*4* 慰
雲行きがあやしい。
瘴気は、北東からただよってくる。
「艮の方角か」
「えぇ、鬼門にあたります。あやかしたちの出入り口ですね」
「見事に人っ子ひとり歩いていないな。すばらしい危機管理能力だことだ」
「──『逢魔の鐘』です」
暗雲の立ちこめる町並みを、鈴蘭型のガス灯の上から鼓御前と葵葉が一望していたときだった。
姉弟がいっせいにふり返ると、そこには人影がひとつ。
浅葱の差袴をはき白衣をまとった少年が、鼓御前らと同様に、ガス灯の上でたたずんでいた。
「三度打ち鳴らされる鐘は、〝慰〟の出現を知らせる警鐘なのです。この鐘の音がきこえたなら、島民はただちに屋内へ避難し、戸締まりをおこなう取り決めとなっております」
年のころは葵葉とおなじ、十五、六歳ほどだろうか。生真面目そうな少年だ。
す……と葵葉が常磐色の瞳を細める。誰何のまなざしを受け、少年は深々と頭を垂れた。
「お初にお目にかかります、鼓御前さま、青葉時雨さま。わたくしは『典薬寮』より派遣されました、莇と申します」
「ふぅん。それも、本名じゃないんだろ?」
「神職ゆえ、真名をさらす行為は禁じられております。平にご容赦を」
「まぁ、賢明な判断だな」
神に真名を明かすことは、命をにぎられることと同義。
霊力をあつかう者ならば、それは常識として骨の髄まで染み込んでいることだろう。
「失礼ですが、『典薬寮』というのは?」
「〝慰〟に対抗するため、霊力者によって組織された特殊機関──これに属し、わたくしのように現場で任務をおこなう者は、覡と呼ばれております」
「さしずめ、武装した神職者ってところか。あやかしとどっちが物騒なんだか」
葵葉がそう揶揄するにいたったのは、莇の腰に提げられたひと振りの短刀が起因している。
「まだ若い……付喪神はやどっていない刀のようですね」
「は。御刀さまと契りを交わすことのできる覡は、限られておりますゆえ」
「とはいえ、寄こされたからには、最低限穢れを祓う霊力は持ってるってことだな」
ともすれば不遜にもきこえかねない言動だ。だが莇は葵葉に気を悪くすることなく、流暢に受け答える。
「お目覚めになられて間もなく、お付きの覡もいらっしゃらない御刀さまに申し上げることではないと、重々承知しておりますが……」
表情を曇らせたのも一瞬のこと。意を決した面持ちの莇が、草履でガス灯を蹴り、鼓御前たちの前へでる。
「ご案内いたします。〝慰〟が確認されたのは、これより三キロメートル先、兎鞠郵便局でございます」
* * *
赤いポストの表面に、べっとりとこびりついた飛沫がある。
莇に続き、鼓御前、葵葉が相次いで上空から着地すれば、ひとけのない駐車場に凄惨な光景がひろがった。
赤黒い飛沫でぬりつぶされたアスファルトの中心に、黒いもやをまとった鳥のようなモノがいる。
「猫をむさぼり喰う雀か。どこかのホラーシーンの冒頭にありそうだな。小説の一篇でも書けそうだ」
むろん、猫より大きなそのずんぐりむっくりが雀のかたちをした異形であることくらい、葵葉も理解しているだろう。
「あれが〝慰〟ですか。なんとおぞましい」
「穢れがあつまってうまれた不浄のモノ。野放しにすれば、人も動物も関係なく、生あるものを襲います」
「やはり、見すごすわけにはまいりませんね」
「的はでかいな。とりあえず、ぶっ飛ばすか」
「お待ちを。ここはわたくしが」
葵葉を制し、歩みでたのは莇だ。
〝慰〟は息絶えた猫の腹を貪るのに夢中で、こちらに気づいてはいない。
莇は格好の機会を見逃さない。腰帯に差した短刀を目にも止まらぬはやさで抜くなり、投げ放つ。
「はっ──『縛』!」
短刀は〝慰〟の脳天に命中。さらにすばやく指を組み、印を結んだ莇が言霊を発すると、閃光が走る。
短刀の柄から伸びた光の縄が、またたく間に〝慰〟を雁字搦めにする。「ヒギィッ!」と悲鳴を上げた巨大な雀は、ころりと後方へ転がった。
「ただ不浄を祓うだけでは、〝慰〟は消滅しません。まず動きを止め、穢れの『核』を──」
印を結んだまま莇が砂利を踏みしめた、そのときだ。
「ギェエエエッ!」
およそ雀とは思えぬ、金属を引っかいたかのごとき叫びがこだまする。
硝子の瓶が割れるような音とともに、〝慰〟を拘束していた光がはじけ飛ぶ。
「なっ──!」
驚愕に目を瞠る莇。その体躯が、まばたきのうちにアスファルトへ叩きつけられる。
〝慰〟の翼が巻き起こした突風の直撃を食らったのだ。
「ぐぁッ!」
「莇さん!」
とっさに受け身を取った莇ではあるが、風に揉まれ、後頭部をしたたかに打ちつけてしまう。
脳震盪にみまわれているのか、苦悶の表情のまま、立ち上がることが叶わない。
「ギィッ! シャアアアッ!!」
莇のこめかみをつたう血のにおいに反応したのだろう。紅にまみれたくちばしを開け、せわしなく翼をばたつかせる〝慰〟の目玉は、左右でちがう方向を向いている。まさに、怪物。
「あいつ、目はよく見えていないんじゃないか。その代わり鼻はきくみたいだ。雀のくせに」
「血に反応するとなれば、負傷した莇さんの身が危険です」
「お荷物だな。実力もわきまえず、しゃしゃり出るからだ」
「葵葉!」
「わかってる。さっさとアレを消せば問題ないだろ。それではともにまいりましょうか。お手をどうぞ、姉さま?」
「もう……」
芝居がかった葵葉の言葉に、多少の不安が尾を引くものの。
やるべきことは、鼓御前もとうに心得ていた。
「心臓のあたりに、もっとも濃い瘴気を感じます。穢れの『核』……あれを断ち切れば、終わります」
「了解」
鼓御前は差しだされた葵葉の手を取る。
(わたしは刀)
何百年もの時をへて人の身を得たとて、その本質は変わらぬ。
歩みでた葵葉が二度腰を折り、二度手のひらを打ち鳴らす。
「諸々の禍事、罪穢を祓え給ひ、清め給え。神ながら守り給い、幸え給え」
清流のごとき祝詞に、鼓御前のこころの波は凪ぐ。
「畏み畏みも白す──鼓御前」
「──是」
己が名を呼ぶ言霊に、応えたなら。
目のくらむような光が、ほとばしる。
やがてまばゆい光が集束したとき、葵葉の右手にひと振りの刀がにぎられていた。
漆黒の刃をもつ、脇差が。