*31* 看病
寮の部屋で、桐弥は荷づくりをしていた。
とはいえ、用意するのは着替えくらい。しかも明日からしばらくは制服も必要ない。
外すことのできないものといえば、仕事道具の入った鞄だけだ。
……かたり。
物音が聞こえた気がして、桐弥は黙々と動かしていた手もとから視線をあげる。
こんなところをたずねてくる物好きは、そう多くない。
「……風汰?」
無意識のうちに口からこぼれた声は、かすれていた。
桐弥はぼんやりと室内を見まわし、信じられないものを目にする。
「お邪魔するわね──ってなにしてんのよ、九条ちゃん!」
虎尾だ。そう認識すると同時に、桐弥は眉間にしわを寄せる。
そうだった。彼はこの部屋の合鍵を持っているのだった。
「……またあんたか。見てわかると思うが、僕はいま忙しい。帰ってくれ」
「聞こえませーん。お布団敷くから、はい、横になる! あなた病人なのよ!?」
不機嫌な桐弥に冷たくあしらわれても、虎尾は動じない。それどころかさっさと部屋に上がりこみ、押し入れから布団を引っ張りだす。手慣れたものだ。
そこまではまぁよかった。問題はここからだ。
「父さま、近ごろ調子をくずされているとお聞きしました。お加減はいかがでしょうか……?」
「…………は?」
聞いてはいけない声を聞いた。ここにいるはずのない少女のものだ。
だが腰に手を当てて指図してくる虎尾の背から、ひょっこり顔を見せた少女は、見間違いようもなく。
「天……なんでここに」
そう、鼓御前だった。
うろたえたのも一瞬のこと。すぐに動揺をため息に変えた桐弥は、じとりと虎尾をにらみつける。
「余計なことをしてくれたな」
「知らないうちにオトーサマが無茶してぽっくり逝っちゃったら、それこそつづちゃんが可哀想でしょうが」
「僕はそんなに貧弱じゃない」
「だったらそのしつこい風邪、さっさと治したらどう? まったく……」
ひとしきり桐弥と舌戦をくり広げた虎尾は、らちが明かないと踏んだのだろう。
「ウダウダ言ってる子は、アタシ直々に寝かしつけてあげようじゃないの──」
そうして、虎尾が不敵な笑みを浮かべた直後だった。
「──ふっ!」
どす、と鈍い音がひびく。虎尾のこぶしが、桐弥の鳩尾に容赦なく叩き込まれたのだ。
かくりと、桐弥がひざからくずれ落ちる。
「造作もないわね」
「えっ……あら?」
いま、とんでもないことが起きた気がする。
なにが起こったのか、遅れて理解した鼓御前は……
「は、花ちゃんおねぇさまーっ!?」
当然ながら、あたり一帯に悲鳴をひびきわたらせたのであった。
* * *
桐弥が体調をくずしたらしい。
そうと聞いた鼓御前は、虎尾とともに桐弥のもとへ駆けつけた。
「このあいだ、九条ちゃんがあおちゃんと莇ちゃんをボコボコにした日があったでしょ。あのときから調子が悪かったのよ」
桐弥を物理的に布団へ寝かしつけた虎尾が、脇で正座をした鼓御前をふり返る。
「九条ちゃんの機嫌がすこぶる悪いときは、体調をくずしてるときだからね」と付け足しながら。
「そうすると、もう一週間はたちますね……父さまのお加減、そんなにかんばしくないのでしょうか?」
「風邪自体はたいしたことないわよ。いつものことだし」
「いつものこと……?」
「九条ちゃんね、生まれつきからだが弱いのよ。この子ったら全然顔に出さないから、わかりづらいでしょう。いまはマシになったほうね。むかしはしょっちゅう寝込んでたもの」
そういえば。鼓御前も気になっていたことがある。
桐弥は一匹狼気質で、あまり他人を寄せつけようとしない。クラスメイトも話しかけるのをためらうほどだ。
だが、虎尾だけはちがった。桐弥相手にも遠慮なく接している。そしてなにより、ほかのだれも気づかない細かなことまで、桐弥を気遣っていることが見て取れた。
「花ちゃんおねぇさまは、父さまと長いお付き合いなのですか?」
単に教師と生徒というだけの関係ではない。鼓御前の認識は、間違っていなかったようで。
桐弥に布団をかけた虎尾が、ふと唐茶色の視線を伏せた。
「そうねぇ。前に、アタシのお家事情は話したでしょう」
「えぇ。鞘師の家系のご出身だとか」
「刀を打つ刀匠はもちろん、鞘師、研師、彫師、白銀師、塗師、柄巻師、金工師、鍔工師……日本刀の作刀にかかわる職人は大勢いるの。そのすべてをまとめているのが、九条家よ」
創造と保存の九条家。
御三家のうち、九条家がそう呼ばれていることは、虎尾にも教えてもらった。
「なかでもウチは九条家と親交が深くてね。まだ幼い次期当主サマ──この子のお世話係に、アタシが任命されたってわけ」
「お世話をなさっていたから、花ちゃんおねぇさまは父さまについてお詳しいのですね」
「そういうこと。つづちゃんにとっての、ひなちゃんみたいなものよ」
それは、ここ二、三年のお話ではないだろう。
教師である以前に、虎尾は桐弥の付き人だった。
桐弥が幼いころから、その成長を見守ってきたのだ。
「まぁ最初は、肝心のこの子が煙たがってお世話させてくれなかったけどね。敬われるなんて柄じゃないんですって。ほんと、こどもらしからぬ物言いをする子だったわ」
「そうだったのですね……」
桐弥と虎尾の過去。
それが語られるごとに、ふたりの独特な関係性が鼓御前も腑に落ちた。
布団に横たわる桐弥の頭を虎尾がなでているのも、そうあるべき光景だったのだ。
「つづちゃん、さっき立花センセたちと話してたわね。それなら『奉納祭』のことは聞いたかしら」
「はい。ひとびとのため、覡さまが神楽を舞う特別な日なのでしたよね」
「今年の神楽の舞い手は、九条ちゃんよ」
「まぁ……九条家の方だとはうかがっておりましたが、父さまだったとは」
「九条本家にもどったら、祭りの成功に向けて、この子はじぶんのからだを酷使するでしょうね」
そこまで言われれば、鼓御前も虎尾の言わんとすることを悟る。
「がんばりすぎないでほしい。それをつたえたいだけなの。でも、うまくいかないものね。アタシは、この子の家族でもなんでもないし。……きっと、つづちゃんがそばにいてあげるのが一番なんだと思うわ」
唐茶色の瞳を細め、薄く笑う虎尾。彼にしてはめずらしい、自嘲の笑みだった。
「なぁんて。辛気くさい話になっちゃったわね、気にしないで」
「花ちゃんおねぇさま……」
「あら、アタシとしたことが。飲み物を買ってくるのを忘れてたわ」
打って変わり、虎尾はいつものにこやかな笑みを浮かべると、腰をあげる。そうして向かったさきには、部屋に備えつけの冷蔵庫が。
「どれどれ……あらま、想像以上に空っぽだったわ」
これまた慣れたように、冷蔵庫を確認する虎尾。中には水の入ったペットボトルが一本あるのみ。
「作りおきしておいたごはんは、ちゃんと食べてるわね。えらいじゃない」
桐弥をふり返った虎尾が、満足げに口もとをほころばせる。
「さてと。アタシはちょっと買い出しに行ってくるわ。そのあいだ、九条ちゃんのことを見ててもらえるかしら?」
「もちろんです。おまかせください」
「ありがとう、おねがいね」
そういって玄関のほうへ向かおうとする虎尾だが、ふと足を止める。
「ねぇ、つづちゃん。ウチの寮はふたり部屋なんだけど、九条ちゃんはひとり部屋でね」
「そういえば、葵葉と莇さんは同室ですけれど、どうしてでしょう?」
思いだしたように、虎尾が問いかけてきた言葉。これにはなんの意味があるのだろう。
鼓御前が意図をはかりかねていると、虎尾がくすりと笑みをもらす。
「なぜかというと。九条ちゃん、ここでこっそりお世話してる子がいるみたいでね」
「こっそりお世話……えっと、どなたを、でしょう?」
「狐ちゃんよ」
「狐ちゃん……ですか」
「そう。わんちゃんでも猫ちゃんでもなく、狐ちゃん」
虎尾はふふ、と笑みをこぼし、
「アタシは一度も見たことがないの。もし見かけたら、ラッキーかもね」
そう言い残して、部屋をあとにした。
* * *
虎尾が部屋を出ていってしばらく。
鼓御前は、つきっきりで桐弥の看病をしていた。
先ほど検温をしていた虎尾によると、桐弥の体温は三十八度七分。人の身においては高熱であり、絶対安静が必要な状態らしい。
「熱いわ……」
鼓御前にできることといえば、ひながしてくれたように、濡れたタオルを桐弥のひたいにのせること。
「おつらいですよね……父さまが、はやくおげんきになりますように」
そして、ただひたすらに祈ることだけだ。
神が神頼みだなんて、笑ってしまうけれど。
「……天」
「えっ」
かすれた声で、名を呼ばれる。
はっとした鼓御前が顔を向けると、桐弥がこちらを見上げていた。
「父さま、お目覚めになられたのですか? あ、いけません、まだ寝ていなくては!」
「これくらい……どうってことはない」
鼓御前が押しとどめるも、桐弥は布団から上体を起こしてしまう。
宙をさまよった紫水晶のまなざしが、ぼんやりと鼓御前を映す。
「ひどく、ひさしぶりな気がするな」
「そうですね。近ごろはお会いする機会がなく……二週間ぶりかと」
鼓御前が返すと、桐弥は黙りこんでしまう。
なにを考えているのだろうか。鼓御前がそっと様子をうかがうと、桐弥が静かに口をひらいた。
「……きつね」
「はい?」
「狐と聞いて、なにか思うことはないか」
唐突な問いだった。
狐。たしかに覚えはある。それこそ先ほど虎尾が話題にしていた。
(父さまがおっしゃっているのは、お世話をなさっている狐さんのこと、ですよね……)
それはわかる。けれどその狐がどうしたというのだろう。
桐弥の問いは、まるで。
(まるで、その狐さんとわたしに、なにか関係があるような……)
そう思い至ったとき。ツキンとこめかみが痛み、鼓御前は顔をしかめた。
「うっ……」
「……僕が悪かった。無理に思い出さなくていい」
「おもい、だす……」
「もういい、天」
頭を抱えれば、なだめるように背をさすられる。
ズキズキと、頭痛がする。突然意味がわからない。けれど桐弥の腕のなかで、鼓御前はひとつだけ理解できることがあった。
(わたしは、なにかたいせつなことを、忘れている……?)
それはおそらく、おのれが『鼓御前』と呼ばれるより以前の──
「いまはまだ、いい。いずれ、すべてが明らかになるだろう」
抱きしめる桐弥の腕に、ぐっと力がこもる。
「おまえは……おまえだけは、命を懸けて、僕が守る──天鼓丸」
頭上にこぼれた静かな声音は、まるで子守唄。
一方で、この身をつつむ体温は熱い。焼けるようだ。
灼熱の炎に熱され、鉄槌で打たれる感覚──それなのに、脳裏によぎった『あの日』の光景は、もやがかかったように曖昧で。
「父さま……わたし、は……」
遠のく意識を、鼓御前はつなぎとめることができない。
うわごとのようにつぶやいたのち、少女は父の腕のなかで、意識を落としたのだった。




