*36* 恋の病
ふわり。ほのかな甘い香りが、鼻腔をくすぐる。
白檀の香り。千菊がそばにいるあかし。
とたんに、鼓御前は頭が真っ白になってしまう。
「……ごめんなさい、あるじさま。離して……いただけませんか」
「……つづ」
「だってわたし……変なかお、してるからっ……!」
「──つづ!」
焦れたような声は、千菊にしてはめずらしいもので。
つかまれた腕を、ぐいと強引に引かれる。
ふり向いた鼓御前は、紫水晶の瞳を限界まで見ひらく。
「おねがいです……逃げないで」
青玉の瞳が、切実に訴えかけてくる。
こんな千菊は、いままで見たことがなかった。
「きみがかわいい反応をするから、つい意地悪をしてしまいました。おとなげなかったですね……ごめんなさい」
「あるじさま……」
「きみに避けられると、堪えるんです……」
ぎゅ……と抱きしめる腕は、ふるえている。かすかだけれど、気のせいではない。
(あるじさまにも、こわいことがあったのね)
これまで平静をよそおっていたが、ほんとうはこの屋敷に来てから──鼓御前を目にしてから、千菊だって気もそぞろだったのかもしれない。
そうとわかると、鼓御前はふっ……と身のこわばりをほどく。
「わたしのほうこそ、ごめんなさい……その、どうしたらいいのか、わからなくて」
けれど、いつまでも逃げているわけにはいかない。
千菊と、向き合わなければならない。いまがそのときなのかもしれない。
「わたしだって、あるじさまのことがだいすきです。おそばにいることが、この上ない幸福でした」
「つづ……」
「でも、最近のわたしはおかしいんです。あるじさまに見つめられるとドキッとして、ふれられると恥ずかしくなって、お顔が見れないんです……」
ひとりでに、言葉がこぼれる。
次から次へとあふれだして、鼓御前はどうすることもできない。
「嫌いじゃないのに、だいすきなのに、逃げだしたくなるなんて……やっぱりおかしいわ。きっと変な病にかかってしまったんです……だからっ!」
離してほしい。千菊まで巻き込むわけにはいかない。そうつたえたかったのに。
「残念でした。手遅れです」
ふふ、と笑みが頭上でもれる。
「あるじさ……きゃっ」
かと思えば、鼓御前の視界が大きくまわる。
次の瞬間には、千菊に抱きすくめられていた。それはもう、きつく、きつく。
「私はもう、きみと同じ病にかかっていますよ。……きみが愛しくて、手放したくなくなる病です」
「……あるじさま、も?」
とくとくとくと、心音がきこえる。
足早な鼓動。ふれた体温も、じんとしみ入るように熱い。
「つづ、私はこの命が尽きるまで、きみとともにありたいのです。きみ以外のだれかはあり得ない。きみだけが、私にとっての特別な存在なんです」
「命尽きるまで、ともにありたい……特別な、存在……」
じぶんだってそうだ。
敬愛するあるじと、ともにありたかった。
(……ううん、それだけじゃないわ)
いまこの身にやどっているのは、単なる尊敬の念だけではない。
──やっぱり、難しいですよね。
ふいに、ひなの言葉が脳裏をよぎる。
──恋って、そういうものなんです。
(……恋)
……そうか。
「あるじさま……わたしは」
だからなのか。
「わたしも、あるじさまといっしょにいたい……離れたくないです」
ようやく、わかった。
「だってわたしも、あるじさまのことが……好きだからっ!」
そばにいることが、しあわせで、ときに切なくて。
けれど、想わずにはいられない。
それが、だれかを恋しく想うこころ。
──恋をするということ。
「ごめんなさい、あるじさま……わたし、なんにもわかっていなくて……」
おのれがどれほど無知だったのか、鼓御前は思い知る。
それゆえ、どれほどの過ちをおかしてきたのかも。
「あるじさまのお気持ちも知らずに、奥方さまを娶ってほしいだなんて、ひどいことを言いました……ごめんなさい……!」
見放されても当然のことだった。
それなのに、千菊は鼓御前を見限ろうとはしなかった。
いつだって、その想いを一心に向けてくれていた。
「謝らないで、つづ」
「……怒ら、ないのですか?」
「怒るものですか」
千菊の腕がほどかれ、ふたたび背にまわる。
今度は、つつみ込むように、やさしく。
「きみにそう言ってもらえたことが、私にとって一番の幸福です。……あぁ、つづ。夢ではないんですね」
「はい……あるじさま」
夢であってたまるものか。
だれかを恋しく想う感情──それを、ようやく知ることができたのだ。
夢物語で、終わらせたくない。
「つづは、立花千菊さまをお慕いしております……っ!」
鼓御前は両腕をひろげ、千菊の首にまわす。
「おいで。かわいい私のつづ」
おだやかな声が、しなやかな腕が、鼓御前のすべてをつつみ込む。
ひとはうれしくても涙があふれるのだと、またひとつ、鼓御前は知った。
* * *
鼓御前は、刀である。
その性質にたがわず、ひとのふところにおさまっていることがすきだった。
とはいえ、それとこれとは話は別。
「あ……あるじさまぁ」
千菊の腕のなかでぬくもりに酔いしれ、しばらく。
遅れてやってきた理性と羞恥心により、鼓御前は別の意味で泣きそうになっていた。
うっかり忘れかけていたが、ここは九条家。
夜分のため屋敷内で出歩く者は見かけないものの、万が一ということもある。
「離してほしいですか? 私はきみを離したくないのですが。さて、困りましたね」
「あるじさま、楽しんでますよね?」
「冗談です。ふふ、そういじけないで」
だれかに見られる前に、とやんわり訴えかけたところ、千菊はするりと腕をほどく。
「名残惜しいですが、このあたりにしておきましょう。きみに嫌われたくはないですし」
鼓御前にはわかる。いまの千菊は、いつにも増して上機嫌だ。こちらの挙動ひとつひとつに、声を出して笑っているのだから。
「ようやく、きみと通じあうことができたんです。有頂天にもなります」
すりすりと、千菊は指先でほほをくすぐってくる。
こそばゆくて、鼓御前は身をよじった。そのささやかな瞬間さえ愛おしげに見つめていた千菊が、両手で鼓御前のほほをつつみ込む。
「このまま連れていってしまいたくなるけれど……今夜はがまん、ですね」
鼓御前のひたいに、そっと口づけを落とす千菊。その表情は、満足げなものだった。
「こんな時間に起きだしてきたということは、どなたかさがしていたのではないですか?」
「わかりますか?」
「えぇ。きみがだれをさがしていたのかも、なんとなく」
さすがというべきか。千菊は多くを問うまでもなく、鼓御前の行動の理由を察していた。
ふと、千菊が青玉の視線を遠くにやる。つられて鼓御前も同じ方角を見やった。
「そういえば。あちらから、鈴の音のようなものが聞こえました。どなたかいらっしゃるのかもしれませんね」
「鈴の音ですか? あちらは──」
──離れの方角だ。
鼓御前は感覚を研ぎ澄ませる。ちょうどたどってきた道をつなぐように、なじみある霊力の痕跡が向こうへ続いているのがわかった。
「それでは、私はここで。おやすみなさい、つづ」
「はい、おやすみなさいませ、あるじさま!」
最後に千菊と別れのあいさつを交わし、鼓御前は寝間着の裾をひるがえした。
* * *
『暮れの鐘』の時刻をすぎた夜間は、外出を許されない。
強力な結界が張りめぐらされた、御三家本家の敷地内をのぞいては。
部屋を抜けだした鼓御前を見咎める者は、だれもいない。
やってきたのは、『映月亭』。
入り口の戸に手をかけ、鼓御前ははたと気づく。
──開いている。
人の気配を、肌で感じる。
(この先に、きっと……!)
確信を胸に、鼓御前は戸を開け放った。
足早に縁側を駆ける。
そして幾許もないうちに、『その光景』を目にする。
──しゃらん。
夜の静寂にころがる、鈴の音。
ふわりとひらめく、白い袖。
三方を湖にかこまれた大広間にて。
鼓御前は、鳶色の髪の少年──桐弥をさがし当てる。
桐弥は白の着流しすがたで、神楽鈴を手にしていた。
鈴の音をひびかせながら、真白い足袋で、すべるように畳の上を移動する。
しゃらん、しゃらん。
白い袖がひらめき、ぽう……と淡い光が灯る。
(まぁ……)
ひとつ、ふたつ、みっつ。
桐弥が神楽鈴を鳴らすたび、その周囲に橙の炎が灯る。
またたく間に、いくつもの淡い炎が、あたりを橙に照らした。
(これが、神楽の舞なのかしら……)
九条家は、火をつかさどる朱雀の加護を受けているという話を思いだす。
(父さまの霊力は、穢れを洗い清めるものだと思っていたけれど……それだけではない)
霊力に属性というものがあるならば、桐弥のそれは水であり、火でもあった。
刀を打つさい、熱した鉄を固めるためには水が必要。それと同じ。
そしてこの瞬間。桐弥の霊力にやどったものは、火の気配を色濃くしていた。
風もないはずなのに、湖がゆらめき、橙の光が水面にきらきらと反射する。
(きれい……だけど)
桐弥が生みだしたのは、燃えさかる炎ではない。
音もなくあたりを照らす、ともしびだ。
そして、鈴を手に舞う桐弥は──
(どこか……悲しそうで、さみしそう)
あまり感情を表に出さない桐弥が、物憂げで、切実な表情をしていて。
なにかに、祈りを捧げているかのようだった。
しゃらん、しゃらん──……
澄んだ鈴の音。夜闇をなでるようにのばされた華奢な指先に、橙の炎がふれる。
それはまるで、蛍がじゃれついているよう。
美しい光景であるはずだ。それなのに、桐弥の舞を目にするほど、鼓御前の胸には悲痛な感覚がつたわってくる。
──どうして、そんなに悲しい顔をしていらっしゃるのですか?
思うがままに問いかけて、そのこころにふれることができたなら、どんなによかったか。
けれど、それは叶わなかった。
「…………くっ」
桐弥の手からすべり落ちる神楽鈴。
ふっ……と闇に消え入る橙の炎。
鼓御前がはっと我に返ったとき、桐弥はその場にくずれ落ちていた。
「父さま……? どうなされました、父さま!」
すぐさま駆け寄るも、横たわった桐弥は返事をしない。
は、は……と苦悶の表情で、呼吸がひどく弱い。虫の息といっても過言ではない。
血の気が引くのを、鼓御前は感じた。
「──失礼」
さぁっ……とそよ風が吹き抜ける。
呆然と固まる鼓御前の視界から、桐弥が消えた。
「陣さま……!」
どこからともなく現れた陣が、桐弥の腕をさらい、抱き起こしたのだ。
そのまま自身の胸にもたれさせた桐弥を、陣は薄墨色の袖でつつみ込む。
「また、無理をなさったのでしょう。霊力を使いすぎてはいけないと、あんなに申しあげたのに」
桐弥は身じろぎひとつしない。気を失っているのだ。
「陣さま、父さまは神楽のお稽古をなさっていたのですよね? でも、急に倒れられるなんて……やっぱり、まだ本調子ではなかったのでは」
突然のことで、鼓御前はいまだに戸惑いをかくせない。
そんな鼓御前へ、陣は静かにかぶりをふってみせた。
「いいえ。そんな単純なお話ではありません」
「……え?」
「鼓御前さまがいましがたごらんになったのは、若さまの命のともしびです」
「それは、どういう……」
「旦那さまは察しがよろしい。そうです、この方は生き急いでいる。……わたしがどんなに止めても」
陣がなにを言っているのか、鼓御前はみじんも理解ができない。
とても、たいせつなことを言っている。それだけはわかるのに。
「……お部屋にもどりましょう、鼓御前さま」
息の詰まるような沈黙ののち。絞りだすように告げた陣は、そのまま桐弥を抱きあげる。
陣はもう、なにも語らない。哀愁をおびた背を目にして、鼓御前も口をつぐむ。
いまはなにも問うべきではない、そう悟ったから。
無言で連れ立ち、やがて客間へもどってくる。
「父さま……」
桐弥は陣によって布団へ横たえられた。鼓御前も同じ布団に入り、寄り添う。
桐弥の胸に顔をうずめ、規則正しい心音を聞いて、ようやく安堵した。
「明日になったら……話していただけますか? 父さまが、抱え込んでいることを」
ぎゅ、と桐弥にしがみつき、鼓御前はまぶたを閉じる。
そうあってほしいと、切に祈りながら。




