86.平和な帰り道
歩いているうちに、青空の端にちらちらと灰色の雲が見え始めた。
その雲はどんどん広がっていき、あっという間に空を覆ってしまう。そして、ぽつぽつと雨が降り出した。
兵士たちと誘拐犯たちは、それぞれ雨具をかぶって雨をしのいでいる。
誘拐犯たちを縛っている縄には、魔法封じの魔法陣が練りこまれている。前に私が閉じ込められたあの岩牢に仕込まれていたのと同じ、でももっと強いものだ。
そのせいで、彼らは普段のように魔法で雨を弾くことができない。それが彼らにとっては耐え難い屈辱のようだった。
彼らは兵士たちに取り囲まれて歩きながら、憎しみに満ちた視線をちらちらとこちらに寄こしてくる。まったくもう、誰のせいでこうなったと思っているのか。
こっそりあきれながら、すぐ前を行くヴィットーリオを見る。
「あらヴィットーリオ、風の魔法もうまくなったのね。きちんと雨を弾けているわ」
「はい! ジュリエッタ様に褒めていただけるなんて、とても嬉しいです」
もちろん私がその程度の視線にひるむはずもなく、涼しい顔でヴィットーリオたちと楽しくお喋りに興じていた。もちろん、魔法で完璧に雨を弾きながら。ああ、魔法って便利。
「……このまま行くと、今日はどこかで野宿ですよね?」
ヴィットーリオがどことなく浮かれたような声で、そっと尋ねてくる。一生懸命にいつも通りを装おうとしているけれど、その目は期待に輝いている。ふふ、こういうところはちゃんと年相応で可愛いなあ。
すると、私たちのすぐ近くを歩いていたシーシェが戸惑いつつ答えた。
「そうだな。行きよりもゆっくりと進んでいるし。ところで……ヴィットーリオ様は野宿を楽しみにしているのか? やけに楽しそうだ」
遠慮のかけらもない言葉をぶちかますシーシェの脇腹を、メリナが無礼でしょ、と言いながら肘で小突いている。
ヴィットーリオは小さく苦笑し、シーシェに答えた。
「実は、そうなのだ。私はかつてジュリエッタ様やミモザ様と共に辺境の森で暮らし、王宮まで旅をした。こうやって王宮の外を歩いていると、あの頃を思い出す」
まだ幼い顔と声には不釣り合いなその口調に、少しだけ胸が苦しくなる。あの辺境で暮らしていた頃の彼は、ごく普通の少年の顔をしていた。そして、ついさっきも。
彼はどんどん成長している。でもやっぱり、まだ子供だ。子供のうちは、子供らしく過ごさせてやりたい。
「……決めたわ。ヴィットーリオ、色々と落ち着いたら遊びにきなさい。あの辺境の小屋にね」
「それは、できるならそうしたいのですが……しかし、長く王宮を留守にする訳には」
戸惑うヴィットーリオに、今まで黙って話を聞いていたミモザが説明した。
「大丈夫、街道を一切使わずに、深い森や高い山のそばを飛んでいけば数日で着くから。問題は、途中ずっと野宿だってことだけど。それも、人里から遥か離れたところでね」
しかしそれを聞いたヴィットーリオは、ぱあっと顔を輝かせている。
「ずっとミモザ様に運んでいただいて、ずっと野宿で……素敵です」
その言葉に、シーシェとメリナが揃って目をむく。驚きにぽかんと口を開けてから、シーシェがぽつりとつぶやいた。
「ヴィットーリオ様って、ずいぶんと変わった……たくましいお方だったんだな」
「口を慎みなさいよ、シーシェ。でも、たくましいという意見には同感だわ」
ヴィットーリオは気を悪くした様子もなく、小声でささやき合っている二人に声をかける。
「私は、あの辺境で多くのことを学んだのだ。……お前たちも私と同じように、追放された経験があるだろう。そうやって王宮を離れることで、見えてきたものもあるのではないか?」
「ああ。やはり、王宮での暮らしは最高だった。さっさと王宮に戻りたいな」
話の流れも読まずにそんなことを言ってのけるシーシェと、恥ずかしそうに赤面しながらも小さくうなずいているメリナ。
そんな二人の反応がおかしかったのか、ヴィットーリオはそれは愉快そうに吹き出した。
「はは、それが普通の反応なのだろうな。お前たちが戻ってきてくれて、とても嬉しい。どうかこれからも、レオナルドを支えてやってくれ」
王者の貫禄をただよわせたその一言に、シーシェとメリナはどちらからともなくその場にひざまずいた。
「もちろんだ。俺は王に仕える魔術師なのだから。……だが」
「それと同時に、あなたのことも支えたいと思います、ヴィットーリオ様」
きっちりとした魔術師の制服の裾が街道の石畳に触れて、じわりと雨が染み込んでいく。
「立ってくれ、二人とも。私たちは共に、王であるレオナルドを支える仲間なのだから」
二人は戸惑いつつも顔を上げ、立ち上がる。その二人の手を、ヴィットーリオが微笑みながらそっと取った。
ここが草原の中の街道ではなく、まるで王宮の一間であるかのような錯覚に陥りそうになるほど、目の前の光景は厳かで温かだった。
その日の野宿は、とてもにぎやかなものになった。兵士たちは誘拐犯たちを油断なく取り囲みながら、物々しく休む準備をしている。野宿というより、野営といった方が正しいだろう。
一方の私たちは、そんな彼らから距離を取るようにして、街道のすぐ近くに生えている木の下に集まっていた。雨除けの布を手分けして木の枝に引っ掛け、即席の屋根を作る。
その下で火をおこし、暖を取る。春の盛りとはいえ、こうも雨が降ると少し肌寒い。
ヴィットーリオの護衛をメリナとミモザに任せて、私とシーシェは水を汲みに出た。ここから少し先に、きれいな小川があるのだそうだ。
革袋を手に手に下げて、魔法で雨を弾きながらのんびり歩く。不意に、シーシェがぽつりとつぶやいた。
「こうやって二人で雨の中を歩くのは、あの岩山から逃げ出してきたあの時以来だな」
「そうね。あれからせいぜい十日とちょっとしか経っていないのに、驚くくらい色々なことがあったわね」
「その大半は、俺たち魔術師のせいなんだよな。……何というか、すまん」
律儀に頭を下げてくるシーシェに、笑って手を振る。
「気にしないで。あっちで縛られてる連中はともかく、あなたたちは何も悪くないのだから」
「そう言ってもらえると、ありがたいが……あなたとゆっくり話ができるのは、いつになるんだろうな」
「あら、あれって本気だったの」
彼に出会って間もない頃、彼はこう言っていた。いつかあなたと、ゆっくり語り合いたいと。あの時は、いわゆる社交辞令のたぐいだと思って聞き流していたのだけれど。
「もちろん本気だ。あなたは可憐で、素晴らしい魔法の腕を持ち、長い時を生きて様々なものを見聞きしてきた。そんなあなたの話を聞きたいと思うのは、当然だろう」
きらきらと目を輝かせて、シーシェが熱心に言う。褒め言葉が無駄に多い。そんなだから、メリナがああやってやきもきする羽目になるのだ。
「話すのはいいけれど、もれなくミモザがついてくるわよ」
「ミモザ様か! ぜひとも、お願いしたいところだ。王宮を偵察していた仲間から、彼が白い竜になるということは聞いていたが、竜の姿がまさかあんなにも美しく、荘厳だとは。民が神だとあがめたくなる気持ちが、とても良く分かった」
どうやらシーシェも、竜のミモザに魅了されたくちらしい。がっしりとした体格には似つかわしくないその表情は、憧れの英雄に出会えた少年を思わせるものだった。
「……あなたって、女たらしの気があるんじゃないかしらって思ってたんだけど、どちらかというと人たらしね。メリナも苦労するわね」
「どうしてそこで、メリナの名前が出てくるんだ?」
無自覚に人をたらしこみがちな性格と、騎士を思わせるすらりとして立派な体格、そしてちょっと異国風の美貌。これだけ揃っていながら、本人はてんで鈍感ときた。
「……あなたとメリナって仲がいいから、ふと思い出しただけ」
そうはぐらかしながら様子をうかがうと、きっぱりとした返事が返ってきた。
「ああ、子供の頃からの付き合いだからな。相棒のようなものか? きっとあいつも、同じように思ってくれているだろう」
この鈍感男の耳をひねり上げてやりたい。そんな衝動と戦いながら、私は雨の中を歩き続けた。
久しぶりのちゃんとした野宿に、ヴィットーリオはこちらまで嬉しくなるような顔をしながらはしゃいでいた。
相変わらず雨が降り続いていることも気にならないらしく、彼は大喜びで質素な夕食をたいらげ、予備の毛布にくるまってぐっすりと眠っていた。
次の日も、雨は降り止まなかった。それでも今日中には王宮に戻れるだろうし、誰も特に気にしてはいなかった。
ただ一人、ヴィットーリオだけは残念がっていた。彼はもう少しだけ、外の空気を吸っていたかったらしい。
ヴィットーリオを守るように隊列を組んで、東にある王宮に向かってのんびりと歩く。じきに、街道の分かれ道にたどり着いた。あの砦に続く道だ。
まさにその時、北の分かれ道の方から数人の人影が姿を現した。兵士たちに緊張が走る。
けれどその人たちの顔を見た時、私たちは緊張感のかけらもない声を上げていた。
「あら、ファビオじゃない。元気そうね?」
「長、あなたが雨の日に出歩いているなんて珍しいな。持病の腰痛がひどくなるっていって、絶対に外には出なかったのに」
私とシーシェのそんな言葉に、彼らはむっつりと黙り込んでいた。




