79.その頃のファビオ
古い砦から離れた岩山の洞窟を、魔法で整えて作られた地中の住処。魔術師たちが拠点としているそこに、ファビオは未だに留まっていた。
彼はジュリエッタのように、どこかの部屋に監禁されてはいなかった。それどころか彼は、客人として魔術師たちから手厚くもてなされていたのだった。
しかも長は、この周囲の地図を彼に渡してこう言い放ったのだ。まだあなたを帰す訳には参りませんが、逃げたいと思われるのであればどうぞご自由に、と。
与えられた客室で、ファビオは悩んでいた。魔法で作られた木の椅子に腰かけて、やけに精巧な地図を手にしたまま。
すぐにここを飛び出して王宮に戻り、兵を連れて魔術師たちを力ずくでも連れ戻す。彼の立場と今までのいきさつを考え合わせると、それがもっとも正しい選択のように思われた。
けれど同時に、彼は魔術師たちの思いを知りたいと思っていた。王の命に背いて、王の使者すら追い返して、どうして彼らがこうもかたくなに、こんなところに引きこもってしまったのか。
今までの長の言葉には、その一部が見え隠れしていた。けれどまだ足りないと、そうファビオは感じていた。
魔術師たちはまだ、彼に語っていない思いを秘めている。それを知ることなく無理やり連れ戻したところで、根本的な解決にはならないのではないか。
だからもう少しここに留まり、彼らの思いを探ろう。ファビオは、そう結論を出したのだ。
ジュリエッタはどこぞに押し込められてしまったようだったが、ファビオは彼女についてはさほど心配していなかった。
彼女は人一倍行動力があり、長く生きているせいか度胸もある。この程度のことでめげはしないだろう。
ファビオは口に出すことこそなかったが、彼女のことを高く評価していたのだった。隙あらばマジマの粉をぶつけようとしてくることだけは、大いに閉口していたけれど。
ただ、この状況が長引くようなら、彼女が牢から出られるように手を貸してやったほうがいいだろうと、彼はそんなことも考えていた。いくら強くても、それでも彼女はやはり可憐な女性だから。
しかし、彼のそんな心配は見事なまでの杞憂に終わった。ジュリエッタは捕らえられたその日のうちに、さっさと自力で逃げ出してしまったのだ。魔法封じの魔法陣を力ずくでぶち破って。
彼女らしいな、と苦笑しながら、ファビオは改めて自分の務めを果たすことにした。
ここにいる魔術師たちの思いを聞き出し、その上で説得して、穏便に王宮に戻らせる。そのことに全力を注ぐ。そのことに専念しようと考えたのだ。
恐ろしいことに自覚はしていなかったが、ファビオはとにかく真面目で、手を抜くことができない性分だった。おまけに、とても有能だった。
最下層の貴族だった彼は、真面目に働いて働いて働き続けているうちに、いつの間にか国の頂点近くにまで昇り詰めてしまっていた。
もっともその結果とんでもない量の仕事を抱え込んでしまい、先の騒動の時も同僚たちの陰謀に気づく余裕すらなかった。
その時のことをまだ気に病んでいるファビオは、かたわらの机に地図を置くとすっくと立ち上がった。
「もうこれ以上、失敗はできない。今度こそ……必ず、やり遂げてみせる」
誰にともなくつぶやいて、彼は大股に部屋を出ていった。
そうして、その日の夜。客室に戻ってきたファビオは、大きなため息をついていた。
「聞き込みは昔から苦手だったが……こうも難航するとはな」
彼は最初に、シーシェを探した。多少なりとも気心が知れていて人懐っこい彼がいれば、聞き込みの助けになってくれるだろう。そう思ったのだが、彼は今朝から姿が見えないのだと聞かされた。
仕方なく彼は、たった一人で拠点を歩き回った。そうして目についた魔術師たちを片っ端から捕まえて、話を聞こうとしたのだ。
今の状況をどう思っているのか、王宮への帰還に向けて何か自分にできることはないのか。ファビオのそんな問いに、魔術師たちはみな苦笑しながらかぶりを振るだけだった。
「こういう時、ロベルトならうまく話を聞き出せたのだろうが……」
無意識のうちにそうつぶやいてから、ファビオは思いっきり顔をしかめる。
彼はロベルトのやたらとよく回る口と、財政を取り回す能力自体は買っていた。しかし彼はどうしても、ロベルトのあの軟弱で軽薄なところは好きになれなかったのだ。
「仕方ない、腰をすえてじっくりと取り組むしかないか」
ファビオはまたため息をつくと、壁際の寝台に身を横たえた。
王宮の寝台に比べれば遥かに粗末な木の寝台に、何枚も敷布が重ねられている。これもまた、魔術師たちの精いっぱいの心づくしだった。
窓の外の月を見て、彼は困ったように目を細める。
普段であれば、まだ山のように残った書類と格闘している時間だった。彼にとっては、まだ眠るには早すぎる。しかし、他にすることもない。
「……暇だな。こんな風に感じたのはいつぶりだろうか……十年、いやもっと前だな……」
彼の顔に、うっすらと笑みが浮かんでいく。窓の外を見つめながら、彼はゆるやかに眠りに落ちていった。
そうして二日ほども経った頃、特に何も収穫が得られずにやきもきしていたファビオを、魔術師の長が呼び出した。
案内されるがまま長の部屋――先日、彼とジュリエッタが長と会ったあの部屋だ――に向かったファビオは、そこに用意されていたものを見て目をむいた。
部屋の中央には、この間はなかった大きな卓が鎮座している。そしてそこに、酒や数々の料理が並べられていたのだ。驚いたことに、みずみずしい果物もいくつか並んでいる。ろくに草も生えないこの岩山には、あまりにも不釣り合いな品だった。
「……長、これはどういう趣向だろうか」
「あなたが我らの考えを探り、説得しようとしていることは聞き及んでおります。ならば一度、腹を割って話すのも良いかと思いました」
「そうか。ならば遠慮せずに、お招きにあずかろう」
長の堂々とした物言いに、ファビオは小さく笑う。
そちらが正面から当たってきてくれるのなら、こちらにとっても都合がいい。そんなことを考えながら彼は椅子に腰を下ろし、目の前に並んだ酒や料理を興味深そうに眺める。
「こんな人里離れた岩山に、よくこれだけの品が揃ったな」
「砦のほうに運ばれる物資だけでは少々心もとないので、こっそりと周囲の街に買い出しに行っております」
転移の魔法や飛行の魔法を駆使すれば、離れた街に向かうのも難しくはない。それに基礎である風の魔法であっても、使いこなせば荷物を運ぶ役に立つ。長はどこか得意げに、そう説明した。
「それに我らの魔法をもってすれば、金に換えられるような物を作ることも造作ありません」
「ほう、それはどういったものだ?」
胸を張っていた長が、はっと我に返る。つい勢いで口を滑らせてしまったものの、ファビオの声を聞いて急に冷静になってしまったらしい。
ファビオはことさらに明るく苦笑して、手をひらひらと振ってみせた。
「なに、単に興味があるだけだ。お前たちが隠れて小遣い稼ぎをしていたところで、とがめるつもりはない」
「……響く音の魔法を用いて隠れた鉱脈を見つけ、加工の魔法で鉱石を掘り出し、様々なものに変えるのです。いわば、鉱夫と鍛冶師の仕事を同時に行っているようなものですな」
くしくもそれらは、ジュリエッタが最も得意としている作業の一つだったが、魔法にあまり詳しくないファビオは知るよしもない。
「魔法に、そんな使い道があったのか……思いつきもしなかった」
生真面目なファビオは、魔法とは何らかの崇高な理念のもとに取り扱われるべきものなのだと、心からそう思い込んでいる節がある。だからこそ、魔術師たちの子供のような主張に憤ってもいたのだが。
だからジュリエッタが野宿の際に寝台を作り始めた時も、彼は大いに驚いたものだった。こんなに生活感にあふれた魔法があっていいのだろうか、と。
「お褒めいただき、ありがとうございます」
そして長は、ファビオの素直な反応に大きく笑み崩れていた。彼は杯に酒を満たし、ファビオに勧める。
「さあファビオ様、まずはこちらを。王宮のものには遠く及びませんが、それなりに趣のあるものですぞ」
「ああ、ありがたくいただこう」
二人は酒杯を掲げ、親しげに笑い合った。ささやかな交流の宴が、今まさに始まろうとしていた。
そうして、二人が静かに話し合い始めてから少し経った頃。長の部屋の中には、やけに親しげな声が飛び交っていた。
「まったく、今どきの若い者ときたら、これっぽっちも上を敬おうとしないのです。わしの若い頃は、こんなことはなかったというのに」
「ああ長よ、分かるぞその気持ち。規律も順列も無視して、好き勝手にふるまう者の何と多いことか」
あっという間に、ファビオと長はすっかり意気投合してしまっていた。日頃周囲の者の行動に手を焼いている者同士、大いに共感するところがあったらしい。
「一癖も二癖もある魔術師たちをまとめるために、日々どれだけわしが粉骨砕身していることか……彼らは理解しようともしない」
「そういうものだ。私も、あのロベルトやジュリエッタ様たちの奔放な行動に、どれだけ振り回されてきたことか……」
「やはりあの魔女は、王宮に近づけるべきではないのでしょうな」
むっつりと口を引き結ぶ長に、ファビオが苦笑しながら首を振る。
「今のは失言だったな。彼女は奔放で、色々と型破りだが……そこまで敵視する必要はないぞ。彼女はただ、レオナルド様とヴィットーリオ様を弟か息子のように可愛がっているだけの、ごく普通の女性だ」
その言葉に、長はさらに眉間のしわを深くした。
さんざんジュリエッタたちに振り回されて感覚が麻痺し始めていたファビオは気づいていなかったが、外部の人間が王とその兄を身内のように可愛がるなど、普通に考えればあり得ないことなのだ。
「……普通の、女性ですか」
長はそう言いながら、目を伏せ考え込む。先日ここに現れたジュリエッタのことを思い出しているのだろう、その顔はひどく険しくなっていた。
ファビオはそんな長の姿を眺めながら、普通だと言い切ってしまったのは早まっただろうかなどと考えていた。彼女が見せた脱獄の腕前は、それは鮮やかなものだったから。魔術師たちがみな驚くくらいに。
「……ファビオ様がそうおっしゃるのであれば、少し考え直してみましょう。ずっとここに留まっているのも、難しいようですし」
長い沈黙の後、長が疲れたようにぽつりとうなずいた。ファビオはそんな長に笑いかけ、うんうんとうなずく。酒が入っているせいか、彼はいつもよりほんの少し朗らかだった。
「そうだろう。ここは思いのほか快適だが、やはり王宮にはかなわない。不平不満が出るのも当然だろう。それにお前たちが戻ってきてくれれば、私も嬉しい」
普段は四角四面の堅苦しいファビオは、珍しくも飾らない言葉を口にしていた。それを聞いた長は顔をほころばせ、嬉しそうにうなずく。いつの間にか長も、ずいぶんと酒を過ごしてしまっているようだった。
「長よ、私はお前のことを頼りにしているのだ。魔術師たちを束ねる者として、これからも私たちと共に国を支えていってほしい」
「ああ、ありがとうございます……わしのような無力な老人には、まこともったいなきお言葉」
「謙遜するな。お前は今でもこうやって、みなの上に立っているのだろう」
「いいえ、誰も彼も、わしの言うことなどろくに聞こうともしないのです……」
どうやら長は泣き上戸だったらしい。豪快に酒をあおりながら、しわに囲まれた目をしきりにまたたかせている。
「若者たちが反抗的なのは前からでしたが、最近ではまた別の一派が、何やらこそこそとおかしな動きをしている様子……何を企んでいるのかいくら尋ねても答えようとしませんし、止めるに止められず……ああ、口惜しや」
「そうかそうか、お前も大変だな。私でよければ、いくらでも話を聞こう。悩みを抱える者同士、今宵は大いに語り合おうではないか」
ジュリエッタあたりが見たら目をひんむくに違いないさわやかな笑みを浮かべて、ファビオが大きくうなずいている。
二人の話し合い、もとい愚痴のこぼし合いは、終わることなくずっと続いていた。




