73.森の中の大爆走
私を肩に担ぎ上げたまま、シーシェは早朝の森を全力で走り続ける。普段から鍛えているというだけあって、彼の足取りはとても安定していた。
しかしとんでもなく揺れる。うっかりしていたら舌を噛んでしまいそうだ。
落ちないよう必死にシーシェにしがみつきながら、ひたすらに耐える。人を荷物扱いするなと、後でたっぷりと抗議してやろうと思いながら。
こうしてみると、ミモザはとても紳士的だった。
初めて私を抱えて飛んだあの時から、彼はいつも私のことを気遣ってくれていた。揺れないように、怖くないように。大切な宝物でも抱えているかのような、そんな手つきで。
盛大に揺さぶられながら、王都に思いをはせる。今はまだ、ミモザも異変には気づいていないだろう。
あと一、二日くらいなら、魔術師の説得に時間がかかっているのかな、とでも思っていてくれるかもしれない。
しかしミモザが異変に気づく前に王都に戻るのは、やっぱり難しそうだ。
彼がどれだけ心配するだろうかと思うと、気持ちがずんと重くなる。……あと、とんでもないことにならないといいなと祈らずにはいられなかった。
「……ふう、ここまで逃げればひとまず大丈夫だろう」
どれくらい突き進んでいたのか、不意にシーシェがそうつぶやいた。と思ったら、突然足を止める。つんのめって肩から落ちそうになった私を、彼はがっちりと抱き留めていた。相変わらず、見事な腕力だ。
そうして地面に下ろしてもらえたのはいいものの、すっかり全身がこわばってしまっていた。おかげで、そのまま地面にへたりこんでしまう。
ただ彼につかまっていただけなのに、どういう訳か息も上がってしまっていた。ものすごく疲れた。
「だったら、少し休ませて……変な姿勢でしがみついてたからあちこち痛いし、もうくたくた……」
「ああ、すまない。ただここで足を止めてしまうのもな……できればもうしばらく歩いて、昼になってから休みたいところだし」
荷物と私をかついで全力疾走していたとは思えないほど、シーシェは元気そのものだった。息も全く乱れていないし、動きも軽やかだ。
鍛えているとは聞いたけれど、いったいどれだけ体力があるんだろう。恐ろしい。
そんなことを考えながら息を整えている間も、彼は首をひねって考えていた。それからまた荷物を背負い、かがんでこちらに手を差し出してきた。
「え、なに?」
訳も分からず、つい反射的にその手を取ってしまう。
すると、彼はそのまま私を引っ張り起こして立たせた。そしてやはり流れるような動きで、私を両手で抱き上げる。彼の右腕は私の背中を、彼の左腕は私の膝を支えている。横抱きというやつだ。
「これならそう揺れないだろう?」
そう言うが早いか、彼はまたすたすたと歩き出している。
確かにさっきとは段違いに楽だけれど、何というか、顔が近い。私にはミモザがいるからいいようなものの、普通の女性ならころっと参ってしまいかねない距離だ。
たぶん彼は、何も考えていない。私に負担をかけないように運ぼうとした、それだけだ。でもそれにしては、ちょっと……。
「……あなた、女泣かせって言われたことはない? 女たらしでもいいわ。ううん、人たらしかも」
「不思議なことを聞くんだな。どれ一つとしてないぞ」
「自覚がないって恐ろしいわね」
そんなことを小声で話しながら、私たちは朝の森の中を先へと進んでいった。
太陽がどんどん高くなっていき、昼が近づいてきた。足を止めて手頃な物陰を探し、そこに腰を落ち着ける。こういった隠れ場を見つけるのは、森暮らしの長い私の方が断然得意だった。
「あなたは博識なんだな。俺も見習わないと」
「魔法の勉強に格闘術の鍛錬、さらに森での暮らし方まで学ぶ気なの?」
「何かの折に役に立つかもしれないだろう」
「そうね。後で教えてあげるわ。でもその前に、いい加減寝ましょう」
岩壁を掘って牢から逃げ出したのが深夜のことで、そこからなんだかんだで半日近く逃げ続けているのだ。鍛えているシーシェはともかく、私はもう体力の限界だ。眠い。
シーシェの持っていた保存食で手短に食事を済ませると、すぐに私たちは眠りについた。
そうして最低限の休息をとってから、私たちはまた歩き出した。やっと荷物扱いから解放されてほっとした。
時々開けた場所で空を見上げ、方角を確認する。どうやら私たちは、ずっと東に向かって歩いているらしい。
あの古い砦は王都の西の街道のすぐ北にあったのだけれど、今どの辺りにいるのだろうか。なんだか方角がめちゃくちゃだ。
そう思ってシーシェに尋ねたら、彼は立ち止まって地面に地図を描き始めた。
「王都から出ている街道は二つ。西門から西に延びる西の街道と、東門から北東に伸びる東の街道だ」
「そうね。私とファビオは西の街道から来たわ」
「ああ。そして砦は西の街道の北に位置していて、あの岩山はさらに北にある」
「あら、こんなところなの。西の街道からはかなり離れてしまっているわね」
「そうなんだ。そしてあなたが出てきたのが、その岩山の東で……」
「確かにここなら、東に向かうのが正解ね。ありがとう、シーシェ」
そうして説明を終えると、シーシェはまた東のほうを見た。また日が落ちていて、そちらはよく見えない。
「ともかく、東の街道にさえたどり着ければ大丈夫だろう。馬車を借りれば、王都まではそうかからない。路銀は持ってきているから心配するな」
「あら、路銀なら私も持っているわ」
手でお腹のあたりをぱんと叩きながら、にっこりと笑い返す。
「服の隠しに、いつも何枚か金貨や銀貨をしまっているのよ。いざという時のためにね。あちこち旅をしていると、こういう備えが癖になっちゃうのよ」
「ならば、今のところは何も問題なさそうだな。あなたのおかげで、当座の食料も手に入ったし」
「ふふ、森での暮らし方を教えるって言ったでしょう」
約束通り、私は道すがら色んなことを彼に教えていた。食べられる野草の見つけ方、魔法を使って魚を捕るこつ。シーシェは中々いい生徒で、すぐに食材を集められるようになっていた。
こうしていると、ヴィットーリオたちと辺境で暮らしていた時のことを思い出してしまう。
「……ヴィットーリオたちも、きっと心配しているでしょうね。早く戻らないと……」
思わずぽつりとつぶやくと、シーシェがはっきりと暗い顔をした。
「ああ、ごめんなさい。あなたを責めている訳ではないのよ」
全部あの長が悪いんだから、とこっそり心の中で毒づく。
「いや、俺もきちんと責めを受けるべきなんだ。長たちがあの砦を離れると決めた時、俺は結局長たちを止めることができなかった。それに、長たちとたもとを分かつこともできなかった。ただずるずると、流されてきた」
かすかな魔法の明かりが、シーシェのたくましい顔を照らしている。そこには、はっきりとした自嘲の色が見て取れた。
「先王陛下が亡くなられて、王宮をあの重臣たちが乗っ取った。そうして邪魔になった俺たちは追放されることになった。その時も、俺たちは逆らうことなくその命令を受け入れたんだ」
「でも、それは王宮に仕える魔術師としては当然のことでしょう」
「そうだ。でもその結果、俺たちは国の危機をただ遠くから眺めることになった。ヴィットーリオ様が追放された時も、どんどん国がおかしくなっていく間も、俺たちはただあの砦でなすすべもなく手をこまねいているしかできなかったんだ」
それはきっと、彼らにはとても辛いことだっただろう。有事の際に国を守るのだと、彼らにはそんな思いがあった。けれどその忠誠ゆえに、彼らは何もできなかったのだ。
「あなたのおかげで全ては丸く収まった。長たちだって、そのことは十分に分かっている。だが人間の心というものは、そう割り切れるものでもないんだ」
「……そうね。私が彼らの立場だったら、同じように考えるかもしれないわね」
「理解を示してくれて嬉しい。だから長たちは、今度こそこの国を守ろうとやっきになっているのだと思う。やっていることはまるで的外れで、むしろ状況を悪化させている気しかしないが」
「あなた、長に対しては結構辛辣ね? 一応はあなたの上司でしょう?」
「もともとそりが合わないんでな。長とも、組織に縛られるのも」
「分かる気がするわ」
そう言って苦笑し合った時、シーシェが足を止めた。見ると、すぐ先が小さな崖になっている。シーシェの背丈の三倍くらいの、小ぶりな崖だ。落ちないように気をつけながら下をのぞきこむ。ここを飛び降りるのは、ちょっと無理だ。
「回り込むのは面倒だし、転移の魔法で越えられるかしら? それとも、私が加工の魔法で階段を作るとか」
私の提案に、シーシェは笑って首を横に振った。
「いや、これくらいならもっと簡単な方法がある」
言うが早いか、彼はまた私を両手で抱え上げた。なんだかとっても嫌な予感がする。
「よし、行くぞ」
そしてあっという間に、彼は私を抱えたまま飛び降りた。とても気軽に、なんとも無造作に。
驚きすぎて悲鳴すら出ない。彼は鍛えているとはいえ、この高さから飛び降りて無事で済むとは思えない。ましてや、私という大荷物を抱えたままで。
「ほら、うまくいった」
けれど次の瞬間、彼はしっかりと両足で地面を踏みしめていた。見上げると、さっきまでいた崖の上が見える。
「なんで、どうして? シーシェ、怪我していないの? 飛行の魔法……は応用魔法よね。あなた、応用魔法は使えないんじゃ?」
混乱する私に、シーシェは白い歯を見せて笑う。
「ちょっとしたこつがあるんだ。落ちるのに合わせて、下向きに風の魔法を使うんだ。基本中の基本の魔法だから、俺でも使える」
「理論上は分からなくもないんだけど、試してみたいとは絶対に思わないわ……」
この数分で、どっと疲れた気がする。シーシェは私を地面に下ろすと、楽しげに笑いながらまた歩き始めた。
成り行きとはいえ、面白い人物と旅をする羽目になったものだ。これだから長生きはやめられない。
そんなことを思いつつ、もうずいぶんと先を行っているシーシェをあわてて追いかけた。




