*24* 刀をふるう者
「……つづ……つづ」
名を呼ばれている。
肩を軽くゆさぶられる感覚で、鼓御前は目を覚ました。
「気がついたようですね」
「あるじ、さま……?」
まぶたをもちあげると、まっさきに竜頭面が目に入る。
鼓御前は千菊の腕のなかにいた。彼に抱き起こされ、ようやく周囲に目を向けることができる。
「ここはいったい……不思議なところに、柱がありますね」
だだっ広い床のど真ん中に、巨大な木製の柱がそびえ立っている。
柱に手をつき、立ちあがる鼓御前。
すぐにはっとした。ちがう、柱ではない。
うんと見上げれば、『それ』が丸椅子の脚であることがわかった。ふゆが店番をするとき、休憩に使っていた椅子だ。
「うそ……」
見わたせば、おはぎをならべていた木製の販売台。
日よけの番傘に、長椅子。
そのすべてに見おぼえがあった。ただし、鼓御前の記憶より何十倍も巨大化していた。
ふゆが営む甘味処の床。そこで鼓御前たちは、小豆大までちいさくなったすがたでたたずんでいたのだ。
「まわりが巨大化したのか、私たちが縮んでしまったのか……どちらにせよ、ふつうではあり得ない空間です」
千菊はしばし思案し、冷静に状況を推測する。
「先ほど濃密な『力』に飲み込まれる感覚がありました。おそらく、桜の精さんが神気を暴走させたもの。ここは、彼がつくりだした『神域』なのかもしれません」
「『神域』……草花にやどる精霊も、付喪神と似たような存在でしょう? 樹齢七十年ほどの桜の木に、これほどまでの『神域』をつくりだす精霊がやどるなんて、信じられませんわ……」
「間違いなく、ふゆさんが関係しているでしょうね」
「ふゆおばあちゃまが……? そうだわ、みなさんはどちらに!?」
千菊と話すうちに、だんだんと直前のことを思いだしてきた。
鼓御前が焦りを見せると、千菊の長い指先が、す……と鼓御前のくちびるに押し当てられる。
「焦りは禁物です。まぁ……のんびりしているひまがないのは、たしかですが」
そういって、千菊がつと視線を逸らす。
「──いやぁあっ! 来ないでぇっ!」
かん高い女の悲鳴がひびく。ゆみのものだ。
純白の裾をひるがえし、千菊が駆けだす。深く考えるまでもなく、鼓御前もそれに続いた。
「何事ですか!?」
悲鳴が聞こえた方角へ駆けつけた鼓御前は、衝撃的な光景を目にする。
破けたストッキングで駆けずりまわるゆみ。そんな彼女を、巨大なハイヒールが執拗に追いかける光景だ。
「なんなのよこれぇっ! ひッ!」
艷やかな革製の黒いハイヒール。それが、意思をもったようにゆみをふみつぶそうとする。
鋭いヒール部分が頭上を捉え、ゆみは転がるようにして避けていた。間一髪だ。
「きゃあっ、まぶしいっ!」
さらにゴロゴロと押し寄せた色とりどりの宝石が、目も眩むほどの輝きを放つ。
あまりのまぶしさに、ゆみがひるむ。
そこへ背後から這いよったネックレスのチェーンが、大蛇のようにまとわりついた。
「もういやぁ! だれか助けてぇ!」
物が、意思をもったようにひとを襲う。
なんという光景なのだろう。
「あるじさま、これは……」
「えぇ。『持ち主への報復』ですね」
ぞんざいにあつかわれ、邪気をため込んだ物は、不吉を呼び寄せるとされる。
「あのアクセサリー類に、付喪神はやどっていません。ですが邪気が具現化し、牙を剥いている」
「まさか、〝慰〟……!?」
〝慰〟とは、穢れが凝り固まったモノだ。
持ち主を恨む持ち物の邪気が、〝慰〟をうんだのだ。
「いたいいたい! 痛いわッ!」
今度は頭上を覆った巨大なざるの網目から、小豆がふり注ぐ。
小豆といえど、そのひと粒は栗よりも大きい。その分重量もある。
にわか雨のごとくふり注ぐ小豆が、バチンバチンッと激しく床をはねた。
そのときだ。鼓御前は見てしまった。
ふっ……と消えたざるの向こうから、ゆみめがけ、巨大な木の棒──すりこぎが落下するのを。
丸太が降ってくるようなものだ。むろん、下敷きになればただではすまない。
しかし、ゆみはネックレスのチェーンに全身を絡めとられている。身動きなどとれない。
「え……」
恐怖に染まった表情で、固まるゆみ。
「あるじさま!」
「任せてください」
千菊はすでに行動していた。すばやく指を組み、印をむすぶ。
「──!」
だが術を発動する寸前で、動きを止める。
ゆみの前へ飛びだす人影を捉えたためだ。
「──『結』!」
巨大なすりこぎが突如軌道を変え、ゴゥン……と轟音をひびかせて床に転がった。
千菊は、いま一度まばたきをする。
ゆみの前へ飛びだした人影は、葵葉だった。
葵葉が頭上高くにかかげる両手のさきには、宙で整然とならぶ何枚もの札がある。淡く発光するその札が、光の壁をつくりだしていた。
「結界の護符をつくるのが上手になりましたね、葵葉」
「はいはい、一般人の安全を最優先にってのは守ったぞ」
「よい判断です。『特別授業』の賜物ですね」
「いいからこのわけわかんない状況、さっさと解決してくんない!? 俺見学なんだろ? モタモタしてたら手ぇ出すぞ!」
「葵葉……あんなに立派な結界術を使えるようになって」
葵葉がふところから護符を取りだす光景を、鼓御前も目にしていた。
千菊との会話からもわかるように、葵葉がゆみを襲う凶器を、結界ではじいたのだ。
「そうですね。きみの言うとおり、私もそろそろ本気をださないと」
口もとに笑みを浮かべた千菊が、組んでいた手をほどく。
「──『滅』」
ぱちん──……
千菊がひとたび指を鳴らすと、ゆみにまとわりついていたチェーンが煙のように消え失せる。
それだけではない。ハイヒールも、宝石も、散乱していた小豆も、すりこぎも、ことごとく消え去ってしまった。
「涼しい顔して一瞬かよ……腹立つな」
ぶつくさと文句を垂れた葵葉は、ため息をひとつ。それから鼓御前と千菊のほうへ歩みよってきた。
「ひとまず片付いたんなら、あのオバサンはほっといていいか?」
「歩けないようですし、そのほうがいいかもしれませんね」
ゆみは放心して腰を抜かしているようだ。この場に邪気はのこっていないから、無理に連れまわす必要もないだろう。
「あの、あるじさま。これからどうなさるおつもりで?」
「ここから出ます。そのためには、この『神域』をつくりだしている大元──桜の精さんと、平和的な話し合いができればよいのですが」
──ヒュオウ!
いつぞやかのように、突風が吹き抜ける。
思わず目をつむった鼓御前が、ゆっくりとまぶたをひらくと──まったく異なる景色がひろがる。
霧雨がふりしきる音。
暗い暗い虚無の空間に、一本の桜の木だけがある。
「……邪魔をするなら、おまえたちも無事ではすまないぞ」
桜の木の前には、青年がたたずむ。
着物の裾と右眼を、黒く染めた青年が。
* * *
「お初にお目にかかります、紫陽さま」
桜の木にやどった精霊、紫陽。
彼を前にして、千菊が深々とこうべを垂れる。
敬意を示す千菊を、紫陽は怪訝そうに見つめる。その腕には、ふゆが抱かれていた。
「ふゆおばあちゃま!」
「いけません、つづ」
ふゆはぐったりとして、意識がない。ただごとではない状況であるはずなのに、鼓御前が駆け寄ることを千菊は許さなかった。
「姉さま、気持ちはわかるけど落ち着け。あの桜の精……やばいぞ」
この場において、葵葉も冷静に状況を把握したらしかった。常磐色の瞳を細めながら、鼓御前をなだめる。
「そういえば、桜の精さんに、黒い煙のようなものがまとわりついて……」
そこまで言葉にして、鼓御前ははっとした。
とたん、冷や汗がふきでる。
予想しうる『最悪の状況』を、理解してしまったために。
「先ほどゆみさんを襲っていたモノが、〝慰〟の本体ではない」
アレは操られていたモノ。
つまり、モノにやどった邪気にはたらきかけた存在がある。
そして、その存在というのは疑いようもなく……
「慰んでしまわれたのですね、紫陽さま」
モノにやどった邪気は、きっかけにすぎない。
しかし自宅にまで押しかけ、口汚くふゆを罵るゆみの『負の感情』にふれ、彼──紫陽は堕ちてしまった。
〝慰〟を取り込み、祟り神になってしまったのだ。
それが、千菊の見解。そして揺るぎない事実だ。
「……ぼくは、いたずらな殺生を好まない。二度とぼくたちに関わらないと誓え」
紫陽の口調は淡々としたものだ。しかし堕ちてなお、鼓御前たちへ慈悲をかけている。
(もしかして、先日の神隠しは……紫陽さまが? ゆみさんたちに対する『警告』だったということ?)
ゆみたちを怖がらせて、追い払おうとしていた。
これ以上ふゆに近づくな。傷つければ容赦はしないと。
(きっと紫陽さまは、とても心根のおやさしい方なんだわ……)
そう理解すると、鼓御前は目頭が熱くなるのを感じた。胸にあふれた切ない気持ちが、苦しい。
「ゆみさんを許していただくことは……」
「できない。その者たちは幾度となく、愚かなふるまいをくり返してきた。何度も何度も何度も……ふゆを傷つけた人間どもを、ぼくはぜったいに許さない!」
ぶわり。紫陽の激昂とともに、濃密な瘴気が爆発的にふくれあがる。
そのとき紫陽の腕に抱かれたふゆが、苦しげにうめいた。
「うっ……!」
「紫陽さま、どうかお鎮まりください! このままではふゆおばあちゃままで瘴気に呑み込まれてしまいます!」
「許さない……ぼくたちを引き離そうとするのなら、おまえたちも許さない……!」
「紫陽さ……!」
「つづ、やめなさい!」
なおも説得しようとする鼓御前の腕を、千菊がつかんで引きとめる。
──ブォンッ!
うしろへかしいだ鼓御前の視界を、なにかがかすめる。艷やかな黒髪のひとふさが、はらりと足もとに落ちた。
「…………え?」
こわごわと、鼓御前は視線をもどす。そして、愕然とした。
「ふゆはぼくのものだ……だれにもわたさない!」
凛と咲きほこっていた桜の木は、見る影もなく。
うねうねとうごめく枝が、先を尖らせ、鼓御前たちを捉えていた。
「完全に堕ちてる。言葉が通じる状態じゃないぞ。どうすんだ?」
身がまえる葵葉。千菊はじっと紫陽の動向を注視したまま、鼓御前へ語りかける。
「つづ、このままではこの場にいる全員の身が危険です。早急に〝慰〟を祓う必要があります」
「できません!」
しかし千菊の言葉に、鼓御前は激しく拒否を示した。
「姉さま、なんでだよ!」
「だって〝慰〟を祓うということは、紫陽さまをも祓うということ……そんなこと、わたしにはできません!」
紫陽は〝慰〟とほぼ同化してしまっている。〝慰〟を祓うことで、ふゆは救えるかもしれない。ふゆだけなら。
「紫陽さまがいなくなったら、ふゆおばあちゃまは悲しまれるわ……おふたりを引き離すなんてこと、わたしにはぜったいできません……!」
「そんなこと言ってる場合じゃないって!」
「無理です! できないんです!」
とうとう鼓御前は、わっと泣きだしてしまった。
付喪神としては感情豊かなほうであった鼓御前だが、それにしては情緒が不安定だ。
「もしかすれば、瘴気にあてられてしまったのかもしれませんね。……つづはひとの痛みがわかる、やさしい子ですから」
こうしているあいだにも、鼓御前は瘴気にさらされている。御刀さまは穢れを多く受けるほど、手入れも困難を極めてゆく。最悪、なおせない『疵』がのこってしまう。
ゆえに千菊は、行動する。
心を鬼にして、鼓御前へ問いかける。
「泣いているひまはありません。立ちなさい、鼓御前」
「でも……でも……!」
「愛すべき人の子を守る。そのために闘うのではなかったのですか? ならば、ぐずぐずしている場合ではないはず」
「っ……!」
「ちょっと、いくらなんでも言いすぎじゃ……」
仲裁に入ろうとした葵葉を、千菊は毅然とした態度で制する。
「言ったでしょう。今日は見学だと」
それは、口を出すなという牽制だ。
葵葉が知る蘭雪は、『鳴神将軍』という異名にたがわず、厳しい人物だった。
そしてその厳しさとおなじくらい、やさしい人物でもあった。
「大丈夫だから、きみは見ていて」
そのひと言で、葵葉は引き下がる。
そうだ、最初から口を出す必要などなかった、と。
「でもわたしは、刀です……斬ることしかできない……わたしでは、紫陽さまを傷つけてしまう……っ!」
「つづ」
千菊はすすり泣く鼓御前の肩にふれ、ぐっとふり向かせる。
「──私を見て」
鼓御前は、紫水晶の瞳を極限まで見ひらく。
いつの間にだろう。千菊が面をはずしていた。
そこにいるのは、恐ろしい竜ではない。
澄んだ青玉の瞳を持つ青年だ。
「そうです、きみは刀です。ただ斬るだけなら、きみさえいればいい。けれど、御刀さまにはお付きの覡が必要なんです。なぜだかわかりますか?」
「そ、れは……どうして、ですか?」
千菊はふ……と口もとをほころばせ、そっと鼓御前のほほをつつみ込む。
「それはね、正しくふるう者が必要だからです」
「正しく、ふるう者……?」
「悪しきものを斬り、そうでないものは傷つけない。その判断は、刀のふるい手、覡がおこないます」
……こつん。
ひたいとひたいが、ふれあう。
「私がいます。私を信じて。きみならきっと救うことができます──つづ」
「あるじさま……」
吐息がふれあうほど近くで、千菊がほほ笑む。
ほ……と脱力した鼓御前を抱きとめた千菊は、いま一度少女のからだを力強く抱きしめた。
「諸々の禍事、罪穢を祓え給ひ、清め給え。神ながら守り給い、幸え給え」
舌先でころがすように、千菊が祝詞を口にする。
「畏み畏みをも白す──鼓御前」
鼓御前をさいなんでいた苦しみは、もうどこにもなかった。
「──是」
呼びかけに、ひとたび応えたなら。
ぱぁあ……
まばゆい光とともに、ひと振りの刀がすがたを現す。
目にも鮮やかな朱色の鞘におさまった、脇差が。
* * *
その光景に、葵葉は目を見はった。
(俺のときみたいに、抜き身の刀身じゃない)
朱漆塗りの鞘。あれは、鼓御前の神気が具現化したものだ。
千菊はその手腕でもって、より多くの鼓御前の力を引きだしてみせた。そのあかしである。
(敵いっこないだろ。……さすがだなぁ、あるじは)
いっそ清々しくなって、葵葉は笑いをもらす。
「いきますよ、つづ」
千菊の手ににぎられたなら、もう恐れはなかった。むしろ鼓御前は、高揚していた。
『承知いたしました、あるじさま!』
ふたたびその手でふるわれる喜びに、こころが震えていた。
「近づくな……!」
紫陽が手をかざし、鋭利な枝が襲いかかってくる。
柄に手を添え、一歩、二歩と千菊が歩みを進めた直後。
──すぱぁんっ!
襲いくる枝が、まっぷたつに断ち切られていた。
「なんだと……!」
うろたえる紫陽。それを、葵葉は可笑しげにながめていた。
「いいことを教えてやろうか。蘭雪公は刀をふるわせたら化け物級だが、そのなかでも居合いの達人だ」
居合い。それはまばたきのうちに刀を抜き放ち、一瞬にして勝敗を決するもの。
稲妻が落ちるように、一瞬で敵を斬り伏せる。
それこそ、蘭雪が『鳴神将軍』と恐れられるゆえんのひとつである。
「要するに。このひとに刀を抜かせた時点で、あんたの負けだ」
たっと、千菊が跳躍。またたく間に紫陽の目前へ迫った。
「この……!」
千菊を薙ぎ払おうと、枝が襲いかかる。
しかし身をひとひねりしてかわした千菊が、柄を握りしめ。
「──そこです」
漆黒にかがやくきっさきを、紫陽の胸に突き立てた。
「っぐ……ぁあッ!」
当然ながら、紫陽は苦しみ悶える。だが刃が突き刺さっているというのに、その胸もとから血液は一切流れない。
「感じて、さぐりあてるのです。そして、穢れだけを断ち切る」
静かに語りかけながら、千菊が漆黒の刃をぐっと押し込んだ刹那。
ぶちり──
分厚く絡まった糸が、ちぎれる音がした。
ほろほろと、紫陽に巣食っていた黒い色彩が消えゆく。
「……ふゆ……」
遠のく意識のなか、紫陽はうわごとのようにつぶやいた。
「……ごめん、ね」




