大正モダンエクスプレス
「遅い、ナポリでも行ってきたの?じゃあバナナ食って死ぬ?」
「できるなら苦しまずに死にたい。即身仏とか、一介の女子には無理です」
「何の話?拝みたいならあるよ、ここに」
茶番にようやく終止符が打たれたので、体育館の舞台袖に入ると、天稲は前のバンドの救援を、桜歌は変わらず本を読んでいた。一方、颯理は大道具の上で坐禅を組んでいた。
「まあ、古来より伝わる、気持ちの落ち着け方だからいいんじゃない。どんなおまじないよりも効果あるよ」
「えー、でも危ないよ。大道具って人が乗っかることを考慮して作成されてるわけじゃないんだし、崩れたらどうするのさー」
「つついてみたら?」
「えっ、それで死んでることが発覚したら、どうするの?」
「死んでるという事実は変化しないんだよなぁ」
私は無警戒に人差し指を、颯理の頬にうずめた。颯理は甲高いかすれ声を上げて、背筋を伸ばしたまま前に倒れそうになる。しかし、横にいた嘉琳より早く、高速で飛翔体が接近し、颯理を抱きかかえた。後に残るのは耳をつんざくハウリングの音。そしてステージから聞こえる演奏も、ことごとく消えてしまった。
「天稲ちゃん!?」
ステージではギタリストが演奏を止めて、天稲の名前をマイクに乗せている。私は零れ落ちる颯理を、演奏中にもかかわらず、飛んで受け止めた天稲に、あっけを取られるしかなかった。
「おー、お手柄だー」
「よく鼻の利くヨークシャープディングね」
「おいしそう、だが彼女は稲だ」
「どっちもイネ科だし問題ない」
「ごっごめんなさい……」
「入滅ですか!まだ17時だというのに、早いですね!」
「天稲ちゃんの生活サイクルには入滅時間があるの?」
颯理は天稲の腕の中で、ゆっくり目を開いた。不思議なことに、予断を許さない状態なので、脇に置いてあったウーファーに座らせ、演劇部が残した小道具のレイピアを握らせた。
「ちょっ、天稲ちゃん!早く戻ってきてー」
「その前に、私は配線をずたずたに切り刻んだので、すぐには演奏を再開できませんよ!」
「おいーっ、天稲ちゃん、何してくれてるの、ただでさえ活動費を他の部からくすねてるのに。前準備なしラパス旅行で高山病になってもらうよ!」
「あーあー、高いのにぃ、でもしょうがないよぉー、誰しもやってしまうことだからぁー」
「なんで常葉も来たのっ?常葉が触ると余計に……やめて!これ以上、被害を拡大させないでよ!お客さんも、常葉になんか言ってやってくださいっ!」
「うぅーん?天稲ちゃん、靴脱げてるよぉー」
ステージに戻った天稲が、剥き出しになった銅線を掲げて見せびらかしていると、蒔希と常葉が慌てて駆けつけ、叱咤激励をしていた。こうして時間が稼がれている間に、颯理には落ち着きを取り戻してもらわねばならない。
「何を、そんな風に優しくしないでください。大丈夫です、胡坐をかいて、心を無にしていたら、きっと今までの苦労が無に帰すようなことは……」
「体調悪い?辞退しても誰も文句言わないから。肩の力抜いて」
「少し緊張してるだけです……、そう少し」
「無理はしないで、万全じゃないと、いいパフォーマンスにならないだろうから」
ここまであからさまに痩せ我慢をされると、こちらがひたすら負い目を感じる。それに、嘉琳だけが腰を下ろして励ましている現状も、私が薄情な人というか、潜在意識でもそう思われそうで嫌なので、ハンカチを取り出し、颯理の額の汗を拭った。
「平気です、リハーサル通りにやれば、みんな笑顔大団円8弾幕アンコールワット……」
「壊れたか、即身仏している頃から兆候はあったけど」
「阿智原さんっ、空気を読んでもらっても」
「時雨、私が重くしすぎた空気を、何とかしようとしてくれたんだから、大目に見てあげなよ」
「わかってないな、この私がかっこいいことを言おうとしてるのに、邪魔するんじゃないっ」
「じゃあほら、かっこいいこと言ってごらんなさいよ」
「えっそうだなぁ……ふん、私としては、その、気負いすぎないでほしいなーっていうか、うん、とにかくがんばろー。終わったら打ち上げだー」
「普通だな、おい。どうしてそんなに普通のことが言えるんだ。その図太い精神力をください」
「そんな……普通でいいんですよ。時雨さんはそう言ってくれますよね」
颯理は顔を上げて、私を浄化するようにささやかに笑った。やはり、私こそ颯理の最大の理解者たりえる。プロシージャーだかプロギャンブラーだか知らないが、楽器を持たずふんぞり返っているだけの人には、到底この境地に辿り着けないのだ。
「くいかけだぁーっ」
「なっ……Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein!」
「おー、きれいなはつおんなのー」
舞台袖なのに、遠慮なく黎夢が桜歌に抱きついた。しかし並みの呪文では、黎夢を引き剥がすことなど不可能、彼女は自由気ままに振る舞った。
「あーっ、これ、れむがわたしたやつー。よんでくれたんだ。むくわれたのー!」
「この本、読み終わったから、暇潰しに見てやるかって思っただけっ。むっむくつけしむくつけし」
桜歌は一つ一つの音に力を込めて、いつもより控えめな抵抗をしている。その歪みきった性格を、叩き戻してくれる何かがあったのだろうか。
ひょっと桜歌のほうに寄って、彼女の手元を確認すると、発声方法とか、いい歌の練習の仕方とかが、まるで黎夢が書いたとは思えない文体で書かれた紙束があった。いつも通り、食い入るように、つまらなそうに読んでいたので気が付かなかった。
「あまりにも役立たなくてびっくり。暇潰しにもならない」
「れんしゅー方法をかいたんだから、れんしゅーする前に読まないと意味ないのー」
この子、とにかく北海道産ミルク一辺倒かと思ったら、塩がひとつまみ入っていたらしい。
「いつ読んでも意味がなかったら、永久保存版の名折れだけど」
「じゃあ作りなおす、ちばにゃんがちょくぜんに見て、『うっひょおー、くれむりんだいすき!』ってなってくれるように」
「無駄だと思わないの?」
「そんなことないのー」
黎夢は桜歌の顎をさっとひとつまみ、彼女と目を合わせた。桜歌はどうしてここまで心を許しているのか。それとも、単に黎夢が鈍すぎて、拒絶されていることにすら気付いていないだけか。
「うっふふー、れむにはわかるよ。わかっちゃうんだぁー」
桜歌はすぐに目をそらして、何度もまばたきをした。そして何かを言い出そうとして、言葉が降りてこなかったのか、唇を固く閉ざした。そう言えば五月雨祭の時も、そういう物憂げな表情をちらつかせていたっけ。だが、孤独である人間は、孤独でなくなればだいたい解決してしまう。私は後ろの颯理と、レイピアを握る手を温める嘉琳を見下ろしていた。
「さっ颯理、いる?マトリョーシカ」
「それわざわざここまで持ち込んでたんだ……」
「れむのまとりょーしかだ!どう、ゆうきもらえた?」
「うーん、颯理に投与して試すか」
「投与って……、治験じゃないんだから」
そう言いながら、嘉琳は黎夢から貰ったマトリョーシカを、レイピアの代わりに、颯理の手の中にゆっくり閉じ込めた。
「ほら元気出せよ」
「無茶苦茶すぎる」
「とても……温かいです……」
「さっきまでポケットに入ってたから、それはそうだろうね」
「貰って……いいんですか?」
「もちろん、人から貰った物を横流しにしてるだけだし」
「なんか、大丈夫な気がしてきました。心配かけてすいません」
颯理はいつもの他人行儀を張って、そして愛おしそうに、手の中のマトリョーシカを眺めた。まあこれで気を紛らわしてくれれば、何とかなるだろうか。
「我々の出番です!掛け声で気合を入れましょう!」
「えっ、そんなものはない」
「なになに~、れむもやるーっ。クレムリンをうちくだけー!」
天稲の無茶ぶりに、黎夢は拳を突き上げて応対した。よし、気合入った、部外者の掛け声で。私は立てかけてある相棒というか手先を、手に取り装着した。
「せっかくだし、時雨も颯理も、オリジナルのを編み出せばいいじゃん。『俺のスラップベースを聞け』みたいな」
「そこは、『俺の大正モダンエクスプレスが爆発炎上』でいいでしょ。何、大正モダンエクスプレスって……」
「なんでや、いい曲名でしょ」
桜歌は抜かりなく自作曲をいじってきた。これだから、これだから桜歌は孤独なんだ。自業自得だ、黎夢の手を煩わせるな。
「できる……私はできる……大丈夫大丈夫大丈夫」
「せいぜんのきおくがあるゾンビみたいなのー」
「おい、ギター忘れてるって、何しに行くんだ!」
颯理は椅子から立ち上がり、寄生虫に操られたかたつむりみたいに、ゆさゆさと手ぶらでステージのほうに向かっていった。天稲が進路と退路両方を塞いだので、何とかギターは持たせることに成功するも、内心気が気でない。何でもない場所で倒れてる三角コーンぐらい、些細なミスで10秒くらい演奏が止まったり、全く違う曲を弾いたり、それでますます動揺して土下座で泣きのもう一回をお願いされたり、後は何だ、とてつもなく滑りこけるMCとか、わかりやすくあそこには黒歴史が待っている。
「ファーストインパクトが大切です、時雨さん!幕が上がったら、コッペリアかラ・シルフィードのどちらか、踊れるほうを踊ってください!」
「人が倒れるぐらいのほうが、よっぽどインパクトがあるよっ。バレエよりも」