37.かりそめの平和
私の祈りが通じたかのように、それからも何事もなく日々は過ぎていった。
初めて畑の野菜を収穫した時、ヴィットーリオは感動のあまり涙ぐんでいた。
素朴な平民の服に身を包み、日に焼けたなめらかな頬に土の汚れをつけた彼は、野菜を手にしみじみとつぶやいていた。ほんのちょっぴり、悲しげに。
「私たちが今まで口にしていたものは、こうやってできていたのですね。誰かが額に汗して、手にまめをこさえながら作っていた……ずっと、知らずにいました」
「仕方ないわよ。私だって、ここに来るまで畑仕事なんてしたことがなかったもの」
ジュリエッタとして生まれ変わるまでは、ね。そんな言葉をこっそりと飲み込む。私の前世について唯一知っているミモザは、澄ました顔でちらりとこちらを見ていた。
「そうそう。知らなかったなら、これから知っていけばいいんだよ。僕だって、百年くらい前は何にも知らない子供だった。ジュリエッタにたくさんのことを教わって、今の僕があるんだ」
「はい、頑張ります!」
「ふふっ、応援してるよ」
「ああ、ヴィットーリオ様……立派になられて……」
「ロベルトは本当、感動しやすいのね。子供の頃から全然変わってないわ」
そんなことを言い合って、みんなで明るく笑う。平和だなあ、そんなことを思った。
それからヴィットーリオは、より一層仕事や勉強に精を出すようになっていた。
「ねえ、最近のあの子、少し頑張りすぎてはいないかしら? そろそろ止めて、無理にでも休憩させたほうがいいと思うの。体を壊したら大変だし……」
ある雨の日、ヴィットーリオは部屋にこもって勉強していた。大人三人は居間でくつろぎながら、のんびりとお喋りをしていた。
「止めなくていいよ」
「ミモザ様のおっしゃる通りです。本当に危なくなりましたら、私がお止めいたします」
なぜか、二人そろって首を横に振っている。いつになく息の合った動きだ。
「私には、もう危ないように見えるのだけれど……」
「まだ大丈夫。ジュリエッタは子供に優しいけれど、ちょっと過保護かもね。そんなところも素敵だけど」
「そうですね。その慈愛の心はとても美しゅうございます。ですが、どうぞ今しばしご静観ください」
二人によると、ヴィットーリオは一人前になるために頑張っているのだから、周囲がうかつに口を挟むものではないのだそうだ。この試練を乗り越えて、子供は大人になるのだとか。
「よく分からないけれど……ひとまず、あなたたちに従うことにするわ。でも、お茶をいれてあげるくらいならいいわよね」
話を聞き終えてそう言葉を返すと、ロベルトが心底嬉しそうな顔で言った。
「ああ、まるで子供を心配する母親のようですね。本当に、あなたがたにヴィットーリオ様をたくしてよかった……」
またしても涙ぐむロベルトと、それを見てくすりと笑うミモザ。今日もやっぱり平和だなと思いながら、私はそんな二人を見守っていた。
けれど、秋も深まったある日。私たちの平和を邪魔する者が、突然現れた。
その日、私たちは木の実を拾いに森の奥に分け入っていた。この時期だけしか得られない森の恵みを、ヴィットーリオたちにも味わわせてやりたかったのだ。
この森には、私たち以外の人間はまず足を踏み入れない。
なにせここは昔から魔物の棲む森として恐れられていたし、今では白い竜が棲む魔女の森として知られてしまっている。
こんなところに来るのは医者にさじを投げられてしまった病人か、ヴィットーリオたちのような訳ありだけだ。
だから私たちは、いつも気楽に森をさまよっていた。
人間に会う心配はしなくてもいいし、獣もミモザの気配を察してまず近寄ってこない。たまに、気の立った獣が襲ってくることもあったけれど、返り討ちにして晩御飯にしていた。
ところが、この日は違っていた。
「あれ? これって……」
木の実を集めていたミモザが、突然手を止めた。東のほうに顔を向けて、じっと遠くを見つめるような目つきをしている。
人の姿をしていてもあくまでも竜である彼は、人間よりずっと耳がいい。何か聞きつけたのだろうか。でもこの表情、ただ獣が出ただけとも思えない。
「ミモザ、誰か来たの?」
そう尋ねると、彼は難しい顔でうなずいた。心配そうに手を止めて彼の方を見ている二人に、そっと目をやる。
「うん。だけど……何か変だ」
やけに真剣なその声に、ヴィットーリオが顔をこわばらせた。
「一人二人じゃなくて、十人くらいはいるみたいだ。しかも、たぶん全員が武装してるね」
「武装? どうしてそう思うの?」
「みんな、派手に音を立ててるんだ。かちゃん、かちゃんって金属のぶつかる音が。ただ剣を下げているだけじゃなくて、鎧も着てる。病人の護衛かなとも思ったけれど、人数が多すぎる」
それを聞いて、ヴィットーリオたちが青ざめた。よろめく彼を、ロベルトが支えている。
「もしかして……私たちが本来の追放先にいないことがばれてしまったのでしょうか」
彼らは本来、街道の西の果てに追放されることになっていたはずだ。ロベルトが護送の兵士を言いくるめて、ここに放り込んでもらったというだけで。
緊張もあらわに寄り添いあっている二人に、明るく声をかけた。
「心配しなくていいわ。もしそうだとしても、私が追い返すから」
「そうそう、彼女はこの森で一番偉い魔女様なんだからね」
「あら、あなたはこの森で一番強い竜でしょう」
私たちが口々にそんなことを言い立てると、ようやく二人の肩から少しだけ力が抜けた。
「ともかく、何が起こっているのか確かめた方がいいわね。私とミモザが応対するから、あなたたちは隠れてついてきて。気配の消し方、ちゃんと覚えてる?」
獣を狩る時の心得として、二人には気配の消し方も教えていた。といっても私にはそんな芸当はできないので、もっぱらミモザが教えていたのだけれど。
二人が真剣な顔でうなずくのを見届けると、私とミモザは落ち着いた足取りで小屋に向かって歩き出した。こっそりと、首をかしげながら。
そうして歩いていると、小屋の前にとんでもないものがいるのが見えた。兵士たちがざっと十人、きちんと隊列を組んで整列していたのだ。
それだけならまだしも、彼らがまとっている鎧の装飾。あれって。
「ミモザ、大変よ。あれ、近衛兵だわ」
隣のミモザに小声でささやきかけると、ミモザが金色の目を丸くした。
「近衛兵って、王宮にいるっていう、王様を守る人たちだよね?」
「ええ。どうしてそんなものが、こんなところにいるのかしら……」
「空を飛べる僕たちならともかく、馬車だと結構かかるよね」
「そうね、どんなに急いでも一か月はかかるわ」
そんなことを話しながら、近衛兵たちの様子をうかがう。彼らは私にも分かるほどはっきりと、剣呑そのものの雰囲気を漂わせていた。殺気に近いかもしれない。
嫌な予感を覚えながら、ミモザを近くの茂みに残して、私一人で進み出る。近衛兵たちが、刺さるような視線を向けてきた。
そんな視線には構わずに、優雅に、堂々と口を開く。
「こんなところに何の用かしら。ここが魔女の森だと、知っているのでしょう?」
「お前が魔女か」
隊長とおぼしき男が、やけに横柄に答える。その一言にかちんときた。勝手に人の住処に上がり込んでおいて、その態度はないだろう。
いら立ちを隠そうともせずに、さらに堂々と答える。
「ええそうよ。見たところ、あなたたちの中に病人はいないようね。用がないならさっさと出ていってちょうだい」
「そうはいかん。この森に、追放された罪人がいるとの情報が入った。本来西の果てに追放されるべき者が、こちらに迷い込んでいるらしい」
ああ、やっぱりヴィットーリオたちのことがばれていたのか。でもどうして、わざわざ近衛兵がやってきたのだろう。
彼らはおそらく、ロベルトに言いくるめられた兵士たちから話を聞いているのだろう。ヴィットーリオたちがいったんここに逃げ込んだことについても、もう調べがついているに違いない。
だったら、そこをはぐらかすのは良い手とはいえない。
「元々この森は流刑地よ。罪人が増えたところで何か問題でもあるの? 場所が違うくらい大したことじゃないでしょう」
「問題ならある。我々は、その罪人を処刑するために遣わされた。魔女よ、罪人たちを知っているのなら居所を教えろ。隠し立てすれば、お前もただでは済まない」
処刑。その言葉に、すっと背筋が冷たくなった。いずれはそんなことになるかもしれないなとは思っていたけれど、こんなに早くその時がくるなんて。
「ところで、その罪人って誰のことかしら? それに、罪人を処刑しろ、という命令は誰が出したの?」
せめて、少しでも事情を聞き出さないと。明るく笑ったまま、しらを切ってみる。
「はるばる王都からここまで追いかけてくるなんて、その誰かはよほどその罪人に執着しているようだけど。きっと、かなりの重罪人なんでしょうね」
「我々に答える義務はない」
「そう。だったら、あなたたちはもう用済みね。さっさと帰りなさい」
誰かが、ヴィットーリオを処刑しようとしている。おそらく、王宮にいる誰かだ。
この森はもう安全とは言えない。彼らを追い返したとしても、また次の兵が送り込まれてくるだけだ。
早くみんなで、これからどうするか考えないと。
そんなことを考えていたら、近衛兵たちが一斉に剣を抜いて、私に向けた。そう言えばさっき、ただでは済まないとか何とか、そんなことを言っていたような。
「僕の大切なジュリエッタに何かしたら、許さないよ?」
そう言いながら、ミモザがするりと私の隣に立つ。
「その前に、私が片付けるわ。ちょっと腹も立ってたし」
ミモザにそう呼びかけながら、笑顔で手を宙に差し伸べた。
次の瞬間、近衛兵たちの頭上、何もない空中に無数の光の粒が現れた。それはまるで雪のように、音もなく近衛兵たちにはらはらと降りかかる。
光の粒は近衛兵に触れると、金色の淡い炎を上げてゆっくりと燃え上がる。命を奪うほど激しくはなく、しかしちょっとやそっとでは消えない魔法の炎だ。
静かに降る光の雪の中を、悲鳴を上げながら近衛兵が逃げ惑う。その喧騒を切り裂くように、声を張り上げた。
「あなたたちをここによこした人間に伝えてちょうだい。人間同士のもめごとを、この森に持ち込むことは許さない、と。これ以上私の手をわずらわせるのなら、こっちから王都に乗り込んでやるから」
近衛兵たちの顔に、恐怖の色が浮かぶ。うん、どうやらもう戦う気はなくなったみたいね。
今までは『魔女』の噂にたっぷりと尾ひれがついていることをずっと気恥ずかしく思っていたのだけれど、今ばかりはその噂に感謝したい気持ちでいっぱいだった。
魔女が人知を超えた恐るべき存在として知られているからこそ、こんな脅しも通用するのだ。もしこの噂がなかったら、それこそ全員半殺しとかにする必要があったかもしれない。
いい具合に彼らが圧倒されていることに、内心にやりと笑う。
それから、わざと表情を和らげて笑みを浮かべてみせた。はっきりと彼らが戸惑ったのを見届けて、甘く優しくささやく。
「……それに、この森には魔物が棲んでいるのよ。その罪人がどうしているのか知らないけれど、この森に迷い込んだのなら、もう生きてはいないと思うわ。上にはそう報告したらどう?」
「そ、それも一理あるな」
私の言葉に逃げ道を見出したらしい隊長は、大いにうろたえた声でもっともらしくうなずく。
肩で燃えている金色の炎を必死にはたいて消そうとしながら、それでも精いっぱい威厳を出そうとしているのが、どうにもこっけいだった。
そうして隊長は、背筋を伸ばして叫んだ。
「我らの任務は完了した。総員、撤退!」
そして驚くほどの速さで、彼らは森から出ていってしまった。すぐに、元通りの静寂が辺りに満ちる。
その静寂を破るようにして、ヴィットーリオたちが後ろから現れた。その顔は、かわいそうになるくらい青ざめていた。




