44.彼の決断
ともかくも、バルガスの頼み事は無事に解決した。しきりに頭を下げ続ける彼らに見送られ、私たちは東の地区を後にして、大通りの宿に戻ることにした。
素晴らしく豪華な宿の食堂で、あきれるほど質素な夕食をとる。味は悪くないのだけれど、どうにもわびしい。ずっと国境が封鎖されているせいで、手に入る食材が限られているのだ。
だったらそのうち、ここもまた豪華な食事が出るようになるのだろうか。私たちの無茶でめちゃくちゃな行動の結果として。
複雑な気分は横に置いておいて、ひとまず今後のことについて話し合う。
「隣国に向かうのはいいとして……国境を堂々と通れるようになったんだし、このまま馬を買い取って馬車で進むのはどうかな? 僕もここからは詳しくないから、飛んでいたらうっかり見つかっちゃう可能性も高いし」
「そうね。隣国でまで目立ってしまったら大変ね」
ミモザと私がそう言うと、ロベルトがわざとらしいほど深々と息を吐いた。
「ああ、やっと普通の旅ができるのですね。情けない話ですが、ほっとしております。私はもう若くありませんし、やはり昼夜反転が続くのはこたえます」
和気あいあいと話す私たちの中で、ヴィットーリオだけが一人黙りこくっていた。
三人で話しながら、そっと目配せし合う。ミモザもロベルトも、困ったような悲しんでいるような顔だった。
このところ彼の様子がおかしいことには、みんな気づいていた。けれど、どう声をかけていいかが分からなかった。
だから私たちは彼の様子には触れずに、ひたすらに明るくふるまい続けていた。ここで私たちが深刻な顔をしてしまえば、きっとヴィットーリオはそれを気にかけて、もっと落ち込んでしまう。
どこか白々しい明るさに満ちた会話は、結局食事が終わるまで続いていた。
そうして、それぞれの客室に戻る。私とミモザで一部屋、ヴィットーリオとロベルトで一部屋。
私と二人きりになるとすぐに、ミモザが心配そうに眉を寄せて口を開いた。
「ねえ、ヴィットーリオだけど……あのままで大丈夫かな?」
「大丈夫じゃない気がするわ。ずっと一人で考え込んでいるし。悩みについて、誰にも打ち明けていないのが余計に心配なのよね……」
ついと視線をそらして、ため息をつく。
「誰かが一度、しっかりと話を聞いてあげた方がいいとは思うのだけど」
「だったら、あなたが行ってあげたらどうかな。悩みを聞かせてって、直接尋ねてみるんだ」
「私? ロベルトじゃなくて?」
ミモザの意外な言葉に、思わず聞き返す。彼はこくりとうなずいて、言葉を続けた。
「ロベルトはヴィットーリオの忠臣で、彼を守ることを何よりも優先させているよね。彼はここまで、必死になってヴィットーリオを守ってきた」
「そうね。彼がいなかったら、ヴィットーリオは生き延びることができなかったかもしれないわ」
「僕もそう思う。それでね、あの子はこんな風に思ってるんじゃないかな。自分が弱音を吐いてしまえば、臣下である彼が余計な苦労を背負ってしまうかもしれない、って」
なるほど、ミモザの言いたいことは分かった。そしてそれは、間違っていないとも思う。
「だから、私ということなのね。多少の苦労はものともしない……というか、ついつい苦労に首を突っ込んでしまうお人好しだし」
「しかも、それを見事に解決しちゃう、素敵な魔女様だからね」
「もうミモザったら、からかわないで。……それはそうとして、悩める少年の相談相手なんて、私につとまるかしら」
「大丈夫だよ、自信持って。僕がまだ小さかった頃、あなたはとても親切に面倒を見てくれたでしょう? あんな感じでいいんだよ」
「何十年前の話をしてるのよ。もう覚えてないわよ、そんなの」
「えっ、じゃあ僕が可愛かった頃のことも忘れちゃったの?」
ミモザが傷ついたといわんばかりの顔になり、上目遣いでこちらをちらりと見てくる。
子供の頃から変わらない、いたずらっぽくてほんの少しあざとい、そしてとても愛おしい表情だ。
「冗談よ。あなたと出会ってからのたくさんの思い出は、私の素敵な宝物なの。そう簡単に忘れたりするものですか」
「ふふ、ありがとう」
そうして二人、穏やかに微笑み合う。少しの沈黙の後、ミモザがゆっくりと口を開いた。
「……じゃあ、ここからはあなたに任せたよ」
「そうね。ちょっと行ってくるわ」
小さく手を振るミモザに見送られながら、いつも通りの足取りで部屋を後にした。
「ヴィットーリオ、少し話したいことがあるんだけど、今いいかしら」
隣の客室に顔を出すと、二人が同時にこちらを振り向いた。ロベルトはちょっと浮かない顔で椅子に座り、ヴィットーリオは相変わらず硬い表情で寝台に腰かけていた。
「はい、大丈夫です」
「できれば二人きりで話したいのよ。ロベルト、悪いんだけど私たちの部屋の方に行っててもらえるかしら」
「おや、秘密のお話ですか。ええ、でしたら私はミモザ様と親交を深めてまいりますね」
ロベルトが軽やかに立ち上がり、こちらへ歩いてきた。そうしてすれ違いざま、私の耳にだけ届くように低くささやいてくる。
「……ヴィットーリオ様を、よろしくお願いいたします」
どうやら彼は、私の意図に何となく気づいているようだった。そんな彼に目だけでうなずいてから、椅子を引き寄せてヴィットーリオの向かいに座る。
「ええっと、その、ね……」
そうして話そうとしたものの、どう切り出せばいいのか分からない。うかつなことを言ってヴィットーリオを傷つけたらいけないし。
考え込む私を、ヴィットーリオはじっと見つめていた。どことなく、落ち着かなさそうな表情だ。
居心地の悪い沈黙が流れる。しばらく考えて、あきらめて口を開いた。こうなったら、単刀直入に聞くしかない。いつもの私らしく。
「……その、最近何か悩みがあるんじゃない? 私で良ければ、いくらでも相談に乗るけど……」
ちょっぴりぎこちない私の言葉に、ヴィットーリオが目を見開いた。彼は薄く唇を開いて、何か言いかけて、けれど何も言わずにまた口を閉ざして。
そうして、また部屋の中が静まり返る。気まずい。どうしよう。やっぱり、失敗してしまったかも。焦りながら、次の手を必死に探す。
と、ヴィットーリオがぽつりとつぶやいた。窓の外を見つめたまま。
「……この街に来てから、私はずっと考えていました」
幼い声とは不釣り合いな大人びた口調で、彼はゆっくりと話し始める。
「かつて栄えたこの街は、狂った政治により死の寸前まで追い込まれています。国境を解放したことで商売を再開できるようになりましたが、それも長くは続かないでしょう」
淡々とそう述べて、悔しそうに唇をかむヴィットーリオ。
「いずれ王都から兵が差し向けられて、この小さな反乱は踏みつぶされて、それで終わりです」
ああ、その可能性に気づいてしまったのか。できれば気づかないでいて欲しいと、私たちはみんなそう願っていたのに。本当に彼は、賢い子だ。
「……この現状を知ってしまった今、自分の安全だけを求めて隣国に逃げ込むことは……できません。私は、ゆがんでしまったこの国を、変えたい」
苦しそうにうつむいて、消え入るような声でヴィットーリオはつぶやいた。そんな彼に、静かに問いかける。
「そう思うのは、あなたが王族だから? だから責任を取ろうと思っているの?」
もしそうだと彼が答えたなら、力ずくでも隣国に連れていくつもりだった。大人たちの馬鹿げた行いの責任を、こんな子供に取らせたくはなかったから。
けれどヴィットーリオは、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。私は一人の人間として、この街を、王国を良い方向に変えたいと思うのです」
少しの迷いもない声でそう言い切って、それからほんの少し口ごもる。
「私は、何の力もない子供です。けれど……今の王と面識があります。彼と話すことができれば、何かを変えられるかもしれません」
彼はそこまで言って、いったん口を閉ざす。やがてぎゅっとこぶしを握って、震える声で話し始めた。
「……私は……先王の息子で、かつては第一王子でした。けれど追放され、ただの一人の少年となりました」
私とミモザは、その事実を知っていた。けれどあえて、彼にはそのことを告げずにいたのだ。私たちの前では、ただの自由な子供でいて欲しかった。大人たちの思惑など、関係なしに。
「できることならずっと、貴女のもとでただの少年のまま生きていたかった。あの森での暮らしは、とても楽しかった」
一年にも満たない森での暮らしを懐かしんでいるのか、彼の声はとても温かで優しかった。けれど同時に、そこには隠しようのない悲哀がにじんでいる。
「でも、今の私には、もうその道は選べない……この国の現状を、知って、しまったから……」
彼は奥歯をかみしめたまま、静かに涙を流していた。
初めて会った日、私の胸にすがりついて泣きじゃくっていた彼の姿を思い出す。たった数か月前の、ひどく頼りない子供だったその姿を。
けれど今の彼は、体も心も、見違えるほどに成長していた。まだまだ幼さを残しているのに、そうやって一人で立っている様は、一人前の男性のようにすら見えた。
彼のこの決意は、きっと実らない。彼が王と会うことができても、何も変わらないだろう。この国を壊しているのは幼い王ではなく、その背後の者たちなのだから。
……背後の者たちを見つけ出して叩きのめせばあるいは、といったところだろうか。ヴィットーリオにはまず無理な話だ。でも王宮には詳しいロベルトと、それに私とミモザの力を合わせれば。
「……大きくなったわね、ヴィットーリオ」
どうなるかは分からない。でも、彼の望みをかなえてやりたいと思った。
あの頼りない子供が、危険を冒してでも国を、民を守りたいと言うようになった。その思いにこたえてやりたかった。
最悪どうにもならなかったとしても、そのまま王宮を逃げ出して、またここまで戻ってくればいい。そうしたら今度こそ隣国に逃げ込んで、そこでみんな一緒に楽しく暮らせばいい。
彼の横に座り直し、そっと肩に手を置く。かすかに身を震わせた彼の耳元に、穏やかにささやきかけた。
「行きましょうか、王都へ。大丈夫よ、私たちがついているから」
ありがとうございます、というかすかな声が切れ切れに聞こえてきた。彼はもう、私にすがりつきはしなかった。




