた。現実が呼んでいるかのように。人生の醍醐味を奪われて機嫌が悪いのだろうか。
「颯理、2階から飛び降りればキック成立すると思う?」
「また2階から飛び降りようとしてる!?」
「颯理、居心地がいいからって、いつまでも夢の中にいるのはどうなんだろうか。上手い話には例外なく裏がある。何かとんでもない報いを受けさせられそうじゃん」
「つまり、小川は早く夢から醒めちゃいたいんだよね?」
「そうだよ」
「それがどうして2階から飛び降りることに繋がるの?」
「物は試しか。やってやんよ!」
通話を一方的に切断し、私は再び窓の前に立った。そして少し乗り出して、自分の行末を鑑みていると、下で自転車に跨った颯理が、奇怪な目でこちらを見ていた。とりあえず、軽く手を振っておいた。
大方の予想通り、飛び降りる勇気なんて出なかったし、そのうちに時間が来てしまったので、階段で安全に地表に降り立った。
「小川、無鉄砲なところあるから、本当に飛び降りちゃうんじゃないかって、心配したんだからねっ」
「まっまさか、私がそんな非合理的なことをするわけないじゃないか」
「いつも階段何段飛ばしで降りられるか、肉体の限界に挑戦している人が言うことですか」
「あれは……、あれはきちんと理由があるって!」
「まあいいんだけどね。怪我さえしなければ、そういう抜けてるところが好きだよ」
颯理は私の心臓を止める気なのか。それとも私を夢に留めておくよう指令があったのか。いずれにせよ、慢性の浮つきが、一瞬にして青天井となった。
「おーい、後ろ乗ってくぅー?」
「えっ、えぇっ?いいよっ、速度に影響でるでしょっ」
「でもバス間に合わないよね」
「なんでいつも乗ってるバスを知ってるの……?」
「いいからいいから。たまには一緒に登校したいなっ」
薬は毒にもなるというが、それを薬の定義とするならば、颯理のアイドル並みに自信のこもったウインクは薬である。心臓が悲鳴を上げているので、例えば自転車の後ろの席に座って、颯理にしっかり抱き着くなんてやったら、死ぬので、遅刻を覚悟してでもバスに乗りたいのだが、死ぬならそれはそれで夢から醒められるので、私も自転車にまたがった。