*19* 雷鳴
暗い。なにも見えない。
息ができない。苦しい。
冷たく深い水底へ、葵葉は沈んでゆく。
(あぁ、俺は……また死ぬのか。今度は、あっけなく)
人として生まれ直した今世でも、親に捨てられた。
兄弟も友もなく、独りで生きてきた。
そんな葵葉の十五年そこらの人生は、取るに足りないちっぽけなものだろう。
(なんでだよ……)
思い返せば、後悔ばかりだ。
(俺は地位や名誉がほしいわけじゃない。俺は、ただ……)
こぽり。のこりわずかな酸素が、肺から水中へ泡となって逃げてゆく。
(ただ……そばにいたかった、だけなのに……)
たいせつなひとと、いっしょにいたい。
そんなささやかな願いさえ、叶わないのか。
(もう、無理だ……)
決まりを破り、自分勝手に飛びだした。
そんな葵葉のことを、鼓御前も千菊も、呆れて見放すだろう。
もう手遅れなのだ。いまさら後悔しても遅い。
(意地をはらないで……ふみだせばよかった)
ほんとうの気持ちを、素直につたえればよかった。
諦め、閉じたまぶたから、ほろりとあたたかいものがこぼれる。
それさえも冷たい水流に飲み込まれ、葵葉の涙はだれにも届かない──はずだった。
水が流れを変える。
水底へいざなうのではなく、水面へ引き寄せるような流れだ。
(……え……?)
水中に投げだされた葵葉の腕を、がしりとつかむものがある。
それがなんなのかも理解できないうちに、葵葉のからだが急浮上する。
ざばぁっ!
水面を抜けだす。かと思えば、葵葉のからだは岸辺にころがっていた。
直後視界が回り、背中を強打される。その反動で葵葉は激しく咳き込み、水を吐いた。
「……けほっ! ごほっごほっ……!」
空になった肺に、酸素がもどる。
急激に酸素が供給されて、いっそ苦しいくらいだ。
けれど、息ができる。あの冷たい水のなかじゃない。
「──大丈夫か!?」
だれかの声がした。それはおそらく、葵葉を水中から引きあげただれかの声。
ぜぇはぁと荒い呼吸をなんとかととのえ、葵葉は頭上をあおぐ。
「……なんで……」
そこには、ずぶ濡れで葵葉を支える、莇のすがたがあった。
* * *
「怪我は? してないな。よし、ここでじっとしてるんだ。無理をする必要はないから」
莇はすばやく葵葉の容態を確認。立ちあがれない葵葉を木の幹にもたれさせると、自身は浅葱袴の裾をはらう。
「おい……!」
とっさに、葵葉は莇の袖をつかんでいた。
「どうした?」と莇がふり返る。その素朴な疑問のまなざしに、葵葉は口ごもってしまう。
「い、いや……どうっていうか……なんで助けたんだ?」
初対面で散々馬鹿にしたし、反抗的な態度ばかりとった。
「俺のこと助けるメリットなんか、ないはずなのに……」
うなだれる葵葉の頭上で、ため息がもれる。
「だれかを助けたいという気持ちに、理由が必要なのか?」
「え……?」
「おれが助けたいから助ける。ただそれだけのことだし、利益とか見返りは要らない」
莇はなにを言っているのだろう。
人間とは欲深いものだ。神社から青葉時雨を盗んだように。
気に入らなければ無造作に捨て、墓を掘り起こすことさえ厭わない残虐な生き物。
それが人間だと、そう思っていたのに。
「なんで……」
「なんで? そんなの、簡単なことだ」
葵葉の混乱も、莇はたったのひと言で解決してしまう。
「おれは覡だから」
力強く、揺るぎないまなざしで、そう断言する。
「あなたの命が脅かされているなら、おれはあなたを守るために刀をふるう。それが、覡であるおれの使命だ」
葵葉は絶句する。けれど衝撃を受けたのはすこしのあいだだけで、莇の言葉はすとんと腑に落ちた。
──今度はあなたが、あるじさまを守ってくれませんか?
あぁ、孤独や悲しみにとらわれて、忘れていたのかもしれない。
だれかを守りたいという、純粋な気持ちを。
「あなたの前世になにがあったのか、おれは知らないけれど──」
──ぱんっ!
顔に衝撃を感じ、葵葉は思わず視線をあげる。
葵葉の両ほほを打った手のひらもそのままに、莇は葵葉のほほをぐっとつつんで離さない。
そのまなざしから、目が離せない。
「しっかりしろ! いまのあなたは青葉時雨じゃない、縁代葵葉だ! 過去のじぶんに負けるな、諦めるな!」
「っ……おれ、は……俺はっ……!」
打たれたほほが痛い。けれど、まったく不快ではない。
この痛みこそ、葵葉がたしかに、この世に存在しているあかしだから。
(そうだ、俺は)
莇の手はふり払えない。そのわけを、葵葉はようやく理解した。
(俺は、必要とされたかったんだ)
ここにいてもいいのだと、言ってほしかった。
手をとって、情けない葵葉を叱咤してくれる。
本音でぶつかりあうことのできる存在が、ほしかった。
それを──人の言葉では、友というのかもしれない。
──ざばぁんっ!
激しく水しぶきが打ちつける。
魚型の異形が猛烈に波を起こし、いままさに襲いかかろうとしていた。
そして──
「させませんわ!」
雲が流れ、月明かりが射し込む。
反射的にふり返った莇と葵葉の視界で、鮮やかな朱色の衣がひらめいた。
──キィインッ!
〝慰〟が放った尾びれの一撃は、瞬時にはじかれる。
少年たちは息をのんだ。
突如すがたを現した少女を、見まごうはずがない。
「鼓御前さま!」
「姉さま!?」
「わぁ、さすが花ちゃんおねぇさまです! 強力な結界ですね、カッチカチです!」
見慣れない朱色の長羽織を身にまとった鼓御前が、そんなことを言いながらはしゃいでいる。
〝慰〟に立ちはだかった鼓御前の目前には、結界が張りめぐらされていた。
鼓御前の言葉から察するに、朱色の長羽織はおそらく虎尾の霊力が込められた霊具のひとつなのだろう。それも外部からの攻撃を感知して強力な結界を展開するという、すぐれものだ。
「ふたりとも、無事ですね。よかった!」
「姉さま、どうしてここに……」
「莇さんから連絡をいただいたんです。裏山で葵葉を見つけました、と」
葵葉は信じられない気持ちで、莇を見る。
そう。葵葉を発見してすぐに莇が飛ばした折り鶴の式神は、鼓御前たちに居場所を知らせるものだったのだ。
「あっちにいるお魚さんが、ふたりをいじめていた〝慰〟ですね。なんてかわいくないんでしょう。すぐにこてんぱんにしてあげます!」
〝慰〟にかわいいもなにもないのだが。
ぷりぷりと腹を立てている鼓御前のすがたがなんだか可笑しくて、葵葉と莇はふきだしてしまう。
「それはそうと。姉さま、あいつめちゃくちゃ素早いし、水ぶっかけてくるぞ。大丈夫なのか?」
「う……つづはもう、ひとりでおふろにはいれますし、だいじょうぶ、です」
「カタコトになってるし」
葵葉は知っている。それこそ鼓御前本人が話してくれた。
前ほど恐怖心は感じなくなったものの、まだ入浴に手間取っているし、『しゃんぷーはっと』は必需品なのだと。
「大丈夫といったら大丈夫なのです! だってここに来たのは、わたしだけじゃありませんもの!」
葵葉と莇ははたと気づく。
そうだ、考えてみれば当然の話だった。
鼓御前だけが、ここにいるはずがないというのに。
「こんばんは。よい月夜ですね」
風がそよぎ、若い男の声がひびく。
月明かりが、どこからともなく現れた竜頭面の青年を照らした。
「私の可愛い教え子たちに、手はださないでもらえますか?」
おだやかな声音とともに、青年──千菊が純白の袖を持ちあげる。
そして、しなやかな指先が天をさし示した刹那。
「──『轟け』」
──ばりばりばりぃっ!
夜空の月を引き裂くように、雷鳴が轟く。
はるか天上から襲った稲妻が、〝慰〟を絡めとった。
目の眩む閃光。水中に高圧の電流がほとばしる。
のたうち回った魚型の異形は、その白い腹をあらわにして、ぷかりと浮かんだ。
「いまですよ」
千菊は袖と袖を合わせ、手をおさめる。その視線は、莇に向けられていた。
ひとつうなずいた莇は、颯爽と駆けだす。
「諸々の禍事、罪穢を祓え給ひ、清め給え。神ながら守り給い、幸え給え──」
祝詞がつむがれゆくほどに、短刀が霊力をまとう。
「──はぁッ!」
莇は高く跳躍。にぎりしめた刃を、〝慰〟の腹に突き立てた。
ぷつり──
それは、禍々しく絡みあった糸が断ち切られる音。
瘴気とともに、〝慰〟のすがたが霧散してゆく。
たっと危うげなく岸辺に着地した莇は、音もなく短刀を鞘へおさめる。
「──おれの刃は、『守るための刃』だ」
しばしの静寂につつまれるなか。
(こいつは……すごいやつだな)
月明かりを背にたたずむ莇を、葵葉は常磐色の瞳で、まぶしそうに見つめていた。




