*6* 集結
──何故?
寥々とひろがる漆黒の闇をあおいだ鼓御前は、とうてい理解できなかった。
「ここはどこ? これは何なのですか!」
なにも見えない。なにもつかめない。
ただただ、天地もわからぬどす黒い虚無空間で、鼓御前はもがいていた。
ズブズブ……
からだが沈む。まるで、沼に足をとられたかのよう。
「いやぁ……!」
もがく、もがく。
伸ばした手は、やはりなにもつかめない。
もがくほどに、飲み込まれる。
シュウウ……
さらに酸性の沼気が立ちこめ、容赦なく鼻を刺す。そのせいで呼吸もままならない。
(うっ……なんてにおい……)
ズブリ、ズブリ……
黒い沼は、鼓御前の足を、腿を、腰を、胸を飲み込み、首もとまで迫っていた。
歪に口をあけた沼が華奢な少女のからだを咀嚼し、飲み込まんとする。
その蠢きは、消化液を分泌して蠕動する巨大な胃のごとく。
(もう、だめ……)
もがく気力も尽き、手足が脱力した刹那。
ピチョン──
朝露がしたたり落ちたかのような、ふいの水音。
「え……?」
おぞましい闇を揺らしたそのひとしずくが、波紋をひろげるように漆黒を吹き飛ばす。
一瞬にして白い光につつまれた鼓御前は、あまりのまばゆさに、きつくまぶたをつむるほかなかった。
* * *
覚醒は、突然である。
淡い陽の光にくすぐられたまぶたを、そっともち上げる。
(……あら、わたし、どうして……ここは?)
数度まばたきをした鼓御前は、ぼんやりとしたままきょろりとあたりを見わたす。
たちまち、鮮烈な色彩が目を奪う。
藺草の香る六畳間に、鮮やかな緋毛氈が敷きつめられており。
(どなたか、いらっしゃる……?)
たったひとつ、人影をみとめた。
人の言葉であらわすならば、少年だ。
さらりと清潔感のある、鳶色の髪。
白衣の袖は、差袴とおなじ今紫の紐でたすき掛けに。
緋色の絨毯の上で正座をした少年がしゃんと背筋をただして向き合うは、ひと振りの刃だ。
(あぁ、あれは……あの刀は、わたしだわ)
目釘をはずされ、柄からも抜かれた黒い刃。あれはまごうことなく、鼓御前自身であった。
(じぶんをながめるなんて、変な感じね)
くすりと笑った鼓御前は、緋毛氈の端にちょこんと座り、少年の横顔を見つめる。
和紙をくわえた少年の口は、かたくなに閉ざされ、一切の言葉を発さない。
とんとん、とんとん。
少年はむき出しの刀身を、打粉で軽く叩く。串に刺さった巨大な月見団子のように見える打粉は、白い布製の団子の中に、砥石の粉が詰まっている。
とんとん、とんとん。
鎺もとから鋒へ。
まんべんなく打たれた砥石の粉が、古い油を吸うのだ。
少年は打粉を置くと、手にとったやわらかい布で浮いた油をぬぐう。
(……んっ……)
ぞわり。肌が粟立つ感覚に、鼓御前は身をこわばらせる。
(くすぐった……あっ……)
刀身を滑る布との摩擦が、じんわりとした熱をからだの芯からひろげてゆく。
この感覚を、鼓御前は知っている。
人の身を得たいまだからこそ、口にできる。
(きもちいい……)
風呂場で葵葉にふれられた感覚と、似ている。
あますところなく素肌をくすぐられ、按摩されるあの感覚と。
絶えず与えられる快感に、鼓御前は声を押し殺して身悶える。
粛々と手入れをほどこす少年が、保存のため、丁字油を染み込ませた布を滑らせた。
最後に、唯一素手でふれることのゆるされる茎へ、華奢な指をなでつけて。
(はぁ……)
ため息をもらした鼓御前は、ぶるりと身じろぎ、熱を逃がす。
(わたしったら、きっと顔が赤いわ……)
鏡を見ずともわかるほどに、からだが熱い。
じれったい疼き。けれど不快ではない。いや、むしろ。
少年は手際よく茎を柄にもどし、目釘をさす。
そして白鞘におさめた鼓御前の御神体を緋毛氈へ置いたなら、両手をつき、深々と頭を垂れるのだ。
なにもかもが、夢見心地だった。
気だるくも、心地のいい熱。
衣ずれがあって、少年の視線がつと、横たわったひと振りの刀からはずされる。
「──テンコ」
静寂にひびく声。
鼓御前は、にわかに戦慄した。
いつの間にか、少年が目の前にいる。
視線が、交わっている。
そしてその双眸にやどっている色は、おのれとおなじ紫水晶であった。
そのことに、ようやく気づいた。
「テンコ──天鼓丸」
くり返す少年の色白な指先が、ふいに伸ばされる。
「まったく……どこの馬の骨に、磨上げられたんだ?」
少年がなにを言っているのか、わからない。
わからない、はずなのに。
細い指先がほほにふれたとき、鼓御前は無性に目頭まで熱くなった。
「在るべきところに、もどってこい」
鼓膜をくすぐる静かな声に。
そっと引き寄せる腕の感触に。
ひどく懐かしさをおぼえたのは、何故だろうか。
問いの答えは出ないまま、鼓御前は意識の遠のくからだを、少年へとゆだねるのだった。
* * *
「御刀さま……鼓御前さま!」
号を、名を呼ばれている。
鼓御前がはっと意識を清明に浮かばせたとき、飛び起こした上体を、和服すがたの少女がささえてくれた。
「お目覚めになったのですね、鼓御前さま!」
「……ひなさん?」
ひながいるということは、ここは兎鞠神社にある、自宅を兼ねた社務所の一室なのだろう。
じぶんが先ほどまで横たえられていた羽毛のようにやわらかいものを、鼓御前は知っている。『布団』だ。
実際に使うことになるのは、はじめてだけれど。
「ひなさんがお世話をしてくださったのですね。ありがとうございます」
「めっそうもありません! それが私のお役目ですもの」
「……葵葉は?」
「ご無事でございます。鼓御前さまは〝慰〟を斬られた際、穢れを受けてお倒れになり……お目覚めになられて、ほんとうにようございました!」
「〝慰〟……」
はらりと安堵の涙を流すひなの言葉を、鼓御前はそっとくり返す。
そして右手をこめかみに当て、まだぼんやりとつっかえた思考をめぐらせるうちに、はたと我に返った。
(足の重みが……穢れが、ないわ!)
『不浄のモノ』を斬り伏せた。
そのせいで受けたはずの穢れが、跡形もなく消え去っているのだ。
「〝慰〟の穢れは九条さまが取り除いてくださいましたので、ご心配いりません」
「その九条さん、という方は……?」
「『典薬寮』から派遣された、御手入れ専門の覡さまです。凄腕の手入れ師として有名なんです」
〝慰〟……穢れ、手入れ。
そうだ、思い出した。
たしかに穢れは祓われた。
その代わり、燭台に火を灯すようにあたたかいものが、鼓御前の身を満たしている。
清廉で心地よいこれは。
どこか懐かしい、この霊力は。
(……行かなくては!)
確信に突き動かされた鼓御前のからだは、無意識のうちに布団を跳ねのけていた。
「鼓御前さま! どちらに!?」
おどろくひなの制止も、鼓御前にはきこえていない。
迷うことはない。この身にやどった霊力とおなじひとすじの糸の気配を、たどればいい。
西日が射し込む鶯張りの縁側を、鼓御前は寝間着の袖を振り、裸足で一直線に駆け奏でる。
夕暮れの陽をむかえ入れるかのごとく開放された障子の向こうが、目的地だ。
十二畳の客間に、人影がひとつ、ふたつ。
「姉さま! 起きたのか、もう具合はいいのか!」
「きゃっ……!」
鴨居をくぐるやいなや、どっと衝撃にみまわれる。
鼓御前を姉と呼び、腕いっぱいに抱擁する黒髪の少年といえば、ひとりしかいない。
「見てのとおり、だいじありませんわ。心配をかけましたね、葵葉」
「ホント?」
「えぇ」
「よかった、倒れたときはマジで焦ったよ……そばについていようにも、あの口うるさい世話役の女に部屋を追い出されるわ、面倒な野郎に目ぇつけられるわで、嫌んなるぜ」
黒猫のように鼓御前にすり寄って甘えていた葵葉が一変、ぶつくさと文句を垂れる。
その恨みがましげな常磐色のまなざしが投げやられた先をたどり、鼓御前は紫水晶の双眸を見ひらく。
──少年が。からだつきは葵葉よりもすこし華奢な袴すがたの少年が、そこに在る。両ひざを座布団の上でそろえ、背をしゃんと伸ばして。
「手入れ師だかなんだか知らないけど、俺の姉さまにベタベタさわりやがったんだろ? ムカつく」
なおも不平不満を並べ立てる葵葉の声をどこか遠くに感じながら、鼓御前は息を飲む。
そのときだ。沈黙を貫いていた少年が、おもむろに口をひらく。
「──手前の唾と手垢で御刀さまが汚れたらどう責任を取るつもりだ。その減らず口と節操のない手をいい加減引っ込めろ、くそ坊主」
「なっ……!」
少年の声質は、見目相応に若々しくも、高すぎない。
しかしながら流暢につむがれる辛辣な言葉の数々が、一切の容赦もなく葵葉を射抜く。
「やっとしゃべったと思えば……言ってくれるじゃねぇか……!」
「おやめなさい、葵葉」
ほほをひくつかせた葵葉が一歩を踏みだす前に、鼓御前は抱擁の腕をすり抜ける。そして激高する弟を制した。
「なんでだよ! 姉さまはあんなやつの肩をもつのか!?」
「落ち着きなさい。あの方がだれなのか、おまえはわからないのですね。だからそんなことが言えるのです」
「姉、さま……」
ぴしゃりと言い放つ鼓御前。
人の身として顕現した姉は、おだやかな気質だった。はじめて、叱られた。そのショックに、葵葉は打ちひしがれる。
ひとつ息を吐き出した鼓御前は、意を決して歩を進めた。
近づくほどに、少年の瞳が、おのれとおなじ紫の色彩を秘めていることを思い知らされる。
悠然と葵葉を見据えていた少年だが、鼓御前を瞳にやどした瞬間だった。
氷柱のごとく近寄りがたい気迫をひそめ、畳に両手を伸ばす。
「御刀さまに、ご挨拶申し上げます」
三つ指をついた、最上級の辞儀にちがいなかった。
さらりとした鳶色の髪が、少年の瞳をかくす。にわかに、鼓御前の胸がざわめいた。
「どうか、顔をお上げください」
鼓御前はひざをつき、深々と頭を垂れた少年の手の甲へ指先をふれあわせる。
刹那、熱いものがこみ上げる。からだの奥底にやどったものが、鼓御前のこころに共鳴してやまない。
──嗚呼。やはりこの方を知っていると。
「そのように畏まるのもおやめくださいませ。この鼓御前がおねがい申し上げます──父さま」
……静寂。
どれほどそうしていたろうか。
しばらくして無の空間に衣ずれがひびき、少年が上体を起こした。
「──天鼓丸」
たったひと言。その名を少年が口にしただけで、鼓御前の胸中は言葉で言い表しきれない熱の奔流で満たされゆく。
「その名を知るのは、わが父だけです……お会いしとうございました、父さま……っ!」
手をにぎったなら、もう限界だった。
ひとりでに視界がにじみ、熱いものが鼓御前の両の目からあふれだす。
「どういうことだ……そいつが、ととさま……? 姉さまは、なにを言って……」
いまだ状況をつかめず、困惑する葵葉。
答えたのは、嗚咽をもらす鼓御前の肩に手を添えた、くだんの少年だ。
「三条小鍛冶宗近──三条派が開祖を師とあおぎ、山城伝の流れをくむ無名の刀鍛冶、九条紫榮」
「は……?」
「おまえたちが鼓御前と呼ぶ刀を打った刀工の名だ。そして僕の前世の名でもある」
「おい……冗談はやめろ」
「冗談なもんか。耳をよくかっぽじってきくことだな」
鼓御前の肩を引き寄せた少年は、その胸に少女をもたれさせるや、凛然と告げる。
「今世の名は九条桐弥。僕の刀を汚すやつは、人だろうがあやかしだろうが容赦はしない」
研ぎ澄まされた刃は、ふれるだけで斬れる。
葵葉は鋭利な紫水晶のまなざしに圧倒されたおのれを自覚し、ぎりりとくちびるを噛む。
「ごめんください──おや? みなさんおそろいで」
若い男の声がひびいたのは、そんなときである。
はじかれたようにふり返る葵葉。
眉根を寄せる少年──桐弥。
そして、桐弥に抱かれながらもなんとかふり向き、紫水晶の瞳に丸みをおびさせる鼓御前。
夕焼けに濡れる縁側。そこへ、純白の衣をまとい、物々しい竜頭の面をつけた男がすがたをあらわす。
「ちょうどよかった。お知らせしたいこともありますし、仲良くおしゃべりでもいかがですか?」
おっとりとした声音は、ぴんと張り詰めた空気にあまりにも不釣り合いだ。
しかし鼓御前の胸は、これまでになく高鳴っていた。