*29* 乙女の憂い
真っ赤にはじける花火の風鈴が、軒に吊るされている。
──ちりん。
ときおり庭からそよ風が吹き込むと、澄んだ音色が奏でられる。
「夏ねぇ」
「夏ですねぇ」
目の覚めるような真っ青な空に、入道雲がわき立つ昼下がり。
この日も御刀さまをたずねて、兎鞠神社をおとずれる者がいた。
結論からいう。虎尾である。
よく冷えた麦茶をひとくち飲んだ虎尾は、手にした切子のグラスを座卓に置く。
その拍子に、氷がカランカランと涼しげな音を立てた。
座卓をはさんだ向かいには、白い三角襟に空色のワンピースすがたの鼓御前が座っている。
「アタシがプレゼントしたお洋服、着てくれたのね」
「はい、とっても着心地がいいです。さすが花ちゃんおねぇさまお手製のお洋服ですね!」
「よろこんでくれてうれしいわ。それで、今日はアタシにどんなご用かしら、つづちゃん?」
「えっと……ですね。ちょっと、ご相談がありまして」
御刀さまをたずねる者は数あれど、御刀さまがひとを呼ぶことはめずらしい。さらに「ふたりきりで」という条件つき。
われらが御刀さまに指名されて、よろこばない覡はいない。
「アタシでよければ、なんでも相談に乗るわよ」
虎尾は卓上に頬杖をつき、にっこりと笑みを浮かべる。
するとお茶請けの水ようかんにも一切手をつけていない鼓御前が、うつむきがちに、もじもじと口をひらく。
「ありがとうございます。それではその、早速おたずねしたいのですが……」
「うんうん」
「花ちゃんおねぇさまは、どなたかをすきになったことはありますか? えっと、恋愛的な意味? で!」
──しん。
静まり返った部屋にちりん、と風鈴の音がひびき、鼓御前は我に返る。
なぜか虎尾は、満面の笑みを浮かべたままだった。
「やだ……それ聞いちゃう?」
「はっ、失礼しました! ぶしつけにすきな殿方のことを聞くなんて、厚かまし…………んっ?」
とここで、鼓御前は『そもそもの疑問』に気づく。
(花ちゃんおねぇさまは、男性がお好きなのかしら? いえ、ほんとうは女性がお好きだとか……?)
鼓御前にとって、男性でありながら女性のごとくふるまう虎尾のような人種は、見慣れないもの。いわば未知の生命体だ。
男か女かもさだかではない相手に『恋愛』について質問してしまえば、混乱をきたすのも道理であった。
「そうそう、つづちゃん。せっかくだから、とっておきのものをプレゼントさせてちょうだい」
「えっ? あ、はい」
鼓御前がぐるぐると思考をまとめられずにいると、脈絡もない発言がある。
そうして虎尾が、おもむろにさしだしてきたのは──
「これは、傘ですか?」
「傘は傘でも、日傘ね。最近日射しが強くなってきたでしょ? おひさまの光が強い日に使うのよ」
「そうなんですね。わぁ、かわいらしいです」
虎尾が贈ったのは、白いレースの日傘だ。
縁側のほうへ出て日傘をひらいた鼓御前も、ひと目見て気に入ったらしい。
白と空色。ワンピースとの相性もよく、夏らしい爽やかな色合いだ。
「すてきな贈りものをありがとうございます、花ちゃんおねぇさま!」
くるり。鼓御前がふり返ると、フレア生地の空色の裾がひるがえった。虎尾も満足げにうなずく。
「どういたしまして。あぁそうだわ。その日傘にはもうひとつ画期的な使い方があってね」
「画期的な使い方……ですか?」
「ちょっかいを出してくる野郎をぶん殴るのに使うといいわよ。そうね〜、たとえば立花センセとか?」
「はなはなっ、花ちゃんおねぇさま!」
「あら、カマかけただけだったのに。オンナの勘ってこわいわねぇ」
目に見えて、鼓御前の挙動がおかしくなった。
これを受け、虎尾がため息まじりに顔をしかめる。
「上の空っていうの? 最近のつづちゃん、立花センセの前だとなーんかあたふたしてるのよね。当の立花センセは、ほほ笑ましげにながめてるだけだし。そこまで見れば、だいたいの事情は察するわよ」
「よ、よくごらんになっていますね……」
「要するに、恋がなにかもわかってない純粋無垢な乙女、しかも教え子に手を出したってことでしょ? そんな男はぶん殴ってやりゃいいのよ!」
「あわわ……落ち着いてください、花ちゃんおねぇさまー!」
虎尾、ガチギレ。
あまりの怒り具合に、なだめようとこころみる鼓御前だが、半泣きだ。
「……アタシとしたことが、熱くなっちゃったわ」
麦茶を飲み干した虎尾が、ふー……と息をつく。落ち着きは取りもどしたようだが、不満はおさまらないようで。
「いいこと? だいじなのはつづちゃんの気持ちよ。元主だとか関係ないわ。あなたが嫌なことは、ちゃんと嫌って言わなきゃだめよ!」
男女の恋愛について、鼓御前が相談できる相手はすくない。ひなか、じぶんくらいなものだろう。
ならばじぶんを信頼して相談してくれた鼓御前が傷つかずにいられるように、虎尾は助言をしたかったのだ。
「あるじさまが、嫌なわけではないのです……」
ぽつりと、鼓御前がもらす。
「わたしも、あるじさまがすきです。でも、それはあるじさまがお望みのものとはちがうようでした」
結果、千菊を怒らせてしまった。
どう反応すべきだったのか。
なんと言葉を返せばよかったのか。
あれからずっと、鼓御前は考え続けている。
「『じぶんの感情が、相手とはちがう感情だった』──そう気づけただけでも、よかったんじゃない?」
「……え?」
「つづちゃん、ちょっとそっちに行くわね」
虎尾はそういって腰を上げ、縁側で呆けている鼓御前のもとへやってくる。
そして、鼓御前の手からそっと取りあげた日傘を閉じ──
……ふわり。ほのかな甘い香りが、鼓御前をつつみ込む。
「……花ちゃん、おねぇさま?」
数拍ほど置いて、鼓御前は虎尾に抱きしめられていることを理解した。
「教えて。アタシにふれられるのは、どんな気持ちかしら?」
問う虎尾の声音は、じつにおだやかなものだ。
「そうですね……」
うまく言語化はできない。ただ千菊や葵葉に抱きしめられたときのような感覚とは、すこしちがう。
たとえるとすれば。虎尾の腕につつまれるこの感覚は、桐弥に抱きしめられたときのような『安心感』に似ている。
「花ちゃんおねぇさまに抱きしめられると、ほっとします……まるで、鞘のなかにいるときみたい」
朱色の長羽織を贈られたときもそうだった。
だいじにしたい、守りたいという虎尾の想いが、つたわってくるのだ。
(花ちゃんおねぇさまの霊力は、心地よくて、なんだかなつかしいわ……どうしてかしら)
このまま身をあずけてもかまわないという、絶対的な安心感がある。
ほう……と感嘆をもらして、虎尾にもたれかかる鼓御前。その頭上で、息をのむ気配があった。
「……うれしいことを、言ってくれるわね」
思わず見上げたさきで、虎尾はほほ笑んでいた。その唐茶色の瞳がわずかにゆらいで見えたのは、気のせいだろうか。
「ね、つづちゃん。鈍感なひとはね、いつまでたってもひとの気持ちに気づかないのよ。だから、立花センセの気持ちとじぶんの気持ちはちがう、そう気づけただけで、あなたはすごいの」
「そうでしょうか……?」
「そうよ。ちゃんと前に進めてる。自信をもって」
さらさらと、髪を梳かれる感触がある。虎尾に頭をなでられる感触だ。
そのあまりの心地よさに、鼓御前はまぶたを閉じて感じ入る。
「そういえば。つづちゃんからの質問に答えてなかったわね」
さらり、さらり。鼓御前の頭をなでながら、虎尾がつぶやく。
「アタシがだれかを好きになったことがあるかって話。答えは、『はい』よ。アタシには、とても手の届かないひとだったけどね」
「花ちゃんおねぇさまには、手の届かないひと……?」
「えぇ。……とても、やさしいひとだったわ。泣きたくなるくらい」
虎尾のいう人物がだれなのか、鼓御前に知るすべはないけれど。ひとつだけ。
「花ちゃんおねぇさまは、いまもその方のことを──」
確信を胸に、鼓御前は口をひらく。
だが、その言葉が最後までつむがれることはない。
「──あなたたち! どうしたんですか、その怪我は!」
どこからともなく聞こえてきた、ひなの声にかき消されて。
* * *
急いで部屋を飛び出す鼓御前。
すぐに、居間であわただしく動き回るひなのすがたを見つけた。
「ここに座りなさい」
「姉上、ただのかすり傷ですから、ご心配は……」
「動かない!」
「はいっ!」
居間には、莇がいた。全身にすり傷や打撲痕をこさえており、その手当てにひなが奔走していたのだ。
「これはいったい……?」
「九条センパイにやられたんだよ」
「えっ……葵葉!?」
神社をおとずれたのは、莇だけではなかった。
莇同様ぼろぼろの葵葉が座布団の上であぐらをかき、ふてくされている。
「葵葉。御父さ──九条先輩は、昇級試験をひかえたおれたちの特訓に、わざわざ時間を割いてくださったんだぞ」
「聞こえはいいけどよ、結局は俺らがサンドバッグにされただけじゃん。あのひとどんだけ虫の居所が悪かったんだよ。てか、手入れ師のくせに殺意高すぎじゃねぇか?」
「父さまが、葵葉と莇さんを……?」
葵葉と莇の話を総合すると、ふたりをボコボコにしたのは桐弥らしい。特訓の一環らしいが、たしかにそれにしては痛々しすぎる。
莇の手当てはひながしているので、鼓御前は葵葉の手当てをすることに。
そうこうしていると、遅れて虎尾がやってくる。
「あらあら。ウチの九条ちゃんがごめんなさいねぇ」
「ぜんっぜん悪気が感じられないんだけど。つーか容赦なくぶん殴るわ、投げ飛ばすわ、あのひとホントに手入れ師か!?」
「そうはいってもねぇ。手入れ師以前に、一級の覡だし。もしかしてあおちゃん、覡の昇級条件を忘れちゃったのかしら?」
わざとらしい虎尾の発言に、葵葉がぐっと口をつぐむ。
むろん、忘れるはずなどない。脇差をあつかうことのできる二級の覡となるためには、〝慰〟の討伐実績が必要。
ちなみに葵葉がぶつくさ文句を言っている桐弥は、それより上、一級の覡だ。
「九条ちゃんが二級に上がるときの話、教えてあげましょうか。あの子、刀を使いたがらなかったのよ。いま思えば、つづちゃん以外の刀をにぎりたくなかったのかもね」
「それなのに、九条先輩はどうやって昇級を……?」
「知りたい? あの子ね、刀を打つ大槌で〝慰〟をぶっ飛ばしたのよ」
「はっ……?」
「かわいい顔して、やることが豪快よねぇ!」
虎尾が高らかに笑い声をひびかせる一方で、莇の顔が青ざめる。
葵葉にいたっては「聞かなきゃよかった……」と頭をかかえていた。
「裏方だからって舐めてたら、痛い目見るわよ」
桐弥が手入れ師であるように、虎尾も鞘師だ。そうした肩書きがあるというだけで、一級の階級をもつ覡。
それは、数々の死線をくぐり抜けてきたあかしである。
「そんなわけで。今後の教訓にしてちょうだい──ぼうやたち?」
凄みのある虎尾の笑みを前に、少年たちは圧倒されるほかなかった。
「ま、タイミングが悪かったのは事実ね。九条ちゃん、いまはすこぶるご機嫌ナナメみたいだから」
肩をすくめた虎尾が、鴨居をくぐる。
それから葵葉、莇の順に、頭をひとなでした。
「あれ……?」
「なんだ……?」
異変は、すぐにおとずれる。
葵葉と莇を苦しめていた痛みが、すぅっと消え去ったのだ。
ひな、そして鼓御前も絶句する。
虎尾がふれたとたん、淡い光とともに少年たちの傷が完治したのは、見間違いではない。
(すごい治癒能力……人の身でここまでの霊力をお持ちの方は、いらっしゃらないのでは?)
手入れ師しかり、覡が癒やしの力を発揮するのは、御刀さまに対してのみだ。
ひとがひとの傷を癒やすことはできない。霊力とは、そういうものであったはずだが。
「アタシのことが気になる? ふふ、残念」
肝心の虎尾は、口もとに人さし指を添え、「ヒ・ミ・ツ」と笑むだけ。
「さーて。お待ちかねのぼうやたちも来たことだし、お仕事しましょうかねぇ」
この場にいる全員の注目を受けながら、虎尾はまばゆい笑みで、こんなことをのたまうのだった。
「それじゃあ、そのボロッボロの服を脱ぎましょうか、莇ちゃん!」
「…………はい?」




