幕間 狐の恩返し
いまはむかし。
これは京のみやこをさわがせた、一匹の狐のおはなし。
狐は人に化け悪事をはたらくゆえ、ひとびとを困らせておった。
ある日のこと。たまりかねたひとびとが、みなで狐を退治することにした。
狐は命からがら、京のみやこをはずれた山奥へ逃げてゆく。
それから、狐を見た者はいなかったという。
京のみやこに平和がおとずれ、ひとびとはたいそうよろこんだそうな。
めでたし、めでたし。
* * *
ざくざくと、落ち葉をふみしめる音がする。
だれかの足音が、近づく音だ。
「こんなところでなにしてる、ちび」
ひとの声がして、狐は重いまぶたをこじあける。
とたん、鮮烈なくれないの色が一面にひろがった。
──紅葉だ。燃えるような色に染まった葉が、視界を埋めつくしている。
くれないの落ち葉にまみれ、横たわる狐。それを、ひとりの男が見下ろしていた。
──あぁ、人間だ。
狐はぼんやりとかすむ茶色の瞳で、男を見上げる。
男も、じっと狐を見つめていた。
全身に殴られ、切りつけられた痕。しっぽの毛はむしられ、泥や苔まみれになった毛並みは、元の色もわからない。
「妖狐が出たと、まちのやつらがさわいでいた」
──ちがう。
畑を荒らしたわけでも、襲いかかったわけでもない。
染まりゆく葉をながめたくて、ちょっと山のなかを歩いていた。ただそれだけのこと。
それなのに執拗に追い回し、痛めつけてきたのは、人間のほうだ。
なぜ、じぶんがこんな目に遭わなければいけない?
狐はふと、人影が近づくのを感じる。
見ればしゃがみこんだ男が、こちらへ手をのばすところだった。
──さわるなッ!
本能だった。狐は男の右手に噛みつく。
牙が食い込んだ親指の付け根から、たらりと生温かい血がしたたる。
が、狐はそこで異変に気づく。
静かなのだ。噛みつかれたというのに、男はふり払うわけでも、怒号を飛ばすわけでもない。
「僕はお人好しじゃない」
唐突に、男が口をひらく。
その意味を、狐はすぐには理解できない。
「死にたいやつは好きにすればいい。おまえみたいなちびが行き倒れていたところで、僕も気にしない」
「ただ」と一度言葉を切った男が、数拍をおいて狐を見つめ返す。
「こうして悪あがきをするくらいには、おまえも世の理不尽に腹を立てているんだろう」
──虚を、衝かれたようだった。
こんなちっぽけな動物にも、こころがある。
そうして狐という存在を尊重していなければ、口から出るはずのない言葉だ。
「生きたいんだろう」
その言葉を耳にして、そうか、と狐は腑に落ちる。
じぶんは生きたかったのだ。
あきらめたくなんて、なかった。
「おい、そこの」
「──!」
ふいに野太い声がひびき、狐は戦慄した。
あれは、じぶんを追い回していた百姓のもの。もう追いつかれたのか。
「このへんで、妖狐を見なかったか?」
狐がぴしりと身をこわばらせていると、突然首根っこを引っつかまれる。
おどろく狐を、男は自身のふところにつっこんだ。それからふり返らないまま、百姓へぶっきらぼうに言い放った。
「そんなもん見てない。妖狐だって? あんた、まぼろしでも見たんじゃないか」
「なっ……!」
「仕事があるんでな。失礼する」
言うやいなや、男は颯爽とその場を去る。
着物の袖で覆いかくした狐を、ふところにかかえたまま。
ほどなくして、男は山小屋にやってきた。
慣れたように戸口をあけて棚をあさっているところを見れば、男が住んでいる場所だということはすぐにわかった。
「じっとしてろ」
男はまず、汲んできた井戸水で狐の汚れを洗いながした。
次に薬草をすりつぶし、特製の軟膏を傷口に塗る。
無愛想な態度とは裏腹に、狐の手当てをする手つきはやさしいものだった。
傷の手当てが終わるころには、日が暮れていた。
ぱちぱちと爆ぜる囲炉裏の火を見つめながら、男が口をひらく。
「ひとってのは、つらいことをなにかのせいにしようとする。それは、こころが弱いからだ」
「……?」
「要するに。このところの飢饉も、災害も、おまえのせいじゃないってことだ」
「──!」
「こんな小狐が、ほいほい天変地異を起こせるもんか。阿呆どもめ」
なぜ、じぶんがこんな理不尽な目に遭わなければならないのか。
狐を苦しめていたその原因を、男は的確に見きわめ、そして一蹴した。
──どうして。
とたんに、狐の胸にあふれる感情がある。
──どうしてこのひとは、わたしにやさしくしてくれるのだろう。
ここまでくれば、彼がいままで目にした人間とちがうことは、明確だった。
「おまえ、刀は知ってるか」
唐突な言葉は、相も変わらず。
けれど狐は、茶色の瞳で男を見上げる。
たしかな意思をもって、その言葉に耳をかたむける。
「僕は刀を打つ刀鍛冶だ。といっても、兄弟子にも厄介者あつかいをされている嫌われ者だがな」
男の声に抑揚はない。淡々とつぶやきながら、かたわらの石ころを手にとる。
いや。石ころなんかじゃない。
あれは、原石だ。彼の手が、あの原石から鋼の刃をつくりだすのだ。
それはきっと、うつくしいものなのだろう。
彼のこころのように。
──見てみたいな。
狐の茶色の瞳が、きらきらとかがやきをおびる。
「おまえをひろったのは僕のきまぐれだ。あとはどこへでも行くなり、好きに──」
と言いかけて、男は途中で口をつぐむ。
「──なんだ、その顔は」
そして、怪訝そうに眉を寄せた。
瞳をかがやかせ、ぶんぶんとしっぽを振る狐に、どう反応をすればいいのか困っているようで。
──どこへなりとも、行くがいい。
この日、告げられるはずだった言葉をよそに、狐は男のもとに入り浸るようになった。
そのうちに、男が紫榮と名乗っていることを知った。
山小屋でひとりきり。黙々と仕事をする紫榮の背中を見つめながら、狐はずっと考えていた。
──わたしはあなたに、いつか恩返しがしたいのです、と。
ずっと……ずっと考えていた。
「僕みたいなやつのところに押しかけてくるなんて。おまえも物好きだな、風汰」
そう、ずっと考えていた。
千年ぶりに彼の魂とふたたびめぐりあえたいまも、ずっとずっと、考え続けている。
たとえ彼の記憶が欠け落ちていたとしても、狐は──風汰は、考えることをやめないだろう。
──紫榮さま。わたしは、あなたを……
ありし日の面影をやどす少年に寄り添いながら、風汰は今日も考えていた。
狐の恩返しだなんて、おとぎ話みたいなことが実現する日を夢見て。




