*18* 慟哭の雨
……かたり。
わずかな物音で、桐弥は目を覚ます。
まぶたを持ちあげれば、ふさふさとしたなにかが、視界に覆いかぶさっていた。
くりっとした茶色の瞳で桐弥をのぞき込んでいたのは、一匹の狐だ。
「……苦しい、風汰」
桐弥がすこし顔をしかめると、胸もとにのしかかっていた狐──風汰が、するりと飛びおりた。
桐弥は布団から身を起こし、畳にちょこんと座った風汰の頭をなでてやる。
風汰は桐弥が面倒を見ている狐だ。飼っているかというと、それは微妙だが。この狐はきまぐれで、じぶんの気が向いたときだけやってくるから。
ただ、桐弥がなでてやるときもちよさそうに茶色の瞳を細め、ふさふさのしっぽをゆらす。なつかれているのは事実なのだろう。
ヒュウウ……
桐弥はつと、窓の外を見やった。
今夜はやけに、風の音がきこえる。
「おまえが来るときは、いつも風が強いな」
いつだってそうだ。風汰はこうして突然やってくる。
桐弥に、なにかを知らせるように。
ひとしきり風汰をなでた桐弥は、腰をあげる。
次いで箪笥をあけ、白の着流しに今紫の袴をすばやくまとう。
賢い狐は、桐弥の仕事道具が入った鞄の持ち手をくわえ、ずりずりと引きずってきた。
「行ってくる」
最後に風汰をひとなでした桐弥は、鞄を片手に寮の自室を後にした。
* * *
風が強く吹いている。
がさがさと木々の枝葉がざわめく闇夜。
少年たちは、禍々しい気をまとう異形と対峙していた。
(魚型の〝慰〟は、はじめて見るな)
白く濁った目。うろこは闇にまぎれる黒と紫の斑もよう。
体長は、ゆうに四メートルは超えている。
鯉のようにも見えるが、尾びれが異様に長い。そして刃物のように鋭利なかがやきを放っている。
先日の雀が可愛く見えるほど、巨大で殺意に満ちたあやかしだ。
(水場はこちらが圧倒的に不利だ。水中へ逃げられる前に、動きを止める!)
チキリ。莇は〝慰〟から視線を逸らさないまま、短刀の鯉口を切る。
「『縛』──!」
すかさず抜刀。しかし。
莇が短刀を投げ放つよりさきに、〝慰〟がひれで激しく水面を叩く。
──ばしゃあああっ!
「くっ……動きが速い!」
打ちつける水しぶきを、袖でふせぐ。
莇がひるんだ一瞬の隙に、〝慰〟はとぽんと水中へすがたを消した。
莇はさっと周囲へ視線を走らせる。
依然として、瘴気はただよったままだ。
「どこから攻撃が来るかわからない。気をつけろ」
葵葉に警戒をうながす。じぶんはともかく、彼は丸腰なのだ。もし〝慰〟に狙われたら──
「……縁代?」
返事が、ない。
葵葉はそこにいる。岸辺にたたずんでいる。
だが、様子がおかしい。
「……あめ……」
水しぶきをまともにかぶったのか。葵葉は黒髪からポタポタとしずくをしたたらせながら、その場に立ち尽くしていた。
「冷たい、雨……」
「どうしたんだ」
「雨は、さむい……いやだ…………嫌だ嫌だ嫌だ! うぁあああッ!」
「縁代っ!」
葵葉に莇の呼びかけは届いていない。突然髪をかき乱し、半狂乱になって絶叫をひびかせた。
(瘴気にあてられたのか!?)
いや。初見で雀の〝慰〟を難なく滅した葵葉が、そう簡単に瘴気に取り込まれるとは思えない。
だとすれば、べつの原因があるはず。
すい──……
「っ! まずい!」
水面がゆらめく。
巨大な魚影が滝壺をのぼるさまを目の当たりにし、莇は血の気が引くのを感じた。
──ざばぁあんっ!
滝の激しい水流を突き破り、〝慰〟がすがたを現す。
巨大な魚型の影が、岸辺にうずくまる葵葉を覆った。
「させるか!」
莇は夢中で短刀を投げ放つ。
キンッ!
火花が散り、〝慰〟がくりだした尾びれの攻撃ははじくことができた。が。
ざぁあああ……
雨の矢のごとく容赦なく打ちつける水しぶきに、葵葉が呆然と呼吸を止めた。
「あ……」
ヒュンッ、ヒュルンッ。
長い尾びれが、葵葉のからだにまとわりつく。
それは、一瞬の出来事だった。
「──縁代ッ!!」
莇がのばした手は、届かない。
ざあざあと水が打ちつける滝壺に、葵葉は引きずり込まれていった。
* * *
──雨は嫌いだ。
冷たいから、独りの寒い夜を思いださせる。
「なんだよ! このなまくら刀、たいした金にもなりやしねぇ!」
あるとき、ひと振りの刀が森のなかに捨てられた。
山賊が神社の賽銭箱を荒らしたさいに、命乞いをする神主から欲深くも奪いとった刀であった。
だが、売ってもたいした金にならぬと知った山賊は、その刀をためらいなく山中へ放りだしたのだ。
(……あぁ、またすてられるんだ)
おどろくべきことに、その刀には意識があった。付喪神がやどっていたのである。
だからといって、産魂まれたばかりの刀の付喪神は、どうすることもできなかった。
むきだしの刀身のまま、ざあざあとふりそそぐ雨にただ打たれるだけ。そう思っていたのに。
ごろごろと、ふいに空のうなり声をきいた。
雷雲が近くまでやってきているんだろうか。
『まぁ!』
そのときだった。どこからともなく、少女の声が届いた。
『あちらですわ、あるじさま、蘭雪さま!』
だれかが駆け寄ってくる。やはり、少女だ。
だが不思議なことに、少女は足音がない。なにより身にまとう『気』が、人間のそれではない。
「おや」
次いで、若い男の声がひびく。
濡れた草を、ふみしめる音がする。
「今日はつづが、なんだか落ち着かないとは思っていましたが」
ざあざあと、雨がふりしきるなか。
霧の向こうから、甲冑をまとった武士が現れた。
その武士は憤怒の表情をした竜の面をつけ、腰にひと振りの刀を提げている。
なんとも恐ろしいいでたちだ。しかし武士がつむぐ声音は、おだやかなものであった。
「こんなところで、かわいそうに」
武士は片ひざをつき、野ざらしにされた刀をひろう。
「おいで。御手入れをしましょう」
『さすがあるじさまです! そうしましょう、そうしましょう!』
──それが、蘭雪とその愛刀に出会った日の記憶である。
* * *
「反りの浅い直刃。長さは二尺ほど、打刀ですか。おや……地肌が無地ですね。これはめずらしい」
蘭雪は捨てられていた刀を持ち帰ると、慣れた手つきで手入れをほどこした。
手入れを終えると、顔全体を覆っていた竜の面をはずす。
ともすれば女性のように柔和な顔立ちの美丈夫が、横たえた刀へほほ笑んだ。
「私はちょっと湯浴みをしてきます。その子をよろしくお願いしますね、つづ」
『はい、承知いたしました』
濡れた甲冑を脱いだ蘭雪は、自身の愛刀を捨て刀のとなりに置くと、部屋を出ていった。
『はじめまして。わたしは鼓御前といいます』
行儀よく座った少女が、にこにことあいさつをしてくる。だが捨て刀がうんともすんとも言わないのを見ると、くすりと笑みをこぼした。
『恥ずかしがらないで、出ていらっしゃい』
しばらく沈黙が流れ。
鼓御前の目の前に、幼い少年がすがたを現した。人の子でいえば、六、七歳ほどだろう。
『打たれて百年ほどかしら。かわいらしい付喪神さんですね』
『……あんたも、付喪神なの?』
『はい。といってもわたしは磨上げられたあとなので、むかしのことはよく思いだせませんが』
『すりあげられた……?』
『雷に撃たれて、刃が焼けてしまったんです。なので焦げたところを研いでいただいたら、すこしちいさくなってしまいました』
鼓御前によると、いまは脇差だが、以前は太刀だった。蘭雪からそう伝え聞いたと。
太刀であったときの銘は磨上げられたときに削られてしまったため、鼓御前に以前の記憶はほとんどないらしい。
『あなたは?』
『……銘は、ない。無銘とでもよべばいい』
『どうして森のなかにいたの?』
『山賊にぬすまれて、すてられた。まえは神社にいたけど、刀匠はしらない』
なにせ、付喪神として自我をもって間もない。
おのれがいつ、だれに打たれたのかもわからない。
ただひとつわかることがあるとすれば。生まれ故郷もわからないほど、何度も何度も、捨てられてきたということだけだ。
『……おれは、おもしろくない刀なんだって』
無銘はぽつりとこぼす。
途切れ途切れの記憶のなか、人間のひとりがじぶんに対して言っていた言葉だ。
刀の価値を決めるもののひとつが、刃文だ。
刃文とは、刀身に浮びあがるもようのことである。刃文は鍛錬の仕方によって決まり、種類もさまざま。
だが無地の着物より、花鳥風月といった四季彩ゆたかな華やかな反物のほうが目を引くだろう。
刀もそれとおなじ。刃文が直線的で、地鉄も変化に乏しい無地。そんな無銘のことを、だれも必要とはしなかった。
『あんた、あのにんげんと話ができるんだろ? それなら、おれのこと折るようにいってよ』
じぶんはなぜ生まれたのか。
必要とされないなら、存在する意味などないはずだ。
だからはやく、終わりにしてほしかった。
もう……疲れたのだ。
『──なんてことをいうんですかっ!』
それなのに。無銘が望む『終わり』を、彼らは与えてはくれなかった。
うつむく無銘のほほを、鼓御前が両手でつつみ込む。
『あるじさまはわたしのすがたが見えているわけでも、声がきこえているわけでもありません』
『でも……さっき、しゃべりかけて』
『わたしのことを物ではなく、ひとつの命としてたいせつにしてくださる。蘭雪公はそういう方なのです』
無銘は言葉をうしなった。
ひとつの命として、たいせつにする?
鋼の塊でしかない刀を?
そんな人間がいるものか。
『現にあるじさまは、あなたの御手入れをなさいました。終わらせることではなく、つないでゆくことをおえらびになったのです。それなのに、折ってほしいとか簡単に言わないで!』
『──っ!』
雷に撃たれるとは、こんな感覚なのだろうか。
『無銘。あなたは、なんですか?』
『おれは……刀』
『そうです、あなたは刀です。思いだして。表面的な美しさだけが、刀の価値を決めるのではないでしょう』
鼓御前の言葉を受け、無銘は反芻する。
(おれは、刀……)
刀とは、鋭い刃を持つものだ。
その斬れ味で、敵をねじ伏せるものだ。
『わたしは一度焼けてしまいました。ですから、あるじさまがおえらびになったあなたが、今度はわたしの代わりに、あるじさまを守ってくれませんか?』
……そうだ。そうだった。
(おれは……刀なんだ)
こんな当たり前のことを、どうして忘れていたのだろう。
(おれは、刀だ!)
そのことを思いだした夜。
「まっすぐな直刃。鏡のように澄んだ無地の地肌。よく鍛えられたんでしょうね。強靭な、よい刀です」
無銘の刀身を見つめながら、蘭雪がつぶやく。
「『木の葉の泣き声が聞こえる』……と、つづが言っているような気がしました。そしてそのさきに、きみがいました」
幼い付喪神のすがたをした無銘と、蘭雪の視線がまじわることはない。それでも。
「私といっしょに闘ってくれますか──青葉時雨」
青々としげった木の葉から、しずくがしたたるように。
この涙を、悲しみに暮れる声を、聞き届けてくれるひとがいた。
名もなき捨て刀が必要とされたその夜のことを、何百年、何千年たとうと、青葉時雨は忘れることはないだろう。
* * *
鼓御前に代わり、青葉時雨が蘭雪の実戦刀となった。
数々のいくさ場を駆け抜け、敵を屠った。
それでも蘭雪は鼓御前を肌身離さずそばに置いていたし、いくさ後も青葉時雨の手入れを怠ることはなかった。
(おれと、姉さまと、あるじの三人でいるんだ。ずっと……!)
青葉時雨はそう信じて疑わなかった。
けれど、時の流れとは残酷なもので。
たったの数十年そこらで、蘭雪は死んでしまった。
『うそつき……いっしょにいようって言ったくせに……あるじのうそつき!』
『青葉……』
蘭雪の墓の前で、泣きわめく青葉時雨。
そんな弟の背に、鼓御前はそっとふれる。
『あるじさまは天寿をまっとうされたのです。それならばわたしたちも、公が生前望まれたように』
『……うん』
わかっていた。人の一生が、儚いものであることは。
だから鼓御前も、青葉時雨も、ともに墓に入ることにした。蘭雪がそれを望んだからだ。
蘭雪の遺言を受け、かつての臣下たちがふた振りの刀を遺骨とともに埋める。
(あぁ……これでおれたちは、だれにも、邪魔をされずに……)
大丈夫だ。たいせつなひとがそばにいるから、さみしくはない。
土に埋もれた暗い暗い世界で、青葉時雨はそっと意識を手放す。
あとには、深淵のような静けさにつつまれるだけ。
──けれど。
だれかのそばにいたいというささやかな願いさえ、突然打ち壊される。
『……あるじ……あるじ!』
滝のような土砂降りの夜のことだ。
蘭雪の墓が、何者かによって掘り起こされたのである。
『姉さま……どこにいるの、返事してよ、姉さま!』
ざあざあと、冷たい雨がふりそそぐ。
『ねぇ、おれを独りにしないでよ……あるじ……姉さまぁっ!』
冷たく凍える雨の夜、青葉時雨は独り慟哭した。
ぱきんと、みずからの命が折れる音を、最期に聞きながら。




