*2* 目覚め
それは、春先にまでさかのぼる。
「──俺の姉さまだ! 姉さまを返せぇッ!」
つんざくような絶叫が、『少女』の耳に真っ先にきこえたものだった。
「だまれ! 御刀さまをかどわかそうなど、言語道断!」
どうやら目を血走らせ暴れている黒髪の少年を、大の男が四人がかりで押さえ込もうとしているところらしかった。
狭苦しくほこりっぽい蔵で、なにがなんだかわからないが。
「あのう、すこしよろしいですか?」
とりあえず『少女』は、ひざもとに落ちた刀袋と白鞘から視線をあげ、挙手をする。そして。
「暴力はだめでしょう! こらぁーっ!」
どんがらがっしゃん!
『少女』のかん高い声がひびき渡った刹那、青く澄みきった空を引き裂いて、ひとすじの稲妻が蔵に落ちた。
当たり前だが、周辺一帯が一時停電した。
* * *
「御刀さまがお目覚めになったらしいぞ!」
そのしらせは、光のはやさで兎鞠島をかけめぐった。
「『御刀さま』って、わたしのこと?」
「はい。あなたさまこそが、わが兎鞠島で知らぬ者はいない御神刀、鼓御前さまであらせられます」
うす焦げた蔵のある神社の社務所に隣接した住居にて。とある少女がやってきた。きけば宮司の娘だという。
娘は疑問符を浮かべたまま首がもとの位置にもどらない鼓御前へ、愛嬌のある笑みを炸裂させる。
「御刀さまのお世話をおおせつかりました、ひなと申します。なんなりとお申しつけくださいませ」
「そうなのですか。ありがとう。ところで、ひなさん」
「どうかなさいましたか? 御刀さま」
「わたしはどうして、追いはぎにあっているのでしょうか?」
「お風呂の時間だから、ですね」
「やーめーてーっ!」
ひなは萌黄色の単衣に、たすきがけをしている。
それもやたらはりきった面持ちでにじり寄ってくるので、鼓御前の不安は的中した。
「御刀さまは何百年も蔵のなかにいらしたんです。お風呂で気持ちよくさっぱりして、お召しかえをしないと」
「『おふろ』って湯浴みのことですよね? だめです、お湯なんかに長時間浸かったら、錆びてしまいます!」
「あっ、いけません、御刀さま!」
「ごめんなさいっ!」
本能だった。鼓御前はひなをかわし、脱兎のごとく脱衣所をあとにする。
「っとと! むずかしいんですね、走るのって!」
どうも足がもつれてしまう。なんとか持ち直した鼓御前は、左右の足で交互に駆ける。
縁側を疾走すれば、やがて庭が見えてきた。
(外だわ!)
鼓御前は裸足であることもわすれ、たんっとふみきる。
そこに、人影があったことにも気づかずに。
「……姉さま?」
「えっ?」
人は急には止まれない。人の身に慣れていない鼓御前なら、なおさら。
「わぁあごめんなさい、よけてくださぁいっ!」
鼓御前はなすすべもなく、迫りくる衝撃を覚悟した。しかし。
「姉さまは元気だな」
ふわり。浮いたような感覚がある。
次いで、鼓御前の頭上からくすりと笑い声がきこえた。
宙に投げだしたはずのからだが、抱きとめられていた。
鼓御前を抱きとめたのは、頭ひとつ分は背丈のちがう黒髪の少年だった。
(彼は、蔵にいた……)
間違いない。『鼓御前の御神体』を蔵から持ちだそうとして、神社の男衆に取り押さえられていた少年だ。
(わたしを、姉と呼んでいる……?)
鼓御前は、刀だ。
永い年月をへて物に魂がやどった、付喪神なのだ。
少女の外見は仮のすがたであって、本来は鋼の塊。少年のような人間と、血のつながりなどあるはずもない。
「……俺のことがわからないのか? ずっといっしょにいたじゃないか、姉さま……」
知っているはずなど、なかったのに。
少年が常磐色の瞳──木もれ陽のようなそのまなざしに翳りをみせたとき、鼓御前の脳裏に記憶がよみがえる。
「木もれ陽、木の葉……おまえはもしや、あおばですか? ともにいくさ場をかけ抜けた、青葉時雨ですか……!?」
「あぁそうさ! こんなすがたになってしまったけど、俺もかつては刀だった……あなたの弟、青葉なんだ!」
少年は常磐色の瞳を、歓喜に潤ませる。
その熱い抱擁を、鼓御前は拒否などできるはずもなかった。
「あるじさまは? わたしたちのあるじさまは、どうなされたの?」
「……知らない」
「知らない……?」
「姉さまとも、あるじとも離ればなれになってから、なにも知らない。刀の俺は、折れてしまったから」
「なんてこと……」
刀にとって『折れる』とは、人でいう死に相当する。
「でも、付喪神としての記憶と魂までは消滅しなかった。輪廻の果てに、人の身に生まれ変わったんだ」
「そうだったのですね……わたしが不在のあいだ、たいへんな思いをしてきたことでしょう」
鼓御前はそっと伸ばした手で、青葉のほほをつつみ込む。
青葉のほほには、すり傷や打撲の痕があった。
蔵での騒動でこさえたものだろう。
「ううん、こんなのどうってことない。姉さまがすべて。俺には姉さまがいてくれたら、それでいいんだ」
「青葉……!」
なんと一途で、健気な子だろうか。
感極まった鼓御前は両腕を伸ばし、弟の頭をかかえ込むように胸へ引き寄せる。
「いいこ、いいこ……」
そうして細い指先で黒髪を梳いているうちに、青葉も甘えるような声をもらす。
「ねぇ、姉さま」
「なんですか?」
「よりしろ──縁代葵葉。それが、いまの俺の名前。ちゃんと覚えて……ね?」
縁代葵葉。
ゆるく弧を描いたくちびるにつられ、鼓御前もその名をそっと舌先で転がす。
とたん目には見えない糸のような『なにか』が、たちまちにじぶんと彼をつなぐ感覚にみまわれる。
「なんということを!」
ぼうっと夢見心地の鼓御前の意識を、少女の金切り声が引き裂いた。
はっとしてふり返ったなら、縁側にたたずんだひなが、赤と青にめまぐるしく顔色を変えるところだった。
「あなた、神社の者が奥の間にとじ込めたはずなのに、どうやって抜けだして……いえ、それより御刀さまに名を明かすだなんて! 命知らずにもほどがあります!」
「知ってるさ。神に真名をにぎられることのリスクくらい」
なんたって俺も、神だったんだからな──青葉、いや葵葉の言葉は、そう続いたはずだ。
「で、それが? おまえらとなんの関係がある?」
けれど、ひなを一瞥した常磐色の瞳は冷たい。鼓御前に向けられたまなざしとは、まるで別物だった。
「俺の姉さまだ。俺たちの邪魔はゆるさない」
そうだった。『青葉時雨』は、並の武者ならほとんどが扱いづらさを感じ、あるじをえらぶ刀だった。
鼓御前はそう思いだすとともに、苦笑する。
「なんですって……御刀さまの、弟?」
「えぇ。話すと長くなるのですが、この子はわたしの弟で間違いありませんよ、ひなさん」
葵葉が手負いの獣のごとくひなを威嚇するので、鼓御前は背をさすってなだめてやる。
すると葵葉は、ふと鼓御前を見つめた。
「姉さまはなんで慌てていたんだ? こいつから逃げていたのか? ……なにされたんだ?」
最後に発されたひと言の、低いこと低いこと。
葵葉が怒っている。そりゃもう、ものすごく。
「ひなさんは、わたしをお風呂に入れてくれようとしたのですが、わたしが、その……」
鼓御前はもにょもにょ……と、消え入りそうになりながら自白。
するとなぜだろう、般若の形相だった葵葉は、ぱっと笑顔をはじけさせるではないか。
「なんだ、そういうことか。姉さまはおてんばだなぁ。心配しなくても、風呂に入ったくらいで錆びたりしないよ」
「そうなのですか……!?」
「そうだよ。だっていまは、人のすがただろ?」
「うー……!」
それはわかる。たしかにそうではあるのだが、顕現して間もない鼓御前の意識は、やはり刀のまま。
渋る姉を見かねて、葵葉はこう提案する。
「こわいなら、俺が風呂に入れてあげようか」
「ほんとうですか?」
「もちろん。姉さまもそのほうが安心だろ?」
「はい、葵葉におまかせします!」
葵葉はおなじ刀であったし、『人』としての先輩でもある。この子ほど、じぶんの心情を察してくれる存在もないだろう。
要するに、鼓御前は安心しきっていた。なにもかもをゆだねるほど、葵葉を信頼していた。
「そういうわけだ。姉さまの着替えを用意しておけ」
「あなたに指図されるいわれはありませんが!?」
「姉さまは俺をえらんだ。『御刀さまに背くべからず』──わかったら、俺がやることに口出しはするな」
にべもない。
もう一度その胸に姉を抱き直した葵葉は、ひなに有無を言わさず、沓脱石に草履を脱ぎ捨てた。