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同一世界観ファンタジー

幸せになる最善の道

作者: 月森香苗

※現実世界に準拠していない為、捏造した設定等ございますのでご了承ください。

 サンタブルク侯爵家の嫡子アリアはニアレイブン伯爵家の三男エドワードと婚約をしていた。サンタブルク家にはアリアしか子がいない為、入り婿となり侯爵を継ぐに相応しい人物として、派閥や事業を踏まえた上で年齢も近いという事でエドワードが選ばれた。政略による婚約であるが、二人が5歳という幼い頃から結ばれた為、エドワードは後継者としてアリアの父に師事していた。頻繁に屋敷に来るため、アリアとも交流を持ち、二人の関係は穏やかに育まれていた、はずだった。

 歯車が狂い始めたのが何時の頃なのかと聞かれたなら、アリアは必ずこう言うだろう。ニアレイブン家に親戚の令嬢が預けられた時からだ、と。エドワードの母は隣国の伯爵家の令嬢で彼女もまた政略により婚姻を結びこの国にやってきた。そのエドワードの母の妹の娘、つまりエドワードにとっての従妹にあたる令嬢が事情によりニアレイブン家にしばらくの間預けられることになったのだという。エドワードとアリアが16歳、そしてその令嬢-デリア=モンターニャが20歳の時の話である。

 既に婚約を結んで11年。婚姻は二人が18歳になって行うと決められていたので後2年、それまでに社交界に出て人との繋がりを結ぶという予定に変更はなかった。11年も時間があればアリアはエドワードへ政略以上の思いを抱くのは当然であっただろう。穏やかな笑みの下に隠して努力を重ねる姿を尊敬せずにはいられなかった。外に出る時のエスコートは卒がない。つい先日、デビュタントを迎えたレディとなったアリアへの接し方は丁寧で、誕生日や何か記念日があればプレゼントは欠かさず、メッセージカードもこまめに送られてきた。

 ただ、エドワードに恋をしたアリアは気付いてしまう。エドワードは決して自分に恋をしていないし、それどころか最近彼が心を寄せる相手が出来たということに。その相手が、エドワードの家に預けられたデリアだったことは簡単にわかってしまった。



 王都の屋敷にある庭園は領地にある屋敷の庭園よりも規模は小さいけれども、歴代の夫人が好む季節を大事にしながら美しく見える花を咲き誇らせている。その一角にあるガゼボでアリアは読もうと思って持ってきたけれども、まともに文字を追う事も出来ずに諦めて本を閉じ、テーブルの上に置いた。侍女が用意してくれた紅茶はすっかり冷めてしまったけれども、渇いた喉を潤すには丁度良かった。

 風が低木を揺らす音とふわりと浮くストロベリーブロンドの髪の毛。髪の毛を押さえながらはぁ、と零した溜息にアリアの悲しみが乗っているような気がして、それが更に悲しみを増してしまう。


「アリア嬢、憂いに満ちた貴方はまるで虹の向こうへ飛んでいきそうだね」

「ルーベンス様……」

「私で良ければ話を聞くよ」


 艶めくダークブロンドの髪の毛を青玉石のついた髪留めで襟足あたりを結んだ男はアリアの向かいの椅子に腰かける。彼を案内した侍女の後ろからメイドが新たな紅茶をアリアの分も合わせて差し出し、先に飲んでいたカップを静かに下げる。異性と二人きりにすることは出来ないけれども近くに張り付く事はしない侍女が声の聞こえない場所に立つのを確認した男は足をゆったりと組み、アリアはそっと視線を下に向けた。

 ベイティア公爵家の次子であるルーベンスはアリア、エドワードと幼馴染の関係である。ニアレイブン家はベイティア家の数代前の当主の弟を始まりとして今に至っている。ルーベンスとアリア達の年齢の差は2つで、一度はアリアの婚約者としてルーベンスが挙がったものの、当時のベイティア家の後継者である長子は体が弱く何時まで生きられるか分からないという事で後継者になり得るルーベンスは除外されていた。しかし、子供たちが交流を持つことは悪い事ではない、と三人は時間が合えば共に行動をしていた。


「エドワード様は……お好きな方が出来たようなのです」

「ああ、デリア=モンターニャ嬢かい?」

「ルーベンス様はデリア様をご存じなのですか?」

「エドワードに用があってニアレイブン家に行った時に紹介されたよ」

「……デリア様は、どのような方ですの?」


 エドワードの目の色と同じグリーンを好んで着ているアリアだが、今日はそのような気分になれず、己の目と同系色のブルーにゆったりとしたデザインのドレスを身に纏っていた。グレーがかった青は若いアリアが着るにはくすんでいるけれども今の気分にはちょうどいいと思ったのだ。

 そのドレスの太腿部分にある布をそっと手で掴んでしまう。皺を付けると侍女頭からお小言を言われてしまうけれども、行き場のない手をどうにかしたかった。


「モンターニャ嬢はそうだね……自由を愛する令嬢、と言ったところかな」


 困ったように笑みを浮かべたルーベンスはカップを手にすると紅茶を口に含む。アリア好みの、香り高い紅茶を注ぐ事の出来る侍女が淹れた紅茶をルーベンスはこれまで何度も飲んできて、その舌はこの味に慣れていた。

 本を読む間に摘む程度の茶菓子はコック長自慢の小さなパイやビスケットなどが美しい皿に並べられている。一人であればそれを手で食べても侍女が少しばかり眉を顰めるだけだが、異性の前ではしたない行動をすることが出来ない程度にはアリアも淑女であった。


「自由を愛する……?つまり、快活な女性という事なのですね」

「まあ、そうだね。でもあまり彼女の事は気にしないほうがいいよ。アリアのような淑女と彼女は合わないね」


 ルーベンスは何も入れない紅茶を好み、アリアはほんの少しだけ蜂蜜を溶かした紅茶を好む。鮮やかに色付けされたカップの繊細な取っ手に指を掛けるルーベンスはまるで一枚の絵のようだ。

 アリアはルーベンスが件の令嬢を好んでいないことに気付く。彼の声に含まれているのはアリアに向けられる慈愛に満ちたものではなく、何処か冷徹に切り捨てる様なものだ。ルーベンスは数少ない公爵家の令息として振る舞う事を幼い頃から叩き込まれており、呼吸をするようにその行動をする。何の裏表もない人間性を貫き通すには貴族社会というのはそこまで甘くない。


「エドワード様とお約束をしても、それを蔑ろにされるようになりました。メッセージカードも、エスコートも何もかも。ですがそれだけならわたくしは我慢いたします。しかし、お父様から仕事を教わるはずなのに、その約束すら果たさないのは如何なものでしょう」


 政略という性質上、契約が存在してエドワードはアリアの父から仕事を引き継ぐことが求められている。サンタブルク家の領地経営は公爵家ほどではないにしても広大な土地と肥沃な農地、いくつかある鉱山、多くの領民を抱えている。年月をかけただけあって殆どの仕事を覚えたはずだが、それでもまだ教わる事はあるし、何よりも他家との交流により自領への利益還元をする必要があり、その為には父についている必要があるというのに。


「わたくしとの約束はデリア様の体調不良が心配で、という事で破棄されますの。一度や二度でしたら構いません。しかし、その回数も両手の指の数を越えてしまえばどうにもなりませんわ」


 カップをソーサーに戻し伏し目になったアリアはその口から小さく溜息を零す。デリアという女性を選ぶのであればアリア並びにサンタブルク家ときちんと話し合いを設け、適切に対応しなければならない。それをせずに不義理を通そうとするのであれば、それ相応の報いが与えられると何故気付かないのであろうか。


「わたくしとて女です。エドワード様をお慕いしておりますので出来るならばこの婚約を成就させ、婚姻にまで至りたい。ですが、愛されないと分かっていて不義理を通す男性を婿に迎え、この侯爵家を任せていいのか……分からないのです」


 恋に、愛に溺れる事が出来るのであればアリアも楽だっただろう。素知らぬふりをしてまもなくやってくる婚姻の日を迎えるだけだった。しかし、アリアは幼い頃より父母に愛され愛し、領地を愛し領民を愛していた。侯爵家のただ一人の娘としてその血を確かに繋げる為の一つとして生きることを教育された令嬢であった。嫁に出る令嬢であれば必要のない覚悟でも、アリアの様に男子の後継者のいない家では同じ思いをする令嬢が必ずいた。


「アリア嬢」

「はい」

「君はサンタブルク家とエドワード、どちらを大事に思うのかな」

「それは……サンタブルク家ですわ。サンタブルク家を繋げる事がわたくしの使命。その為にエドワード様が婿に来るのです。エドワード様でなくても、良いのです」


 己の恋心を、愛を抑え込んで言うのであれば正しい回答。挿げ替える事の出来る存在と、変えられない家。どちらが大事なのかと天秤に乗せると勝手に出てくる答え。それでも苦しいという感情が出てくる。淑女たるもの、如何なる時も笑みを浮かべるべし、と教わったマナー。しかし歪んだ笑みと震える体、目尻に浮かぶ小さな涙。17歳の少女でしかないアリアは淑女の仮面を上手く被ることが出来なかった。

 小さな音を立ててルーベンスがカップをソーサーに戻す。その音にゆっくりとアリアは顔をあげた。視界に入るのは穏やかな笑みを浮かべた幼馴染の男性、なのにどうしてだろう、知っているはずなのに知らない男性の様に思える。


「アリア嬢、よろしければ一週間後にブルムダール侯爵家で行われる夜会をエスコートさせてくれないかな」

「……ええ、お願いしてよろしいかしら。エドワード様からエスコート出来ないと連絡が来たの」

「成程ね。ドレスはどうする?」

「先日仕立てたブルーのドレスがあるの。それを着るわ」

「ではアクセサリーを贈らせてもらうよ。ドレスの色に合わせてこちらも差し色をブルーにするから」

「ええ。でもよろしいの?そういえばルーベンス様は婚約者がまだいらっしゃらないのでしょう?」

「そうだね。でも気にしないでいいよ。美しいアリア嬢のエスコートをする大役を任せてもらえるなんて光栄だからね」

「まあ、お上手ね。楽しみにしているわ」


 本来ならばエドワードが婚約者として、またサンタブルク家を担う次代の当主としてアリアと並ぶ必要があるのに、簡単に予定を破棄されたアリアの失望は深かった。父は何も言わないがそろそろ我慢の限界が来ているだろう。たった一人の令嬢が来ただけで狂い始めた歯車。彼女が来て半年という短い期間でこんなにもおかしくなってしまったエドワードは信頼を回復する必要があるというのに、それすらしない。


「ルーベンス様のお兄様はお元気?」

「ああ。義姉上もそろそろ出産を迎えるよ」

「待ち遠しいわね」


 体の弱かった長子はある時期を境に健康を取り戻し、今ではすっかりと騎士にも負けない肉体を手に入れていた。そうして伯爵家の令嬢を妻に迎えるにまで至った。赤子が生まれ、それが男子であればルーベンスは後継者候補から外れることになる。万が一の為に教育を受けてきたルーベンスはそれでいいのだろうかとアリアは思うが、口にはしない。このままエドワードとの婚約が解消された場合、早急に誰かを選ばなければならない。

 歳が近く、家格と事業的に問題がない、婚約者のいない男性となればもう問題児かルーベンスくらいしかアリアには思いつかなかった。問題児は不要なので、出来るならばルーベンスがいいと思うようになるほど、アリアはエドワードへの恋心と同時に冷静な理性を手放せなかった。



 ブルムダール侯爵家の夜会は伯爵家以上が招かれており、下位貴族の令息令嬢が参加するためにはパートナーとなる以外は入ることが出来ない。公爵家のルーベンスと侯爵家のアリアは共に招待されており、パートナーとして参加している。

 ダークブルーを基調としたドレスはシンプルなデザインだが、丁寧な刺繍が施されている。胸元と耳元を彩るのはルーベンスから送られたダイヤモンド。室内の照明がその煌めきを美しく彩る。

 本来であればアリアのパートナーは婚約者であるはずで、その存在は随分前からアリアの父によって周知されていたにも関わらず、現在隣にいるのは別の男性とあって周囲の視線が向けられる。だが、あからさまでないのはそれがルーベンスである事と、二人が幼馴染であることが知られているからだろう。

 主催者の侯爵に揃って挨拶をし、見知った人たちと軽い会話をしている最中、小さなざわめきが起きる。そこにいたのは本来アリアをエスコートしていなければならないはずのエドワードと、アリアの見知らぬ女性。


「アリア嬢。エドワードの隣にいるのがモンターニャ嬢だよ」


 デリア=モンターニャ。アリアにとっての悪夢の象徴である女性。ルーベンスの差し出した腕にそっと手を添えたアリアは話をしていた人物にその場を離れる無礼を詫びながら移動をする。エドワードは何を考えているのだろうか。何か別件で用事があってアリアのエスコートを断ったのであれば参加出来ないはずだ。もしもこの夜会に参加するのであれば、共に歩くのはアリアでなければならない。万が一、アリアが用事なり病気なりで参加出来ないならば別の女性を連れるのは当然だろう。親戚だから、という理由にしても国内の令嬢であればアリアも何も言わない。しかし彼女は隣国の女性だ。それも隣国においての子爵家の令嬢である。

 プナグレオ国と隣国のクロー国では格が少しばかり異なる。大陸での戦争が激しかった大昔から国境が定められ争乱はある程度おさまり、和平条約が各国で結ばれ現在は平和な時代と言われている。大陸の北に存在しているプナグレオとクローは自然環境と産業事業で全く異なる。プナグレオはもう一つの隣国でありクロー国と反対に存在するシェマチクとの交流を密にしており、良質な鉱石大国として認められているが、クロー国は鉱山はほとんどなく、海洋産業を主としており、クロー国の南に存在しているアプラード国との関係はプナグレオ・シェマチクほど恵まれたものではない。故に、クロー国での子爵というのはプナグレオでの男爵家がほぼ同等である。

 国としての性質も異なる為、余程でなければ高位貴族の夜会にクロー国の貴族を連れてくることはないというのは暗黙の了解であった。これがもしも主催者の招いた賓客であれば問題がなかった。しかし、幾ら次期サンタブルク家の当主として目されているとはいえ、現在のエドワードはニアレイブン伯爵家の子息でしかない。アリアが来ているにもかかわらずエスコートしているのは隣国の子爵家の令嬢。周囲の視線は厳しいものにならざるを得なかった。

 アリアは面倒な事に巻き込まれたくない、と来て早々ではあるがダンスも踊ることなく帰ろうかと思い始め、ルーベンスを見上げると、ルーベンスはアリアへ優しい笑みを向けていた。


「ルーベンス様、どうなさったの?」

「いいや。ところで、彼らがこちらに来ているけれどもどうする?」


 エドワードは主催している侯爵に挨拶をした後、ルーベンスとアリアに気付いたようでこちらに向かってきていた。その向こうで侯爵はどことなく不愉快を隠せない表情だったので、この無礼はきっと静かに広がるだろう。そもそも下位貴族の夜会でも彼らは一緒に参加していたのでそちらの方ではとっくに噂は広まっているようだが。


「ルーベンス、アリア嬢。来ていたのか」

「ええ。エドワード、君は不参加だと思っていたんだけどね」

「ごきげんよう、エドワード様。いらっしゃっていたんですね」


 ルーベンスとアリアはそれぞれ笑みを浮かべてエドワードの声掛けに反応する。二人は完全にエドワードの隣にいる女性に視線を向けない。社交界では上の立場の者から下の立場の者に声を掛けて初めて挨拶をすることが許される。つまり、ルーベンスないしはアリアが女性の事を聞かない限りエドワードに紹介をすることは許されない。この対応を見た周囲は当然だと心の内で思う。本来はアリアをエスコートしなければならないエドワードの不義理。それを無かったように話しかけること自体あり得ないのだ。

 しかし、礼儀知らずはエドワードだけでなかったというのが直ぐに判明してしまう。


「まあ、ルーベンス様、ごきげんよう」


 エドワードがエスコートするブルネットの髪の毛とヘーゼルカラーの目をした、エドワードの目の色をしたグリーンのドレスを身に着けた女性がルーベンスの名前を呼んで挨拶をする。それがどれだけ失礼に値するのか知らない者はきっと彼らだけだろう。


「私の名前を呼ぶことを許していないよ」


 ルーベンスは女性に一切視線を向けず、エドワードに向かって言い放つ。エドワードはほんの少し呆けたような表情をした後、慌てたように女性を引っ張り黙らせる。


「デリア!君から話しかけては駄目だし、彼の名前を呼ぶことは許されないよ」

「あら、エド?先日ご紹介していただいたじゃない」

「あくまでも君は僕が彼に紹介しただけだ。名前を呼ぶことを許してもらってはいないだろう」

「あらやだ。私の国ではそのようなルールは無かったのに」

「エドワード、気分が悪い。君は何故ここにいるんだ?そもそも君の婚約者はアリア嬢でここに参加することは知っていたはず。それなのに君は彼女にエスコート出来ないと連絡をしながら、ここにいる。おかしい話だと思わないか?」

「ルーベンス、それは言いすぎだ。ただ、デリアは夜会に来たいと言っていたから」

「先日行われた子爵家の夜会などでも共に参加していたと聞くよ。君は自分の立場をわかっているのか?私が何故アリア嬢をエスコートしていると思っている。そもそも君はサンタブルク家に婿入りする立場のはずで、何よりも優先すべきはアリア嬢のはずだよ」


 周囲の視線が更に集まる。アリアに瑕疵は一切ない。アリアはルーベンスのエスコートが無ければこの夜会に来ることは出来なかった。本来そうしなければならない人物がその義務を放棄したからだ。理由がはっきりと告げられ周囲は納得したような表情を浮かべる。静かな声で糾弾するルーベンスの対面でエドワードの顔色は悪く、その隣に立つデリアはエドワードの腕にべったりと体を付けるように腕を絡ませながらルーベンスをうっとりと見上げ、そしてアリアを憎らしそうに睨む。表情を取り繕う事も出来ない隣国の下位貴族の令嬢にアリアは呆れもしたし、情けなくも感じた。

 そしてずっと胸に抱いていた恋心が急激に色褪せ、どうでもよくなってしまった。


「エドワード様。わたくしと父からお話があります。二日後、我が家にお越しください」

「っ、わ、分かった」


 ルーベンスと一週間前に話した後、アリアは父に婚約の継続の必要性を問うた。父は上に立つ者として、領民を守る者として冷静に「否」を告げる。もしも今夜の夜会にエドワードがデリアと共に参加していたら、アリアは婚約を解消すると父に告げた。そして今がその結果だ。


「ルーベンス様、わたくし体調が悪いわ。送ってくださる?」

「もちろん。エドワード、とても残念だよ」


 女性のドレスはコルセットで締め上げることで美しいラインを作る。骨が一・二本くらい折れていてもおかしくないと言われるくらいにしっかりと紐で絞められるせいで呼吸困難になり失神する女性もいるという。化粧で誤魔化してはいるけれども、アリアも実際倒れそうになっている。それを気合と根性とプライドでどうにかしながら笑顔を浮かべてこそ淑女となると言うのだから我慢するしかない。

 ルーベンスに微笑みを投げていると強い視線を感じる。エドワードの隣のデリアだ。彼女は余りにも浅はかで傲慢で、己の立ち位置を勘違いしている。ルーベンスの手が腰に回り支える、その行動には親密さが混じっている。婚約者の前で別の異性に触れられるなど本来ははしたないと言われてもおかしくないかもしれないけれど、それ以上の不愉快な行動をしている人間が目の前にいる事実。

 少しばかり呼吸が苦しいのを抑えながらアリアが笑みを浮かべたままデリアへ顔を向ける。醜い顔でアリアを睨んでいた女は、その笑みを馬鹿にされたと勘違いしたのだろうか。顔を赤らめ、そして大きな動きで距離を詰めると思い切り手を振りかぶる。

 頬を手で叩かれた音が聞こえる。叩かれた衝撃の後、じわりと痛みが広がる。デリアの荒い呼吸と醜悪な表情。それらを脳が全て処理した瞬間、アリアは人の腕の中にいた。


「アリア、大丈夫か!?」

「え、ええ。大丈夫よ……わたくし、叩かれたのね?」


 繊細なレースの手袋を着けた手でそっと頬を押さえると痛みを少し強く感じた。それまで見物に徹していた周囲も流石に傍観者となってはおられず、アリアを守る様に婦人たちが囲み、数名の男性が壁になる様に間に入る。

 隣国の下位貴族の令嬢が自国の高位貴族の令嬢へ暴力をふるった。衆人の目のある中で行われたそれらに対し、その女性を連れてきたエドワードは止めることもしなければそのフォローもしようとしない。


「何なのよ、あんた!エドの婚約者でありながらルーベンス様を侍らせて!ルーベンス様は私のような美人の方が似合うのよ!」

「先ほども言ったが、名前を呼ぶな。そして君は私の隣に相応しくない」

「ど、どうして」

「君がクロー国で何をしたのか、私の耳には入っているよ。君を軽蔑する。名前も呼ばれたくないし声もかけられたくない。不愉快だ」

「ルーベンス様っ!」

「デリア!止めるんだ!」


 冷たく突き放すルーベンスにアリアも周囲も驚く。エドワードは不機嫌になるルーベンスを見て漸く我に返ったのか、デリアを抑えるがデリアの憎しみの籠った目はアリアに向けられたままだ。


「腹の立つ女ね!悔しいでしょう?エドを取られて!あんたみたいな女に何で男が優しくしてんのよ!」

「エドワード。その女の口を閉じさせろ」


 ルーベンスの冷ややかな怒りを含んだ言葉にエドワードは逆らう事も出来ない。デリアの口を手で覆うとエドワードは血の気の引いた顔で彼女を引き摺って会場から連れ出そうとするが、デリアは抵抗して暴れる。結局のところ、会場の隅で行われていたこの騒ぎは主催者の元に届き、ブルムダール侯爵家の体格の良い使用人達が強制的に二人を連れ出す事となった。

 アリアは一度としてデリアに会った事は無い。この会場で初めて彼女を見たのにも関わらず、何故彼女からあそこまで憎まれているのかが全く理解出来なかった。

 知り合いの夫人が水に濡らしたハンカチーフを差し出してくれたのでアリアは赤く仄かに熱を帯びた頬に当てながら、ブルムダール侯爵に頭を下げて詫びる。誰もがアリアに非は無いと庇ってくれているので、今後の社交界でもアリアの汚名になる事は無いけれども、兎にも角にも疲れてしまった。

 早急に屋敷に帰り、父にニアレイブン家への抗議を入れてもらう事と合わせて、デリアへの糾弾もしなければならないと思うとただ憂鬱になってしまうだけだった。隣にルーベンスがいるから立っていられるが、それでも心の疲弊とコルセットによる体調不良で、叶うならば淑女の嗜みである失神を披露したくなってしまうのは無理もないだろう。

 ぐったりとしながらもルーベンスに支えられて馬車まで向かうと御者が既に待機しており、扉を開くとルーベンスの支えで中にアリアは入る。続くようにルーベンスも入ると御者により馬車が動き始めた。余りの疲労に椅子に座った途端ぐったりと窓側に体を預けると、苦笑したルーベンスが横に座り肩に手を回すとそっとアリアの体を引き寄せる。適切な距離ではないと分かっているけれど、その優しさに甘えて肩に頭を預けるとゆっくりと目を閉じる。

 己の婚約者を奪った女と初めて顔を合わせたのに憎悪されており、叩かれ、婚約者は全くアリアを守ろうなんて考えてもいなかったのだろう。非常識にもほどがある行動を繰り広げ、サンタブルク家への配慮も何もない男にアリアが出来ることなどもう何もなかった。

 何がしたかったのか分からない。これまでの11年を無に帰してまであの女性を選ぶ理由がアリアには分からない。彼女といることで得られるものは、アリアと婚姻を結ぶことで得られる以上のものだったのだろうか。それとも、女としてあちらを選んだのだろうか。その可能性の方が高かった。

 己を美人だという彼女の感覚は理解出来なかったが、確かに肉感的な女性だと思った。プナグレオでは貴族の女性は婚姻の際に純潔が求められる。しかし男性はそれに該当しない。もしも女性に積極的に迫られたとして、エドワードが抗う事など出来たのだろうか。尤も、抗う事だって出来る男性はいるわけで。

 デリアはルーベンスの事を狙っていたのかもしれない。エドワードの事は本気ではなかったように思う。だが、ルーベンスはあのような女性にこれまでも何度も迫られては冷たく切り捨ててきた男で、勝ち目など一つもなかったというのに。

 ゆらゆら揺れる体。体の近くで感じる熱にアリアは意識を手放した。


 屋敷に着くとルーベンスが優しく起こしてくれる。眠りから覚めたアリアは申し訳ない気持ちと安心できる心地良さにふわりと表情を緩める。呼吸のし辛さは解消されていたがきっと精神的なものだったのだろう。エドワードとはもうきっちりと縁を切る。それがアリアの結論だ。

 恋に溺れきっていればきっとこの結果にはならなかった。アリアはどこまでもサンタブルク家の人間である事を捨てられなかったのだから。


「アリア嬢、気持ちは決まった?」

「ええ。婚約は解消するわ。速やかに新たな婚約者を探さないといけなくなるけれど」

「そう。なら、私が申し込んでもいいという事だね?」

「あら、本当?」

「兄があそこまで元気ならもう私は不要だろうし、何より私がそれを望んでいるからね」


 先に降りたルーベンスが差し出す手を取りアリアは馬車から降りる。夜の空気を吸い込むと、すぅと脳まですっきりするようだ。ルーベンスへ視線を向けると昔から変わらない優しい眼差し。漸くそこでアリアは気付いた。

 ルーベンスがアリアに向ける感情は友情の域を超えているものだ。今までアリアはエドワード以外を見ようとした事は無い。婚約者である以上、別の男性に思いを寄せるなどという事はしたことがないし、周りもアリアをそのような目で見る事は無かった。今、ルーベンスの目の中にあるのは強い感情だ。ここまでよく隠し通せたものだとアリア自身が感心してしまうほどの熱が向けられている。


「二日後、待っているわ」


 アリアの言葉が答えだった。



 アリアとエドワードの婚約は解消された。明らかにエドワードの瑕疵によるもので、11年の年月を使いエドワードに教育を施してきたにも関わらずの不義理に慰謝料の請求は避けられなかった。更に、デリアによる暴力行為なども合わせて追求すればニアレイブン伯爵は顔面蒼白になりながらもただ謝罪をするのみだった。

 伯爵はエドワードを連れて屋敷を訪れ、アリアが受けた精神的苦痛に頭を下げる以外何が出来ただろうか。結局、エドワードは何故非常識な行動に出たのかを説明する事は無かった。ただ、デリアはクロー国へと速やかに帰された。ルーベンスに対しての無礼な言動をベイティア公爵家もまた翌日速やかに追求した結果である。


「エドワード様、最後に教えてください。わたくしは、女として彼女に負けたのですか?」

「……君に悪いところなど何一つとしてなかったよ。ただ、僕が彼女に心を奪われた、それだけだ」

「女として負けたという事ですね。分かりました。どうぞお元気で」


 都合が悪いと目を逸らしながら言葉を発する癖のあるエドワードが、目を逸らしながら言った言葉。つまりは女としての魅力があちらにはあったという事だ。たったそれだけでこれから先に得られる侯爵家のあらゆるものを捨てた男を、愛していた自分が馬鹿らしくなってしまった。

 ニアレイブン家の二人が屋敷から出て行って後、アリアは父から呼ばれ応接間から執務室へと移動する。ソファに腰かけると父は少しばかり疲れた表情をしていたものの、直ぐに笑みを浮かべて一通の封筒を見せる。


「ベイティア公爵家からアリアに婚約申込だよ」

「ルーベンス様ね。お父様、お受けしてください」

「おや、即答か」

「ええ。二日前に既にルーベンス様から言葉をいただいていたの」


 本来であればルーベンスが選ばれてもおかしくなかったのだ。11年経ってその縁がもう一度戻ってきただけ。それにルーベンスはどこまでもアリアを大事にしてくれるだろう。ずっと静かに支えてくれた男だ、エドワードの様に何も言わずに心変わりをするなんてことはしないはず。

 父も問題がなかったのだろう、直ぐにお受けすると返事を送ったのでこの婚約は速やかに成立した。


 かくして二人は婚約を結び、半年後に婚姻の式を挙げることになった。元々公爵家の後継者教育を受けていたルーベンスには人脈があり、アリアの父から学ぶ事は大体習得していた。領地に関してはアリアと共に学ぶことになる。高位貴族の結婚は国王陛下並びに貴族会での了承が必要だが、大きな問題は起きなかった。

 婚約を解消し、直ぐにルーベンスと婚約したことについて、数名の令嬢からは嫉妬に満ちた視線は受けたが、概ね祝福されたのはきっとあの日の夜会を見ていた人たちがアリアに対して同情したからだろう。そもそも、格上であるサンタブルク家を蔑ろにする意味が誰にも理解出来なかったのだ。仮に、二人の関係性が逆であればエドワードが女性を選ぶ権利はあったのだろうけれども、エドワードは選ばれた立場でしかなかったのに。


「ルーベンス様、わたくしはまだ貴方に同じ思いを返せるほどの愛はありませんが、これからの生活で少しでもお返し出来るようにしますね」

「アリア、私の愛は君が思っている以上に重いよ。だから、まずは受け止めてくれると嬉しいな」


 婚姻の式を二日後に控えた日、アリアはルーベンスと並んでソファに座りながら紅茶のカップを手に囁く。そのアリアの空いた手を優しく包み込みながらルーベンスはまだ見せていない深く重い愛情の一部を零した。



 二人が結婚して三年の後、アリアは夫になったルーベンスからエドワードとデリアのその後を聞くことになった。

 エドワードは非常識な振る舞いにより婚約を結ぶことが出来ず、このまま市井に下る事になるはずだったのだが、国内のとある子爵家の令嬢から是非にと望まれ婚約したのだという。その子爵家への入り婿になるという事だが、ニアレイブン家の事業に関わりがある家で、エドワードの過去の所業を知った上で侯爵家での後継者教育を長らく受けていたなどの利点により申し込んだのだという。

 エドワードは周りから敬遠されていたがその女性が明るく元気で男性にも負けない強気な性格であったこともあり、振り回されながらも少しずつ動き出すようになったらしい。アリアは三年の月日を経て、エドワードに幸せになって欲しいと思っていた。ルーベンスから惜しみない愛情を注がれ、子供も一人産んで、現在二人目を妊娠しているアリアは過去を過去として割り切っている。

 きっといつかはどこかの社交の場で出会う事もあるだろう。その時にせめて笑顔で話せるようになれればいいと、ルーベンスに告げ、ルーベンスもまた同意した。


 さて、デリアであるが、彼女はその命を終えていた。

 そもそもデリアがプナグレオ国に来ていたのは、彼女がクロー国で問題を起こしていたからだ。それはまさにアリアとエドワードの婚約解消と同じもので、デリアは社交の場に出るようになった頃から異性関係で幾組もの婚約を解消させていた。それだけでなく、高位貴族の離縁にまで発展し、家族は慰謝料の支払いなどから一時的にプナグレオのニアレイブン家に預ける事にしたのだ。本来であれば速やかに修道院に入れるべきところだったのだが、あまりにも彼女は恨まれすぎていた。

 我が子可愛さにプナグレオに避難させたのだが、そこでもデリアは反省する事は無かった。己の欲望を最優先に誰よりも自分が一番であり、クロー国で持て囃された経験から己は美しいのだと思い込んで勝手気ままに行動した。

 エドワードはその毒牙に掛かってしまったのだろう。彼女とは体の関係にあったと言うのはなんとなくわかっていた。そしてこの国でもまた数名の男性が彼女とひと時を楽しんでいたという調査報告をルーベンスは受けていた。

 アリアへの憎しみは、高位貴族の中で特に公爵家という最高の状況にあるルーベンスを己の獲物と定めたデリアが、ルーベンスに全く相手にしてもらえないどころか、エドワードの会話の中でアリアへの思いを感じてしまったのが原因だった。男は己の所有物であり、最高の男であるルーベンスですら、一度も見たことのないアリアに思いを寄せているという事実がデリアには我慢ならなかった。

 結果として暴力、暴言によりサンタブルク家を敵に回し、更にベイティア家も敵に回したデリアはニアレイブン家が庇う事など出来ずに速やかに強制送還された。クロー国の実家ではまだ沈静化出来ていないのに戻された事、状況によっては外交問題にまで発展することなどからそれなりの寄付金を詰んで修道院に入れることにした。最初からそうすればよかったのだが、最近になってようやく慰謝料の目処が立ち、寄付金が用意できるようになったのだ。

 その修道院でデリアは全く反省をしなかった。自分本位の言動を繰り返し好きなように振る舞っていた彼女は、いつかこの修道院を出るのだからと傲慢なままだった。

 ただ、その修道院には彼女を深く恨む女性がいた。かつてデリアによって婚約を解消されたその女性は、婚約者の家からの支援を受けていたのだがそれが打ち切られた。結果として家は没落し、両親は自死を選んだ。両親が亡くなる前にかき集めたお金でこの修道院に入っていた女性は、全てを失い、ただ両親が神の元で安らかに眠っていることを祈る日々を過ごしていた。その最中にデリアが修道院に入り、何も反省することなく自分本位の行動を繰り返すのを見て、抑え込んでいた恨みと怒り、そして彼女を再び世に戻しては不幸になる人々が増えるだけだとその考えに囚われ、ついにはデリアの頭を何度も何度も石で殴り殺した。

 女性は己は罪人であると嘆きながら裁かれることを願った。

 本来であれば人を殺したという事は重罪であるのだが、デリアは多くの高位貴族を翻弄し、クロー国を発展させるための事業をいくつも潰し、果ては国王の弟の子、つまり国王の甥すら手玉に取ろうとしたという過去などもあり、女性に対しての情状酌量の余地は十分に存在していた。何よりも彼女はデリアによって全てを失ってしまっていたのだ。かつてデリアによって不幸になった多くの女性が同情していたのも大きかった。

 そこまで恨まれていたデリアを庇っていたモンターニャ家が、逆にその罪を追及されることになったのは不幸な事だろう。その過程でプナグレオの高位貴族への無礼なども判明し、デリアの死に対して誰も同情しなかった。むしろ、その手を血に染めた女性への嘆願が寄せられ、終身、修道院にて祈りを捧げる事になった。彼女自身は修道院に入っていたので実質無罪に近いのだろう。無論、女性は己が地獄に落ちるものだと思っているのだが、それでもデリアを殺した事を後悔していないとはっきり告げた。


 因果応報という言葉がある通り、婚約の契約を軽んじたエドワードは結局己が欲した女性を手に入れる事が出来なかった。しかし、彼が不幸にしようとしたアリアが別の幸せを手に入れたことにより、エドワードも新たな幸せを得る事が出来るようになった。

 多くの人を不幸にして己の欲ばかりを優先したデリアは、己の命で贖う事になった。


 アリアは、誠実に生きる事が何よりも幸せになる最善の道なのだと。

 デリアによりアリアはエドワードとの未来は絶たれたが、ルーベンスとの未来の道が出来た。それは彼女が誠実に生きたからだ。デリアもまた誠実に生きていればきっと今頃命はあったのだろうに、それが出来なかったからの結末。

 話し終えたルーベンスがそっとアリアを抱き寄せる。長男は既に部屋で寝入っている。最近少しずつ膨らみ始めた腹を撫でながら、アリアは今ある幸福を喜び、ルーベンスに顔を向ける。近寄る顔に瞼を閉じれば唇が触れ合う。

 この幸せがいつまでも続くようにと願いながら、アリアはルーベンスの首に腕を回した。

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