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思い立ったが淡雪  作者: Ehrenfest Chan
第5話:文化祭事変
110/212

時間の重み

「先輩、颯理は!?」

「それが、私は裏方の仕事があったから、常葉に付き添って保健室に行かせたはずなんだけど……」

「ごめんなさい……。トイレに行くって言われたからぁ、そのまま受け取っちゃったぁ……」


 常葉は申し訳なさそうに、肩身が狭そうに頭を下げた。演奏中は頭を空っぽにしていたが、祭りの後の寂しさには勝てない。私は常葉から借りたギターを首から外し、バンドメンバーを差し置いて、一番乗りで体育館を出た。私が見つけ出してところで、安心させられる自信は無いけれど、それでも共に時を刻めば進めると信じて。


 そう意気込んでみたものの、颯理には並外れた妙な “何か” がある。雪環の時、そして自転車で駅前を爆走した4月のあの日、簡潔にまとめるならば、逃げ隠れるのが上手そう、私たち庶民の手の届かないところで、めそめそ泣いてそう。


 しかし、悪い予感が的中したかを判別する前に、私はとある人物に絡まれた。颯理も誰もいない教室から廊下に出ると、スレンダーマンみたいな立ちふるまいの小川と邂逅してしまった。右手で握りしめたナイフから、血がしたたり落ちていてもおかしくない。


 ゆっくり教室へ後ずさりしようとしたが、背中を壁に預けてしまっていたことが命取りになった。小川は泣いてるのか怒ってるのかわからない顔のまま、当然の権利のように私の胸倉を掴んだ。


「なっ、何の用です……」


 気迫に押し出されて、相手の気を逆立たせるようなことを口走っていた。案の定、いやこれは何を言ってもこうなる定めか。トリチェリの原理でも唱えて心を落ち着かせよう……。


 太陽も沈み、静まり返った廊下で、数秒後に小川は声を荒げた。


「……どういうつもりだ、何であんなことしたんだ、おい、答えろよ!」

「どっどういうも、高野山も、颯理は、たっ倒れたんだよ?小川も見てたんでしょ、だったらご理解を示していただけたら幸甚の至り……」

「知ってる!そんなことはわかってる。でも、颯理がどれだけ自分を傷つけて、自分を嫌いになってるか、骨に染みてるならあんなことはできない、できるはずがない!」

「それは……違う。許して、これだけは許して」

「まさか、事前にこうなることを予測して画策してたんじゃないだろうな。そうだ、そうに違いない、だっていきなりギター持って、耳障りにならないぐらいには弾けるなんておかしいもん。さては……」

「違う違う、それは颯理が忙しくて、代わりに私がリハーサルしただけ……やっぱり何でもないっ」


 間を置かず、締め切ってない蛇口から流れる細い水の糸みたいな声で、正論を振りかざしてしまった。その復讐に疲れた人の表情と、いつ地雷を踏むか皆目見当もつかない恐怖で、もうこれ以上何も話したくない。殴るなら早く、顔はやめてくれればそれでいいから……。


「そうなんだろうけど、判断が早いよ……。10分20分待ったら、落ち着きを取り戻したかもしれないのに、親切の押し売りで、その線を早々に棄却したんだぞ。まず私に謝れ!あやまれ!」

「おおかしいて、小川。どうしちゃったんだ。わかってるよ、後で颯理にも小川にも、きちんと平身低頭で頭を粉にするけどもね。この状態だと、私が怯えるぐらいしかできないかなーって。あーっ、心地良い、春のそよ風の次に快適だけどねっ」


 目は泳ぎ、言葉は抜け落ち、ただただ怒りを加速させてるだけなんだろうなーと思っていたら、小川は私の言葉をあまり聞いていないらしい。向こうも、自分の言語中枢を通過した単語をそのままアウトプットするのが、精一杯なのかもしれない。


「お前も颯理を止めてくれたら、バンドなんて似合わない洒落臭いこましゃくれたお遊戯は止めろって警告してくれたら!颯理はこんなことにならなかった。ねぇっ!?」

「それはその通りかも……」

「私は全部知ってる。お前が集めたんだ、お前が進めたんだ、お前が支えたんだ!」

「だっだから、今からでも説得する。それでいい……?」

「せめてお前に悪意があってほしかった。どうして無いんだ、そんなに無垢なんだ、颯理からならいくらでも金をせびれるだろ!?消えろ、失せろ、近寄るな、ガキみたいに泣きわめく颯理がそんなに気になるか!」


 小川は胸倉をもっと強く握った。溺死の次に息が詰まる状況だった。私も友達の気の触れた姿を、長期間曝露されて、どうかしてしまわないはずがない。


「何が言いたい。何を求めてるの!?殴りたいなら、真っ先にやりなよ!」


 小川は拳を握りはしたが、しばらくぶつくさ言いながら躊躇っている。暴力に訴えるなんて、そこそこ優等生で、エモコンが地に足をつけている小川が、経験したことあるはずがない。だが何よりも、小川にとって颯理という存在は大きすぎた。私の腹に、甘ったれた衝撃が食い込んだ。


 超音波カッターみたいに震える腕を期待して視線を下すと、そこには時雨の手もあった。時雨は私を守ろうと、間に自分の手を捻じ込んだらしい。まあ時雨の有無に関わらず、小川が手加減してたから、何ということはなかった。


「いったー、やったな?やりやがったなぁ?」

「ちがっ、わわわ悪かった、これは、これはけじめだ、けじめのために……。やり返したいなら……というかやり返してくれ。いいよ、私は顔でも、どこでも」

「同じ罪人に落ちたくはないし、落ちられても困るので。降参して懺悔してなさい」

「お願いっ、何か奢らせて。それで帳消しになるとは思わないけど……。その、一生口利かないとかは勘弁して……」


 小川の震えは、胸倉から重々伝播してくる。時を司れないことを、今ほど後悔することはないだろう。時雨は腕を組んで、小川の様子をじっと注視していた。


「あの、時雨。小川にも悪気があったわけじゃないし、同情しかないし、ねぇ?許そうよ」

「別に。怒ってるわけじゃない。ややこしいことになったーとは思うけど。あっ、嘉琳の服がしわくちゃになるでしょ。離して」


 時雨が指摘すると、小川は私の胸倉からゆっくり手を開き、一歩後ろに下がった。影が引いていく。押し潰される直前で、命だけは助かったらしい。


「ごめんなさい、颯理のこととなると、つい熱くなってしまって……。二人は颯理にとって良き友人だと思う。これは嘘じゃない、心からそう思ってるんだけど……」

「それは疑うはずがないでしょ。もし小川が、私たちを颯理に害をなす存在だと認識したら、それを口実に飛び掛かってくるはず」


 胸倉掴まれてない私、めちゃくちゃ饒舌に喋るじゃん。


「どうしたら……そうだ、颯理の過去、二人にも少し話すよ。今後も起こりうる話だし、仲間なら知っておいて損はないはず……」


 私がかすかに頷くと、小川は俯いたまま、さっきの私みたいな声で、涙交じりに話し始めた。


 颯理は極度のあがり症で、まともに人前に立てないらしい。本人はこれを治そうと躍起になっていて、自分から生徒会に立候補してみたり、こうしてバンド活動をしてみたり、今まで数多くの目立つ活動に自ら飛び込み、そのほとんどで大迷惑をかけて回った。しかし聖書を愛読しているのか、何度も立ち上がり、そしてまた倒れてを、懲りずに繰り返している。


 小川は誰にも吐露できなかった心中を、ようやく詳らかに喋ってしまったので、何度も涙を自分の手で拭い、鼻をすすった。


「私はずっとその自傷行為を隣で見てきた。何度、この体で颯理を受け止めたことか。怪我をするかもしれない、自己嫌悪で鬱を発症してしまうかもしれない。何より、親友が惨酷な目に遭っているのが耐えられない……」

「うん、それは何というか……。小川の動機は十分伝わったから。ありがとう、私たちに話してくれて」

「でも、だから私はバンド活動に反対だ、なんて言ったら、時雨はどうするの。誰かを傷つけたことを自覚せずにいられる?」

「さあ、それはもっと早く言ってよ。ルシタニア号の広告の隣に掲載するとか」

「それは……そうかも、今さら言われても、後には引けないか……。ごめんなさい」


「ねえ、五月雨祭の時は、何も無かったよね。それはどうして……」


 率直な疑問をぶつけたら、時雨に睨まれた。


「おーい、空気を読みなさいー」

「あぁ、あの時は人があんまりいなかったから。1クラス40人ぐらいなら問題ないって、過去の事例から推測していいんじゃないかな……」

「体育館満員御礼だったらダメかー」


「とっところで、颯理は見つかった?こんなこと、今まで無かったから、全然わからない……」

「あーそうだ、颯理が見つかったーって伝えに来たんだった。なーに一方的にやられてるの、嘉琳」


 私が悪いのか……?色々な意味で。涙なんて吹き飛ばして、すかさず小川が食いついた。


「それは本当か!?」

「うっうん。あっ名前忘れた……。なんとか公園ってところでしょぼくれてるらしいよ。颯理のお母さんから連絡があった」

「ありがとう、それだけで見当はつく……多分。この持病のせいで誰かに迷惑をかけるのは初めてだからかな……。なんて声をかければいいんだろう」

「あんなの、適当によしよししとけばいいから。それより、このくらいの年齢の人間は、軽率に禄でもないことをしかねないんだし、しょぼくれてないで、いいから早く行ってきて」

「私にはっ、本気で二人を責めたり、颯理から遠ざけたりするつもりは、金輪際ないから、うん、それだけは……」

「自分が嘉琳から遠ざけられないよう、警戒していたほうがいいんじゃない?」


 時雨の言葉は強かった。小川は時雨と目線で手に余るほどの覚悟を示してから、走り去っていった。


 自分でも驚いたことに、涙を流せる鬼の形相が目の前からいなくなった途端、全身から力が抜け落ち、壁にもたれながらゆっくり座り込んでいた。小川が階段で、最後に5段くらい飛ばして下りた音が流れ込んで、ようやく私は長い溜息をつくことができた。


「ぅはぁー……。どうしよう……」

「何が?他になんかされた?柔毛むしりとられたとか」

「餓死しちゃうよ、それは」

「まあまあ、さっきのナメクジパンチは痛くなかった?」

「もし痛かったと答えたら、私はナメクジ以下か?」

「まさかね。優しくさするぐらいはするよ」

「ありがとう、助けてくれて。いやー、時雨は自分をかっこよく見せる方策をよく知ってるなぁっ」

「こんなので足りたの?こんなんで調子に乗らせたら、不良債権と化すよ」

「あれはっ、時雨のためじゃない。天稲ちゃんと阿智原さんの想いを乗せたのっ」

「はぁ!?私のためでしょ。私の輝かしき青春の1ページのためにぃ!」

「はいはい、主にそれだよ」


 何も返ってこないので顔を上げると、時雨は脈略なく窓の外の残光を浴びてたそがれていた。


「おーい、どうだった、和南城先輩は見返せたー?」

「んあー?微妙だよ、ここで勝ったと思ったら、それで終わりだし。というか打ち上げどうなるんだろう、主催者不在……」

「主催者も私が代役したら、さすがに刺されそうだな……」

「先にミヤコワスレに行っとけばいっかー。ほい、嘉琳」


 時雨は偉そうに肘を回して、私に手を差し伸べた。ホワイトサンズのように色白で、猫のように小さいその手は、それからは想像できないほど性悪な人の手。いいや、自力で立ち上がろう。私は自分の手を床についた。


「自分で立てるので」

「はぁーっ!?ひどいー、性格悪いーっ」

「さーて、振替休日何しようかなぁ。世間様は平日だし」

「そうですか、無視ですか。何も仕込んでないのに」

「私が仕掛けたくなっちゃうから」

「あぁ……、迂闊だった」


 この笑顔、いつまでも曇らせたくないと強く願えた。こんな友情はいつぶりだろうか。

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