*8* 添い寝
漆黒の空。しめやかな上弦の月に、八重桜が寄り添う。
鼓御前にとっては、数百年ぶりに蔵を抜けだし、はじめてむかえる夜だった。
十二畳一間に、敷かれた布団は一組。
絹の寝間着に着替え、あとは床につくだけ。しかし鼓御前は極上の羽毛布団の上へ座り込み、とほうに暮れていた。
「困ったわ……どうしたらいいのかしら」
寝支度の際、「ご用がありましたら、いつでもなんでもお申しつけを!」とひながはりきっていた。
けれど『困ったこと』をつたえたところで、今度はひなを困らせてしまうことになるだろう。
だからこそ、ひとり悶々と頭を悩ませていた鼓御前もついにはたまりかね、腰を上げる。
そろり、そろりと膝立ちで移動し、ふすまのそばまでやってきた。
「あの……もし。おやすみでしょうか? 父さま……」
ひかえめな問いに、返答はない。
しょんぼりと肩を落とした鼓御前が、布団へもどろうとしたときだった。
ふすまがひらかれ、鳶色の髪に紫水晶の瞳をした少年がすがたを現した。
「どうした」
桐弥は紺の寝間着すがただった。
ふいをつかれたこと、申しわけなさも相まって、鼓御前は慌てふためいてしまう。
「あっ、お、起こしてしまいましたか? ごめんなさい、その……」
「眠れないのか」
「うぅ……!」
早々に図星をつかれた。
しまいには羞恥にほほを染め、かかえた枕へ顔をうずめてしまった鼓御前を、思慮深い紫の双眸がとらえる。
「来い」
起伏に乏しい、たったひと言。
だけれど、思いがけないその言葉に、はじかれたかのごとく顔を上げる鼓御前であった。
* * *
人の身を得た刀の付喪神、目覚めたばかりの御刀さまは、神気が不安定だ。
万が一にそなえ手入れ師の覡を控えさせておくことが、『典薬寮』の意向らしかった。
もっとも、その肝心な人材選出を議論する前に、さっさと桐弥が駆けつけたわけなのだが。
「眠れない原因に心当たりは? 神気の異常か」
「それが、よくわからないのです……どこか痛いとか、おかしいところはないように思うのですが……でも」
「でも?」
「なんだか、ここがざわざわして……落ち着かないんです」
そういって自身の胸もとへ手を当てた鼓御前は、ひどく不安げな表情だ。まるで心細くて泣きそうな、幼子のように。
「……なるほどな。こっちで横になれ」
「えっ、原因がおわかりになったのですか? それに、そちらは父さまのお布団ではっ!?」
「いいから横になれ」
気後れから後ずさる前に、かかえていた枕を取り上げられてしまう。
じぶんの枕を布団の外へ追いやった桐弥が、かわりに鼓御前の枕を置く。
ここに来い、ということなのだろう。
「失礼、いたします……」
うながされるまま、鼓御前はおずおずと身を横たえる。
枕へ頭をのせると、肩まで布団をかけられた。
そっと天井から視線をはずせば、布団の脇で正座をした桐弥が右手を引くところだった。
「父さまは、おやすみになられないのですか?」
「布団がひとつしかないからな」
「? 枕はふたつ並べられそうですが……?」
きょとんと首をかしげる鼓御前の疑問に、それまでぴくりとも動じなかった桐弥のほほの筋肉が引きつる。
要するに、添い寝をしてほしいということだ。鼓御前にそのつもりがなかったとしても。
鼓御前も戸惑っていた。葵葉や千菊はふれようとしてくるのに、桐弥はまったく逆の反応をするからだ。
現に、ここまで会話を交わしたなかで、桐弥が鼓御前にふれたことは数えるほどしかなかった。
それが無性に、さびしい、と思う。
「ごめんなさい……わたし、人のことはよくわからなくて……『眠る』というのも、赤子でさえできる、当たり前のことだときいています……そんな簡単なこともできずに、幻滅、なされましたよね……」
情けないことだとは思いながら、右手を伸ばし、紺の袖をつかむ。そうしてすがらなければ、心細くて、不安で、さびしくて、どうにかなってしまいそうだった。
じんわりと潤む鼓御前の瞳を目にしたとたん、やかましかった桐弥の鼓動が凪ぐ。思考を鈍らせていた霧が、晴れるようだ。
──この子はただ、だれかにそばにいてほしかっただけなのだ。
思えば当然のことだった。こんなことすらわからずに、と桐弥は胸中で自嘲する。
「子守りは得意じゃない」
「え……」
「……べつに邪険にしているわけではなく、おまえが望むようなことはしてやれないかもしれない、という意味だ」
前世でも人付き合いは不得手だった。どうにもじぶんは、言わんでもいいことまで言ってしまう性分らしい。他人のこころがわからなかった。
必然として『九条紫榮』は妻をむかえることはなく、子ももうけなかった。だが。
「いいんです。わたしは、父さまがいらっしゃるだけで、いいんです。だって……ひとりのときよりずっと、あたたかいですもの」
ふれることを躊躇していた桐弥の右手の甲に、華奢な指がふれる。
かと思えば、鼓御前がぐっと上体を起こす。
「……んっ」
吐息が、桐弥のくちびるにふれる。
やわらかいぬくもりだった。花の甘い香りに、鼻腔をくすぐられたような錯覚さえおぼえる。
なにが起きたのか瞬時に理解できなかった桐弥は、しばしまばたきと呼吸の方法を失念した。
「ととさま……ん」
首に細腕がまわされ、甘えた声のあいまに、ちう、ちう、と小鳥がついばむようなふれあいをくちびるに感じる。
桐弥はしばし思考した。口づけをされている。だれに? 鼓御前に。
「なにをしているっ!」
とたん、声を荒らげて引き剥がしにかかった桐弥の剣幕に、鼓御前はわしづかまれた肩をびくつかせる。
「あっ……口づけは、だいすきなかぞくとするものだときいたので、つい……」
「は?」
「あぁでも、葵葉以外とはしないって約束、破ってしまいました……どうしましょう、わたしはいけない姉だわ。でもでも、父さまもわたしのだいじなかぞくですし……」
「あの糞餓鬼が……」
軽くと言わず殺意がわいた。が、涙目でふるえる鼓御前を放りだしてまですることではないので、くびり殺すのはつぎに会ったときだ。
「いいか、よくきけ。おまえはうそを教えられた。『それ』は、かぞくとすることじゃない」
「えぇっ……うそ、だったのですか……!」
「好き合う者どうしがすることではあるが、むやみやたらと、人目もはばからずすることではない。慎みをもて」
「承知いたしました、肝に銘じます。葵葉には、うそをついたお説教をしますね……!」
「わかったならいい。もどれ」
「はい!」
これでひとまずは安心か。桐弥がため息まじりに布団を指させば、元気に返事をした鼓御前がもとの位置にもどり、掛け布団をかぶる。
それからふと、ばつが悪そうに眉を下げた。
「きらいに、なられましたか……? 無知ゆえのご無礼をおゆるしくださいませ、父さま……」
うるうる、と見上げられた桐弥は、今度はべつの意味で頭をかかえる。
「……ばかを言え。おまえは僕の刀だ。子をきらう親があるか」
おのれにとって唯一。
特別な存在になら、たまにはおしゃべりになるのも一興だろう。
これから話すのは、どこにでもあるような寝物語だ。
「九条紫榮は、もういない」
「それはもう、刀をお打ちにならない、ということですか?」
「そうだ。……そもそも僕は、いくさへ行かせるために、刀を打ったんじゃない」
まつげを伏せた桐弥は、鼓御前のほほにかかる黒の艶髪を指先で耳裏へ流した。
「箱入り刀のまま、手放すつもりはなかった……なのにおまえは、ある日突然かどわかされたんだ。磨上げられてしまったおまえは、おぼえていないことだろうがな、天鼓」
おのれはかつて、『天鼓丸』という名だった。
何者かにかどわかされ、磨上げられ、刻まれたその銘をも削られてしまった鼓御前にとって、よく思い出せないおぼろげな記憶。
犯人は蘭雪公ではない。
紫榮が生きていたのは平安の世であり、『鼓御前』のあるじは戦国時代に名をはせた猛将だからだ。
「そしていま、強欲なやからが、懲りずにおまえを我がものにしようとたくらんでいる」
「それは……葵葉のことですか?」
「あの青二才だけで済む話であるものか。立場をわきまえん小僧どもが、また僕からおまえを奪おうとしている。考えただけで虫唾がはしる」
蝶よ花よと愛でていたくせに、あっけなく奪われてしまった滑稽な話。
これはそう、どこにでもいるようなばかな男の物語。だが。
「くり返さない」
ばかげたおとぎ話も、ここまでだ。
「やってやるさ。僕のものを取りもどすためなら、なんだってね」
「父さま……」
するり、と鼓御前のほほをなでた桐弥が、ふいに腰をかがめ、ひたいへくちびるを押し当てた。
「よそ見をするな。思いだせ。おまえは僕のものだ。在るべきところにもどってこい」
くちびるとくちびるをあわせることは、『好き合う者どうしのする行為』である。
それならば桐弥の行動は、この行為には、なんの意味があるのだろう。
(……わからないわ)
けれど不快ではない。むしろ──
「おまえは僕のものだ、天鼓丸──天」
うわ言のようにくり返す桐弥に痛いほど抱きしめられ、いつしか、布団のなかで密着する。
とくとく、と桐弥の胸もとからきこえる心音はすこし駆け足だけれど、不思議と心地よい。
「……『天』は、あなたさまだけのものですわ、父さま」
無意識のうちに鼓御前が言葉をもらすと、からだを絡めとった腕が、ふっと弛緩する。
「……僕が、守る」
そのつぶやきを最後にして、沈黙する桐弥。
動くもののない月夜は相変わらず静かだったけれど、もう心細くはなかった。
だって鼓御前は、もう独りではないのだから。
「だいすきです、父さま」
髪を梳かれるくすぐったさに目を細め、鼓御前は桐弥の胸へすり寄る。
規則正しい心音を間近に感じるうちに、ふわふわとした不思議な感覚になる。
「……すぅ」
ぬくもりにつつまれた鼓御前は、やがて、はるか夢路の彼方へと旅立っていった。